日本教愛子第一号「長島はつ」さん

 先日、日本教の愛子第一号と言われている「長島はつ」さんのお宅を訪ね、「はつ」さんのお人柄や当時のお話しを伺ってきました。

訪問者:上野所領主、塚本鉚一、犬飼米男

応対者:長島喜美子さん
     (はつさんの家のお嫁さんにあたる方)




「長島はつ」さん


長島家概要
 古くからの名家で、二代前の「丈之介(じょうのすけ)」さんは、29歳で村長、そして県会議長を務められた方です。当時の議員等は全くの名誉職で、財産をかなり投げ打たれたという話しです。その子「秀三郎(ひでさぶろう)」さんも村会議員を務められ、息子の郁三郎さんも町会議長、神渕農協の組合長として活躍されました。


【インタビュー概要】

「聞き手」
郁三郎さんも、いま外でお会いしましたが、お元気そうでなによりです。喜美子さんも畑仕事をやられるなどお元気そうですね。
 今日は、この家の「はつ」さんが、日本教の愛子第一号という記録が残っていまして、是非「はつ」さんのお人柄や、当時のお話しを伺がいたいと思いまして、おじゃましました。よろしくお願いします。

「喜美子さん」
あなた方はずっと今でも日本教を熱心にやっていらっしゃるんですね。私達も今でも御神札だけは受けさせていただいています。なかなか詳しくは覚えてないかもしれませんが、私でよければお話しさせていただきます。

「聞き手」
 実はこの地区は、上之保や菅田、神渕などが集まって「中濃第二紹世クラブ」と名乗っています。今度、この地区で今はやりのインターネットのホームページというものを作りました。その中でこの地区の昔から活躍された方などの紹介をし、全国の方にも見ていただこうと考えています。
そこで、日本教愛子第一号という大変名誉な「はつ」さんを是非ご紹介したいと思ったわけです。
まず、日本教、当時のお恵比寿様に「はつ」さんが行かれたきっかけは何だったんでしょうか。

「喜美子さん」
たしか、私の夫、郁三郎の妹の「くに」(「はつ」さんの娘)さんが、葛屋の松山秀夫さん(元所領主)の所へお嫁にいっており、産後の肥立ちが悪く難儀をしていました。その時、長島太郎さんが東京から帰ってみえて、「上之保にいいところがある、僕が手紙を書いてあげる」と言われ、その手紙を持って「はつ」さんと「くに」さんが上之保にいったそうです。

「聞き手」
長島太郎さんというと、野尻の長島二郎(元町長)さんのお兄さんですね。
勇祚様の従兄弟にあたる方ですね。

「喜美子さん」
そうです、長島さんの紹介でいったんです。
その当時、寶主様はこたつに入って向かい合って話して下さったと聞いています。絣のもんぺをはいて居なさったそうです。

「聞き手」
そうですか。それから少したって高いところに座られて一人一人にお話し下さった。順番を待って札をもらったような気がしますね。

「喜美子さん」
 一生懸命上之保に行っているうちに、しばらくしてすっかり「くに」さんの体は良くなりました。それで「はつ」さんは大変有り難く思い信じるようになりました。でも、夫の「秀三郎」さんは「『くに』さんは時が来たから治ったのだ。体の中のことはよくわからん」と言ってなかなか信じようとしませんでした。

「聞き手」
そうですね。目に見えないものはなかなか信じられないですからね。

「喜美子さん」
そして、その後、塚本富雄さんの家の「省三」さんが、運動会で人の下敷きになったか何かで、足がびっこを引くまでしか治らなかったことがあったんです。それで「秀三郎」さんは「上之保に行って省三君の足がもし治ったら俺は信じる」と言いました。
「省三」さんも一生懸命参られて、寶主様の言われることを言われるままに何でもやっていたと思います。例えばわらじを作りなさいと言われれば作るとかです。

「聞き手」
たしか、省三君は川合の宮信さん(孝広商店)のところで奉公をしていたようなこともあったと思うね。

「喜美子さん」
そして、「省三」さんの足が治り、「秀三郎」さんもすっかり信じるようになりました。 この葉津の部落でもほとんどの方が参られたと思います。

「聞き手」(鉚一)
家の「九十九」も「はつ」さんに誘われて行ったと記憶していますよ。
「喜美子さん」
でも、仏様を日本教のものに変えなさいと言われたとき、多くの人がやめなさったと思います。家もちょうど仏壇を変えるときがあっったんですが、「はつ」さんは、いちがいで熱心な人やったけど、やっぱり女と言うこともあるし、仏様までは変えることができなんだと思います。

「聞き手」
最初、寶主様は力をたくさん見せられて、御利益が有り難いと神渕でも参らない人は居なかったぐらいやけど、御神学を説かれるようになって、御理論についていけない人が増えたような気がしますね。

