第1章
生田家の朝は、いつもと同じだった。
コーヒーの香りと、トーストの香ばしい香りが入り混じる中で響く、母の声。
「紗夜香っ、いつまで寝てるの!遅刻しても知らないわよっ!」
「ん〜・・・」
階下から聞こえる声に反応して、布団がもぞもぞと動く。
目覚ましは、既に止めてある。布団の中からにゅ、と手を伸ばし、寝ぼけ眼で時間を見る。
八時。
次の瞬間、布団は跳ね上がり、数十秒後にはドタバタという音と共に、制服に着替えた紗夜香が階下に降りてきた。
肩より少し下まで伸びている、自慢の黒髪。今朝はそれが微妙にハネている。
急いでブローして、形だけ整え、玄関に向かう。
「はい、朝ごはん」
「ごめん、食べてる暇なーい!」
行ってきまーす、という声と足音が遠ざかってゆく。
足音が聞こえなくなった頃、新聞を閉じた父がぽつりと漏らした。
「まだ、見つからないみたいだな、稔くんは・・・」
「そうね・・・。あの子、口には出さないけれど、かなり心配しているのよ。今まで全然見向きもしなかったニュース見て。・・・夜も、あまり眠れていないみたいだし」
紗夜香の分として焼いたトーストを口に放り込み、母が応える。
隣に住む倉橋家の一人息子、稔が突然行方不明になってから既に一ヶ月。
学校から出た彼の消息が、突然わからなくなった。
夜中になっても帰らない両親が警察に届け出たが、手がかりは全く掴めず、ついに昨日、捜索「一時打ち切り」という形になった。
再開の予定は、今のところない。
家出なのか、それとも事故に巻き込まれたのか。
前者は動機がない。後者はそれらしい足跡を残していない。
警察が全力で調べ上げても、何も見つからなかった。
まるで神隠しにでもあってしまったかのように。
ブラウン管の向こうのキャスターは、淡々とした口調でニュースを読み続ける。
「次のニュースをお伝えします。本日未明、都内で火事があり、住宅一棟が全焼。男性一人が全身に大火傷を負いました。この男性は部屋に住む原田卓さん、28歳と見られており警察では身元と共に、出火原因を調べております・・・」
「おはようございます〜・・・」
既に始業のチャイムが鳴り終わっている教室の扉を恐る恐る開けながら紗夜香は教室に入った。
1限は幸か不幸か、担任の授業である。三島教諭がチョークを持ちながら振り向き、
「早くないぞ生田」
と言うと、教室内に笑い声が響いた。すいません、と小さな声で言ってから、紗夜香は席についた。
教師が笑いながら出席簿にチェックを入れる。その後は再び教室内は静かになった。
チョークが黒板と掠れあう音だけが教室内に響き渡る。試験前なせいか、生徒は皆真剣だ。
時折教師が「ここは出すぞ」と告げると、にわかにざわめき、チェックを入れていた。勿論、紗夜香もその一人である。
しばしの静寂と、少しの乾いた音と、教師の声が入り混じった時間が流れた後、終業を告げるチャイムが鳴った。教師は出席簿と教科書を閉じ、チョークをケースにしまうと、委員に合図を送った。
「起立、礼」
委員の声を合図にするかのように、、教室内は途端に騒がしくなった。
友人の元に走りより、会話を始める者。教師の所に行き、質問をしている者。次の授業の準備を黙々と始める者。先刻まで同じ行動をとっていた生徒達が、各々の思うように行動を始めた。
「あー、生田」
生徒の質問を終え、職員室に戻ろうとした教師の足が一旦止まり、紗夜香を呼んだ。
「はい?」
未央の所でお喋りをしていた紗夜香が振り向く。
「転校生に学校案内しておけ。放課後でいいから」
頼んだぞ、と言い残して教師は教室から出て行った。
「転校生・・・?」
「あっ、そうそう。今日来たのよ。ほら、あそこ」
呆けている紗夜香に、未央が教室の端を指差す。
「今ごろ?」
「うん。麻岡君っていうのよ。結構カッコイイよね」
指差された先には、一人の男子が座っていた。時折窓の外を眺めながら、何やら難しそうな本を読んでいるが、女子の何人かが彼の周りを囲んでいた。
「前の学校って、どこだったの?」
「編入試験、凄かったみたいね」
「彼女いる?」
お約束の質問責めにあっているようだった。容姿が良いせいか、集まっているのが女子ばかりだ。
「さっきもあんなだったのよ。イチのグループが陣取ってて、誰も近づけないの」
未央が呆れたように言う。彼女達はお構いなしにきゃあきゃあ騒いでいた。
「悪いけど」
囲まれていた男子が、初めて口を開いた。
「騒がれるのって、好きじゃないんだ。自己紹介はもう終わってるんだから、放っといてくれないか」
厳しくピシャリと言い放った。気圧されて、女子は散らばっていった。
(うわ・・・)
「・・・いい気味」
冷や汗を流す紗夜香の傍らで、未央が冷たい視線を市川冴子達に送っていた。
(あんな人の案内するの・・・?)
