私はあなたの名前しか知らない。
 どこかで逢った気もする。
 デジャヴ。
 風が運ぶ悪戯な運命。
 神様、もし本当にいるのなら聞いてほしい。
 お願い…どうか今の平凡な日々を壊さないで。

          2

 森に囲まれた小さな村で、ティルニア=ボルドーは生まれ育った。
 今は村の教会で僧侶として働いている。
「ティル、そろそろ一休みしましょう」
 同じく僧侶のレナス=テンがティルニアに声を掛けた。
「うん、じゃあ私がお茶をいれるわね」
 ティルニアは美人で気立てが良く、村の青年たちの間で人気がある。しかし、本人はそんなことには無関心で、特に恋人が欲しいと思ったこともなかった。
 人々のためになる事をしたい。
 ティルニアはいつもそう考えていた。
「テン、カップを用意してくれる?」
 そう言ってティルニアはお湯を沸かし始めた。
「どなたかいらっしゃいますか?」
 教会の入口の方で男の声がした。
「あ…はい、ちょっと待って下さい」
 ティルニアが入口へ行くと、そこには一人の青年が立っていた。
 長いブロンドの髪に深い緑色の瞳。かっこいいと言うよりもむしろ美しいと言う言葉が似合うその青年は、ティルニアを見ると小さく笑いかけた。
「私は旅の者なのですが、実はこの辺りで宿を探しておりまして…もしできましたら教会にでも止めていただけないかと」
 青年がそう言った。
「え…とそれは構わないんですけど、夜は誰もいなくなりますし」
 ティルニアは思わず青年に見惚れそうになった。
 この世にこんな美しい人がいるものなのか…と、心の中で呟いた。
「他に泊まれる場所があればそちらでもいいのですが」
「それなら村長さんに言うといいわ。きっと歓迎してくれると思います」
 実際、この小さな村では訪れる人がほとんどいないので、こういった旅人は大歓迎なのある。
「ありがとうございます」
 青年はほっとしたような顔で笑った。
「申しおくれましたが、私はリザロといいます」
「私はティルニア。ここで僧侶をしてます。ちょうどいいわ、今からお茶をいれるの、良かったらあなたもどうぞ。それから村長さんに紹介するわ」
 ティルニアの言葉にリザロは頷くと、教会へと入った。
「素敵な教会ですね」
 そう言ってリザロは辺りを見回した。
 入ってすぐ正面には人間と同じ位の天使像が建っていた。鎧をまとい、手には武器を持つ能天使の像である。
「人々をデーモンから守護する能天使の像ですか」
「よくご存じなんですね。普通はただ天使としか見ないんですけど」
 嬉しそうにティルニアが言った。
「ティル、お客さんですか?」
 奥の部屋からテンが顔を出した。
「リザロといいます。旅の者ですが、しばらくこちらに滞在したいと思ってまして」
 そう言ってリザロは軽く会釈をした。
「そうですか、こんな小さな村に来てくれて歓迎しますよ」
 テンはにこやかにそう言ってリザロの手をとった。
「彼は村長の息子さんなの。ねぇ、彼を泊めてあげられる?」
「もちろんですよ。その代わり、ぜひ他国の話を聞かせて下さい。あ、自己紹介がまだでし
たね…僕はテン。レナス=テンです」
 その晩、村長の家に泊めてもらったリザロは今まで歩いた国の話をテンに聞かせた。
 森で出会った魔物や、旅先で出会ったさまざまな人の話。
「魔導士ナタクに会ったんですか!?」
 レナスは驚いたようにリザロに尋ねた。
 この世界で最強の魔導士。すでに伝説として語られている彼にまつわる数々の話。
「彼は今、さまざまな国から命を狙われています」
「彼がですか?」
「強い過ぎるというのも悲しいですね。彼がもしどこかの国に味方した時のこと
恐れているんですよ。だから命を狙うんです」
 リザロの言葉を、レナスは信じられないという表情で黙って聞いていた。
「力があるってことも大変なんですね」
 レナスが小さく言った。
「それでもまだましですよ…人間界は」
 リザロがさりげなく言ったその言葉を、レナスは聞き逃さなかった。しかし、それがどんな意味を持つのか尋ねることはなかった。
 ただこの不思議な青年が、そこらにいる旅人とは違うことを感じていた。
 それから三日ほど過ぎて、リザロが村に慣れ始めた頃、もう一人の旅人が教会を訪れた。
 頭から深くマントをかぶり、その顔を見せないようにしていた。
「あの…何かご用ですか?」
 リザロの時とは違い、その男の異様な姿にティルニアは少し恐怖を感じていた。
「ティルニア=ボルドーですか?」
 その男は声を低くしてそう尋ねた。
「そうです…けど」
 ティルニアがそう答えると、男は少し顔を上げた。
 マントからわずかに見えるその肌は色白で、透き通るような栗色の髪。
「あなたの父上にお会いしたいのですが」
 男が言った。
「父に…ですか?」
 男の予想外の言葉に、ティルニアは少し驚いた。
「使者が来た…とそう言っていただければわかると思います」