「喜美子さん」
そうやね、病気だとか困ったときは頼っていくけど、難しい話は分からんと言うようなことになる人が多いでね。

「聞き手」
「はつ」さんご自身は寶主様から何か大きな御示現、お力を受けられたことはあったんでしょうか。

「喜美子さん」
色々なことは相談なさったと思いますが、病気もしないような人でしたからちょっと思い当たることはないね。

「聞き手」
「はつ」さんは、どのような方だったんでしょうか。

「喜美子さん」
からは小さかったけど本当に元気な人やったね。達者で長生きしたという人でした。

「聞き手」
何歳まで生きられたのですか。

「喜美子さん」
明治20年生まれで、ぼけることもなくしっかりして99歳まで生きました。

「聞き手」(鉚一)
そうそうぼけるなんてことはない、反対に記憶力のええ人やったでね。

「喜美子さん」
昔のことを本当に良く覚えてみえたでね。体も丈夫な人でね。夫が71歳で亡くなってから、私が私がという気があったかもしれんね。
それに働き者で、「葉津中の婦人会の人と、私一人と張り合うぐらいや」なんて言って見えたでね。

「聞き手」(鉚一)
そうや、本当にきついし、よう働く人やったでね。

「喜美子さん」
こんな話しがありました。下駄履きで、4斗と言うと1俵やね、それを背負って万場から峠を越えて1週間に一度通ったそうです。

「聞き手」
1俵背負ってかね。60キロあるんやから、ちょっと信じられんぐらいやね。今じゃ30キロの米袋を持つのがやっとやで。

「喜美子さん」
それに、そのころの俵は、八重だわらと言ってコモが二重になっとったでね。

「聞き手」
それは60キロではきかんね。へたしたら65キロぐらいになるね。今の僕らでもちょっと背負えんね。それに葉津の峠も今はだいぶ削って低うなっとるけど、昔はもっと険しかったでね。

「喜美子さん」
それに1週間に一度も通うものやから。みんなから「はつさんとこは本当に喰いぶちがええね」と言われたそうです。でも、白米はお客さん用で、自分たちは麦飯を食べていたんやけどね。

「聞き手」
議員をやってみえたで、お客もおおかったでね。身上もだいぶ使わしたもんね。

「喜美子さん」
今みたいな給料取りではないで、奉仕みたいなものやったね。

「聞き手」
山に立派な木がたくさんあったけどほとんど伐って売りなさったもんね。偉いことやったと思うよ。
 働き者の「はつ」さんは夜なべ仕事もやられたんでしょう。

「喜美子さん」
それはもう、縄編み、草履づくり、むしろ編みありとあらゆることをやってみえました。

「聞き手」(鉚一)
葉津は炭焼きもあったで、炭のコモ編みもやって見えたね。

「喜美子さん」
「はつ」さんの作るコモはまた丈夫でいいコモやったでね。

「聞き手」
手先も器用な人やったと言うことやね。

「喜美子さん」
それに負けず嫌いやったと思うね。やることは何でも手早かったでね。

「聞き手」
よくいう「やり手」という人やったんやね。それにあのころの女の人は大変やったもんね。昼間男と同じように一人前野良仕事をしてから夕飯の用意をして、子供の世話、夜なべ仕事、一番遅くに風呂に入って寝て、朝は一番に起きて朝飯の準備がするという毎日やったでね。

「喜美子さん」
風呂の話しというとこんな話しもありました。あのころは絶対に男が一番に風呂に入っていたもんで、夫の帰りが遅いと待っているうちに、せっかく沸かした風呂に誰も入らなかったなんていう日があったとか。今はそんなことはないけどね。

「聞き手」
食べ物は何でも食べられる方でしたか。

「喜美子さん」
それがほとんど野菜ばかりやったね。肉や魚は食べない人でした。年をとってから鳥のモモの焼いたのを食べなさったかなあ。昔やで食べず嫌いやったかもしれんね。

「聞き手」
昔はしまつな(つましい)もので、正月にサンマが食べれればいい方やったでね。

「喜美子さん」
サンマと言えば、切り方が悪いと秀三郎さんに叱れたという話しがあったそうです。
3つに切ったんやけど、一番大きいのが自分の所にないと言うことやったそうです。

「聞き手」
昔は一番大きな魚は父親の所と決まっとったでね。時代は変わって、今は息子のが一番大きいなんて言う話しもあるけどね。

「喜美子さん」
昔は粗末な食事やったけど元気で長生きした人が多いもんね。

「聞き手」
米と野菜を食べて、体を動かしてよく働いたことが長生きの秘訣やったかもしれんね。
今の人たちは栄養をとりすぎて体は動かさない、これでは長生きはできんかもしれんね。喜美子さんも肌の艶はいいし、本当に丈夫そうやもんね。

「喜美子さん」
私はまんだ77やで「はつ」さんの足下にもよれんですわ。

「聞き手」
 上之保へはどうやって行かれたのですか。

「喜美子さん」
杉洞を越えて、もちろん歩いていきました。「はつ」さんが歩いていくと、あまり足が速いので「はつさんには車はいらんね」なんて言われたそうですよ。

「聞き手」
本当に元気な方だったんですね。日本教愛子第一号にふさわしい方だと思います。
第一号には誰が逆立ちしても後からなれないですからね。
それから、これはお願いなんですが、もし「はつ」さんのお写真があれば貸していただきたいんです。今日のお話しと一緒に紹介したいと思います。パソコンに取り込んですぐにお返しできますのでお願いします。

「喜美子さん」
あの頃はなかなか写真などは撮らんかったんでね、あるかどうかわからんけど、でも探してみてあればまた連絡します。

「聞き手」
無理なお願いをして申し訳ありません。よろしくお願いします。
今日はお忙しいところ、時間をとらせましてすみませんでした。大変貴重なお話しを聞くことができました。ありがとうございました。

 

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