時は放課後。沈みかけた夕陽が校舎を赤く染め、グラウンドでは運動部が片付けを始める頃、校舎の中では二人の足音が響いていた。
「ここが化学室・・・、こっちが資料室で、突き当たりが音楽室。・・・こんなもんかな」
教室の案内を一通り終え、確認するように振り向いた。
転入生、麻岡鷹介は、物珍しそうにキョロキョロと見回している。
「・・・・・・?」
その様子では、学校など通ったことないように見える。
それとも、ただ単に少しずれている人物なのだろうか。
まさか。
容姿は確かに悪くない。むしろ、中よりかなりの上に位置するだろう。
少し茶色かかった髪はサラサラしており、色素の薄い瞳の色が伴い、かなりの秀麗さを醸し出している。どこか外国の血でも混じっているのだろうか。
「・・・・・・生田さんってさ」
突然、鷹介が紗夜香を呼んだ。
「なに?」
「下の名前、何ていうの?」
「紗夜香・・・だけど」
突然の質問、しかも何の脈絡もないものに、多少訝しげになりながら紗夜香が答える。
「ふーん・・・」
鷹介はそれきり話を続けようとしない。何か考えているようでもあったが、傍から見ると何も考えていないようでもあった。
何が、言いたかったのだろう。
全く掴めない人物であった。
できればあまり関わりたくない人種であることを、紗夜香は無意識のうちに感知していた。
「他は、どこがあるの?」
紗夜香の目前に顔をひょい、と出して鷹介が聞く。その顔は見たことのない笑顔だったということもあり、不意打ちに驚き、紗夜香は一瞬転びそうになった。
「あっ、後は特にない。それじゃあ、私は帰るから、ばいばいっ!」
不意をつかれたとはいえ、顔が赤く染まりかけていることを悟られないように、紗夜香は踵を返して走り出そうとした。
(ひなたの匂いがした・・・)
あまり男性に慣れていなかった女子高生は、こういった現象に弱い。
突然に見せられる、あまりにも無邪気で、そして男性特有の匂いというものを、敏感に感じ取ってしまう自分が、少し悲しくも感じる。
それを必死で隠そうと、逃げるようにその場から離れようとしていた。
案内は終わっているのだから、問題はない。
一刻も早くこの感情を抑えたかった。
稔・・・。
その刹那。
キィン、と、空気を裂くような音が聞こえた。ような気がした。
感知したと同時に、目の前のガラスが割れた。
大、小、粒子。
様々な破片が、我先にと紗夜香に向かって牙を剥いた。
動けない。
運動神経には自信があるのだが、こういう場合、それは無力に等しい。
鳴をあげる間もなく、無意識のうちに紗夜香は目を瞑った。
一瞬が、とても長いものに感じられた。
「・・・・・・?」
しかし、一向に衝撃が感じない。
破片が落ちたような気配もない。
紗夜香はそっと目を開いた。
「・・・っ!?」
言葉を失った。喉の奥が凍りついたような気がした。
彼女の目の前に広がっていた光景。
まるで一枚の写真のように、破片の全てが空中で静止していた。
その向こうでは。
彼の瞳が紫色の光を放っていた。
次の瞬間、ガラスの破片は粉々に砕け散り、野球のボールと一緒に廊下に落ちた。
(何・・・今の・・・・・・)
へなへなと腰が床についた。外から男子の声が聞こえている。
「危ねえだろっ、気をつけろ!」
鷹介が穴の開いたサッシから怒鳴り、ボールを拾って投げる。すみませーん、という2,3人の声が返ってきた。
「・・・・・・」
背筋がぞっとした。足がガクガク震えてくる。
頭の中が真っ白になる。
「大丈夫か?でも、当たらなくてよかったな」
鷹介が何事もなかったように手を差し伸べてくる。瞳の色は深い茶色に戻っている。
でも、さっきは確かに。
反射的に、紗夜香は彼の手をはらっていた。
鷹介の顔が、さっきとは一転して、冷たい、険しいものになる。