  その得体の知れない旅人を連れ、ティルニアは自分の家へとやって来た。
「どうしたんだいティル。忘れ物かい?」
 庭で仕事をしていたカリア=ボルドーが顔を出した。
「お客さん…お父さんに」
 ティルニアに言われて、カリアはその後ろに立っている男に目をやった。
「リ…リッド?」
 カリアは信じられないという眼差しで男を見た。
「久しぶりですね」
 先程とは違く、自分の素直な声でそう言った。
「ティル、お前は教会に戻ってなさい」
 カリアが言った。
「でも…」
「彼は父さんの古い友人なんだ。二人でゆっくり話がしたい」
 そう言われて、ティルニアは教会に戻ることにした。
「ティルニア」
 突然の声にティルニアははっとして振り返った。
「どうかしたんですか?」
 そこにいたのはリザロだった。
「何でもないです」
「先程一緒に歩いていた方は?」
 リザロが尋ねた。
「父の友人だそうです」
「そう…ですか」
 そう答えたリザロの目は、いつもと違うように感じた。
「そうだリザロさん、買い物につき合ってくれます?村では物が少ないんで街に買い出しに行きたいんですけど…一人では大変で」
「近くに街があるんですか?」
「一時間ほどかかるんですけど…」
 ティルニアは少し悪いかなと思いながらそう言った。
「構いませんよ。私なんかでよければ」
 そう言ってリザロは笑って見せた。
 何て素敵に笑う人なんだろう。
 出会った時からティルニアはそう思っていた。
「すぐ行くんですか?」
 リザロの言葉にティルニアは頷いた。
「じゃあ早く行きましょう。日が暮れてしまうと大変ですからね」
 

