葛屋神謳会「松山くに」さんの記録
日本教愛子第一号「長島はつ」さんの娘】

 先日、「長島はつ」さんの娘さんの「くに」さんは葛屋神謳会の松山家に嫁がれました。第三青年会が40周年成長記念祝賀祭を記念して発行しました記念誌
「可茂の交響誌」に掲載された原稿を紹介させて戴きます。


 昭和25年当時、私(くに)は出産後の体調がすぐれず、8ケ月寝たままの状態でした。
方々の邪電にもすがり、言われるままに夫婦とも改名までしましたが、当然よくなることはありませんでした。
神淵の実家の母(長島はつ)が御母のことを知り、お願いをすると、本人を連れて来いとの事で、2月28日に秀夫が自転車に乗せて参座しました。その時は、私(くに)の体調もふらふらで、3時間かけてようやくの事で本部へ着けるような状態でした。それでもすがるような思いで参座しました。その日は本部に泊めて戴き、御母もいろいろなお話をして下さいました。14日たったらもう一度参座するようにと言われ、今度は自分の力で参座できました。御母からは2通お便りを戴き、治療への心構えを細かく教えて戴きました。
そのお便りを「毎日一度は読み、袋を作って首にかけておれ。」との事で、まだ御寶典のない時代、御寶典のかわりにかけていました。そのお便りは今も家宝として保存してありますが、毎日読んでいたので紙もぼろぼろになってしまいました。御母のおっしゃる通りにしたので「かわいい」と褒めて下さいました。夫の精神も良いと褒められました。また、御母を知らせてくれた実母への感謝も忘れるなとお手紙にしたためてありました。その後だんだんと真の健康体にして戴きました。
 家族も秀夫の父、重一が顧問神使に、秀夫が所領主として歩ませて戴きました。秀夫も近年、澪標鶯遷の御加護を賜りましたが、元気にさせて戴き、明治生まれながら農作業もしつつ、夫婦で頑張らせて戴いています。
 昭和60年8月2日、御母の御行幸を賜りました。その際、愛子になった当時のことを、御母は「お前の肺病を治してやった」とおっしゃいました。今から思えば肺病であったのかと思えます。

 

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