プロローグ 
         
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        「もう、ここにはいられないな・・・」 
        まだ温もりが残る骸を横目に、彼は呟いた。 
        見つかる前に、ここを出なければ。 
        セキュリティシステムは作動していない。 
        今まで彼を縛り付けていた戒めは、既に灰となって地に吸い込まれていた。 
        チャンスは、今だけだ。  
        ---ドウシテモ、イクノカ?--- 
        廊下の真ん中にいた、白い小さな影が、彼の行く手を遮った。 
        「ああ。今まで世話になったな」 
        愛しい恋人を見ているような眼差しで、彼は応える。 
        やり残したことはあるけれど。 
        少し時間を置く必要がある。 
        「システム、止めておいてくれてサンキュ」 
        ---シッテイタノカ--- 
        後で自分が怒られることも知っていたけれど。 
        自分が、次の実験動物に使われるであろうことも解っていたけれど。 
        それでも、彼の脱出を手伝わなければ、一生後悔していただろう。 
        だから、システムを壊した。 
        ---ハヤク、イケ。ヤツラガクルゾ--- 
        「ああ、わかってる」 
        そう言うと、彼は目の前にいた小さな身体をひょい、と持ち上げた。 
        ---ナッ、ナニヲスルンダ!--- 
        「決まってるだろ、お前も一緒に行くんだよ」 
        ---エ?--- 
        「跳ぶぞ」 
        相手に応えを聞かないまま、次の瞬間、彼は窓を突き破っていた。
         
        紫色の雷雲が轟く。 
        以前見た、彼がこの世界に来た時と変わらぬ美しさで。 
        このままでは、すぐに見つかってしまうだろう。 
        「隣」に、行こう。 
        少しの時間稼ぎくらいはできるはず・・・。 
        ---カイ、アブナイッ!--- 
        腕に抱えていた小さな獣が、声にならない声で叫ぶ。
         
        ドン、という音がした。  
        そして雷雲は跡形もなく消え去り、空には静寂が戻っていった。 
        赤い、空とともに。  
        出口が、見えるよ・・・。 
        あそこなら、きっと・・・。 
         
         
        2  
        凄まじいブレーキの音が鳴り響く。 
        切れかけて点滅している街灯の真下で、その出来事は起こった。
         
        鈍い衝突音と共に、一人の少年の身体が跳ね飛ばされていた。 
        逃げるように去っていく車のエンジン音が、少年の耳に微かに入っていた。 
        身体は動かない。  
        学校から駅に向かう途中の、小さな路地。 
        人気はなく、猫の仔一匹すら見当たらない。
         
        3年目ともなり、身体に馴染んでいた制服が、赤黒く染まってゆく。 
        赤い体液に塗れた鞄。 
        身体中を激痛が走る。 
        助けを呼ぼうとしても声が出ず、呼吸音だけが虚しく空に吸い込まれていった。 
        俺は、死ぬのか・・・? 
        指先から体温が失われていくのがわかる。 
        瞼が重い。 
        その生気を失いつつある瞳に最期に写ったものは。 
        紫色の、光。  
        月だけが、全てを見ていた。 
        優しく、温かい光を注ぎながら・・・。  
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