「こんなものかしら」
 買ったものを確かめながらティルニアが言った。
「じゃあ少し休んでいきましょう。私がおごりますよ」
「いいんですか?」
 嬉しそうにティルニアがそう言った。
 村と違って、街は大勢の人で賑っていた。
「あそこの店に入りましょう」
 二人はリザロが指さした小さな店に入ろうとした。
 その時だった。突然一人の女がティルニアに斬りかかってきた。
 とっさに避けたティルニアは、その場に座り込んでしまった。
「運のいいお嬢さんね、でも次は死んでもらうわよ」
 そう言うと、女は再び斬りかかろうとした。
「おやめなさい」
 リザロがティルニアを庇うように女の前に出た。
「キャティアの戦士ともあろう人が、こんな街中で殺人を犯そうというのですか?」
 その言葉で、ティルニアは初めて女が有尾人・キャティアであることに気付いた。
「邪魔をするならお前も斬るぞ」
「できるんですか?メディアさん」
 そう言ったリザロの口調は少し冷たいものがあった。
「何故名前を…!?」
 女は驚いた顔でリザロを睨んだ。
「まさかお前…そうか、なるほどな」
 女はそう言うと剣をしまった。
「今日はこれで帰るとしよう。相手が悪過ぎる」
 少し笑ってそう言うと、女は人ごみの中に消えていった。
「けがはないですか?」
 リザロがティルニアに手を差しのべた。
 ティルニアはやっと立ち上がると、何が起こったのかわからないという顔でリザロを見た。
「早いうちに村に戻りましょう。またいつ襲ってくるかわかりません」
 そう言われてティルニアはただ首を縦に振った。
 村に帰る途中、二人はずっと黙っていた。
 何故自分が襲われなくてはいけなかったのか、あの女戦士のことを何故リザロが知っていたのか。
 ティルニアには訊きたいことが山ほどあった。
 村に着くと、二人は何もなかったかのように別れた。
 ティルニアが家に帰ると、昼間の旅人はもう帰った後だった。
「お客さんはもう帰ったの?」
「ん?ああ、帰ったよ」
 そう答えた父親が、どこかぎこちないことに気付いた。
「父さん?」
「そろそろ夕食にしよう」
 次にそう言った父親の表情は、いつもとなんら変わりのない顔だった。
「うん、そうだね」
 ティルニアも何もなかったようにそう言った。
 何も気にすることはない。いつもと何も変わらない。
 ティルニアはそう思いたかった。

  翌朝、ティルニアがいつものように教会へ向かうため家を出ると、家の前にリザロが立っていた。
「おはよう」
 出会った時と変わらない笑顔で、リザロがそう言った。
「おはよう」
 ティルニアも笑ってそう言った。
 大丈夫、いつもと変わらない。いつも通りのやさしいリザロだ。
 そう思った。
 しかしティルニアはリザロのことをまだよく知らない。何故旅をしているのか、何処から来て何処へ行くのか。
「ティルニア、実はそろそろ村を出ようと思うのですが」
「え?」
 思い掛けないその言葉に、ティルニアは一瞬何のことだかわからなかった。
「この村でいつまでもお世話になるわけにもいきませんからね」
 そう言ってリザロは微笑んだ。
「どうして…まだいいじゃないですか。せっかく知り合えたのに」
「ありがとう。でも決めたのです。テンにはもう別れを言ってきました。ここにはいられないんです、今日中に村を出ます」
 ティルニアはその言葉を黙って聞いていた。
 いつの間にか、この旅の青年に心魅かれるようになっていたことに気付いた。
「最後にもう一度教会に行ってきます」
「待って、リザロさん。私も行きます」
 二人は教会へと歩き出した。
 教会に着くと、リザロは無言のまま天使像に歩み寄り、そっと目を閉じた。
 祈りを終えると、リザロはティルニアの方を見た。
「それじゃ行きます」
「待って下さい…最後に聞いてほしいことがあるんです」
 ティルニアはそう言ってうつむいた。
「私…」
 自分がリザロのことを好きになったことを告げようとした。
「ダメなんです」
「え?」
 ティルニアが顔を上げると、リザロが悲しそうな目で笑っていた。
「私じゃダメなんです。そして今のあなたでも…」
 まるでティルニアの言おうとしていたことを知っていたかのように、リザロはそう言って首を横に振った。
「いつか本当の自分に出会った時、それまで何も言わないで下さい」
 そう言うと、リザロは教会を出た。
「見送りはここまでにして下さいね。別れが辛くなりますから」
 リザロが言った。
「そうそう、言い忘れるところでした。昨日の彼女がまた襲ってくるかもしれません。気をつけて下さい」
 その言葉にティルニアは無言で頷いた。
「嵐が…」
「え…?」
「嵐が来るかもしれません」
 そう言ったリザロの目は、真剣そのものだった。
「それじゃ元気で」
 リザロはそう言うと、振り向くことなく歩き出した。
 ティルニアはその背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立っていた。
「嵐…?」
 リザロが残した言葉を胸に、ティルニアは空を見上げた。

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