「・・・見たのか?」
低い声を発し、紗夜香の腕を掴む。
振りほどけない。容赦ない、男性の力。
「はなしてよっ・・・!」
力が、欲しい。
今、ここから。彼から、逃げられる力が。
腕は掴まれたままだ。
身体の奥が熱い。
彼女の心に反映するように、身体に変化が起こった。
「・・・・・・なにっ!?」
鷹介の手が一瞬緩む。その瞬間を狙ったかのように彼女の内側から発せられたものが、彼を壁まで一気に押し運んだ。
声をつく暇はなかった。壁の衝撃が、彼の意識を一瞬失わせたからだ。
(今なら逃げられる・・・)
紗夜香に、自分が何かしたという意識はない。都合の良い状況になったということだけ確認できたので、なるべく音を立てない様に、できるだけ急いでその場を去っていった。
久しぶりだ、この感覚。
鷹介の拳に、微かに力が入った。
校門の所まで来ればとりあえず人目はつくから大丈夫だろう。紗夜香は全力疾走していた足を止めると、荒くなっていた呼吸を整えた。ゼエゼエという音が校舎まで聞こえそうだ。
門に寄りかかっていると、不意に肩をポン、と叩かれた。ビクッとして顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。泥だらけのスニーカーを履いて、肩からはサッカーボールを提げている。ネームプレートの色で判断して、2年生だ。
「紗夜香じゃん、どうしたんだよ。こんな時間にいるなんて珍しい」
「・・・・・・悟」
見慣れた顔。ほうっと深く息をついた後、紗夜香は悟の腕の中に倒れこんだ。安心して一気に力が抜けたのだ。悟は慌てて彼女の身体を支えると、
「おっ、おい!どうしたんだよ!何かあったのか!?」
呼びかけるように叫んだ。
言った方が良いのだろうか。言っても良いのだろうか。
腕の中で、朦朧としている意識の中で考える。
誰かに聞いて欲しかった。悟はそういう点では最良の相手であった。
しばしの沈黙の後、紗夜香はゆっくりと、重々しく口を開いた。
「超能力?」
時間帯からして、子供の数はない。その代わりに犬の散歩や、デート帰りのアベック達が集う公園に、悟の声は小気味良く響いた。近くに居た人たちの何人かは、ベンチに座る高校生二人組に視線を移した。紗夜香は悟の口を塞ぐと、思いっきり後悔の念を込めた溜息をついた。
「ふぁなふぁなふぁよひゃっはほほほってるひゃりょ」
話さなきゃ良かったと思ってるだろ。
「・・・思ってるわよ」
手を離され、ぷはっと息をついてから、悟は真面目な顔をして紗夜香を見た。
「第一、紗夜香って、そんなの信じてたのかよ!?」
「だって、目の前で見ちゃったら・・・」
何あれ。
どうしたんだ。
痴話喧嘩か。
周りの人間は奇異の目で二人を見る。しかし、いつしかその姿もなくなった。
いつの間にか公園には二人しかいなくなっていた。陽の光も絶え、街灯が淡い明かりを灯し、制服の高校生がいるには少々不自然に感じられた。
「・・・とりあえず今日は帰ろう」
話はあとでまたゆっくり聞くから。
平常心を保てないでいる紗夜香を案じて、悟が促した。紗夜香が黙って首を縦に振ると、彼は彼女の手をそっと握り、立ち上がらせた。
夜の公園は、昼間とは全く違った顔を見せる。散り始めた桜の花びらが風に舞い、雪のように二人を包み込んでいる。何気なく見るものでも、それは相当美しく感じられた。
紗夜香を肩に抱きながら、悟はほうっと溜息をついた。ザワザワと木々が音を立てて、二人に向かってきていた。
「・・・ん?」
微かな異変を感じた悟の足が止まる。
樹木から伝わってくる、風のざわめき。
その隙間から感じる気配は、まるで樹の間をぬって進んでくるように、二人の方にやってきた。
この公園に野生動物がいるなんて聞いたことがない。
微かに聞こえる羽が擦れあう音。
鳥・・・?
こんな夜に飛ぶ鳥なんて、知らない。
それなら、この音は一体・・・。
「悟・・・?」
紗夜香が不安を感じてそっと顔を上げる。その視線の先では、彼が険しい顔をして一点を見つめていた。
悟は先刻の紗夜香の話に対して、半信半疑だった。
でも、今、目の前にいるのは。
樹の上から二人を見ているものは。
「信じるしかないのかね・・・」
「なにが?」
「さっきの話」
言っている意味を飲み込めないまま視線を彼に合わせた紗夜香は、そのまま言葉を失った。
猫。
鳥。
そのどちらとも言い難い姿をしたモノ。
月明かりを背に、彼らに向かって淡い光を放っているものは、少なくとも、紗夜香も、悟も知っている種の生き物ではなかった。
一見、猫に見えるが、その背には美しい翼を生やしている。短い足に指は無く、爪だけが異様に長い。二本ある尾に、何もかも見透かしそうな澄んだ色をした瞳。そして頭の頂には一本の輝く黄金色の角。
どう見てもこの世界に生息する生き物ではない。
しかし、化け物という印象も無かった。
彼はしきりに鼻とヒゲ、耳をピクピクと動かし、何かを探っているようだった。
そして、周りに誰もいないのを確認すると、音を立てずに、ふわりと二人の前に舞い降りてきた。
一定の距離を保ちながらも、逃げる気配は無く、ただじっと見つめていた。
「・・・テレビ局にでも連れてくか?」
悟が緊張をほぐそうと、冗談めいて囁く。
「・・・・・・ばか」
どれくらい過ぎただろうか。二人も、一匹も動かず、見つめ合う時間が続いた。
やがて、風が唸り始めた。螺旋を描くように蠢くそれは、桜の花弁を取り込み、その獣を包み込んでいき、彼と共に消えた。
残ったのは、闇色と、静寂。
月の光は雲に隠れ、輝いているのは街灯だけだった。
「・・・何だったの?今の」
ようやく紗夜香が口を開いた。
「オレがわかるわけないだろ」
「まあね・・・」
公園の中心にある時計塔の針は、もう八時半を示していた。
「帰ろうぜ。オレ、腹減ったよ」
鞄とボールを手にとり、悟が唸った。
紗夜香も頷き、後に続いた。
「そういえば、あんたそろそろ誕生日じゃない?」
「へえ、紗夜香が覚えていたとはね」
「弟の誕生日忘れるほど英単語詰め込んでないよ」
「あ〜そうかい」
「何か欲しいものある?お姉ちゃん買ってあげるわよ」
「バイク」
「そんな高いのダメ。第一、まだ免許とってないでしょ」
「免許取りたいんだけどなー。母さんがなー・・・」
二人が他愛ない話をしながら公園を去ってゆくのを、樹の上から見ている白い動物の姿があった。
---アノムスメ・・・"カイ”トオナジモノヲカンジル・・・---
「エテル」
樹上に向かって呼ぶ声がした。街灯の光が、長身の影を一層長いものにして地面に写している。
---ヨウスケ---
その声を聞きつけ、その動物は躊躇いもなく地に降り立つ。
---キニナルネ、アノコ・・・---
「そうだろう」
彼を肩に導き、学生服のままの鷹介が答える。
---アタッテミル、ヒツヨウハアル・・・---
「ああ、わかってるよ」
風が冷たく舞っていた。桜の花びらは何処にか消え、乾いた音だけがサワサワと響いていた。
それに代わるかのように頭上で輝きを取り戻した月。
満月は近い。
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