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ギロチン少女マジカル☆ギヨたん その12(終)

 ――これは夢であるが、夢ではない。
 アンナマリアは指先すら動かなくなった自分の躯に力をいれようと悪銭苦闘して、その末にそんな結論を出した。

 ジョゼフが戦いに赴いたあとで、アンナマリアは気付いたら眠ってしまっていた、のだろう。と本人は思っている。
 気付いたときには、既にアンナマリアはイザベラの家とは違う場所に横たわっていた。
 しかし、見覚えがないというわけではない。来たことはなかったが、この内装は知っているはず≠ネのだ。
 まず状況を整理しよう、とアンナマリアは辛うじて動く視野を巡らして辺りを見た。ここはどこか、と考え、建物の中にある一室のようであると判断をつける。それも、とても大きな建物だ。しかし、部屋の中に豪奢な飾りつけはなく、壁は石が剥き出しのままで壁紙すらない。床も申し訳程度の布きれみたいな敷物があるだけだ。強固な造りをしているこの建物と比べると、どうにもアンバランスな状態である。これだけの建物に住まえる者が生活する空間とは思えない。
 アンナマリアは混乱していた。
 どうして自分はここを懐かしく感じるのか。こんな場所には人になってからというもの来たことはない。自分の足で歩けない状態で広場から動けるはずもなく、よってこんな場所を懐かしく感じることなどないはずなのだ。
 ここがどこなのか、どうしてこうなっているのか。声も出せず、息も吐けないアンナマリアは静かに混乱していると、扉の開く音がした。けれど仰向けになって寝ている状態のアンナマリアは誰が入ってきたのか確認することはできなかった。
「どうだい、ギヨタン。状態は」
 渋みのある男性の声に異議を唱えたが、それは言葉にはならない。そして、すぐにアンナマリアは呼びかけが自分に向けられたものではないことに気がついた。
「ほとんど終わり、といったところかな」
 どこからか別の男性が答えていた。アンナマリアが気付かなかっただけで、最初からこの部屋にいたのだろう。声の雰囲気から、先程入ってきた男性より年をとっているようだった。
「ただね、どうにも首を切り取る機構が巧くいかないんだ。刃に細工を施せば良いのだろうが……貴方の意見を聞かせてもらえるかね?」
「そうだな、刃を研ぐのも楽じゃないし……刃の角度を工夫するといい。あとは、重量を増そう。そうすれば、骨に引っかかるなんてことはないはずだ」
「なるほど、ではこの娘≠ヘそういう風に改良しよう」
 アンナマリアの目の前にふたりの男の顔が現れた。白髪の、身なりの良い男である。アンナマリアが搾り殺してきた男たちと違い、育ちが良く、そして聡明なのだろうというのが顔にまで現れていた。
 ふたりはじっとアンナマリアを覗き込んでいて、それにびっくりして飛び上がろうとするものの、相変わらず躯はぴくりとも動かなかった。
 いきなりわけのわからぬ状況で目が覚め、男に囲まれていることに慌てたが、アンナマリアはふたりの目に悪意が見られないことに気付いた。人としての経験が短いだけに他人の感情については聡くはないが、断頭台という性質状、常に晒され続けた悪意にだけは敏感なのだ。彼らはアンナマリアに危害を加えようなどとは毛ほども考えていないのである。
 どういうことなのだろうとアンナマリアは益々混乱していると、目尻や口元に皺がある男性――年老いて見える方が最初から部屋にいた者だろう――がアンナマリアの躯に触れた。
 驚きに身を竦める。が、アンナマリアは一向に自分の肌に何かが触れる感触が訪れないことに気づく。
「できれば、この娘が今の惨たらしい処刑の有様を変えてくれることを願うばかりだよ」
 男の目には、深い悲しみの色があった。揺れる瞳には、アンナマリアの鋼色をした躯が映し出されていた。
 そう、男はアンナマリアの刃の部分に触れているのだ。
 ――躯が、人じゃなくなってる!?
 躯を断頭台に戻した覚えは、アンナマリアにはなかった。なのに、どうしたことか姿は広場にて罪人を狩る時の姿になっている。
 しかも、アンナマリアはもうひとつおかしなことに気付いていた。
 躯がバラバラに分解されているのだ。
 刃も、台も、柱も、繋がっていない。まるで、組み上がっていないパズルのようである。
 さらにいえば、パーツもアンナマリアの知っている形とは微妙に異なっている。
 それで、アンナマリアもここがどこで、なんなのかが判った。
 ――ここは、わたしの昔の記憶だ。
 以前、処刑人がでてきたような夢ではない。あれとは違い、これは実際にあったことなのである。眠った拍子に表層では覚えてもいない記憶の中に迷い込んでしまったのだ。
 だから、このふたりが誰なのかも判った。アンナマリアの制作者である。つまり、父親だ。
 アンナマリアは呆然となった。ふたりの父親のことは覚えていたが、ここまで鮮明に顔を思い出したことはなかった。
 その様子は勿論誰にも伝わらず、部屋に入ってきた方の男は老人の言葉に答えていた。
「処刑の現場は変わる。無駄に罪人を苦しめることもなくなり、手段は軽快になり、そしてトラブルに民衆を巻き込む不手際も起こらない。より効率的に、機械的に、被害を抑えて処刑をおこなえる。……ただ、その役目をこの娘に与えるのは、酷な話だろうな」
「ええ、これがただの器物であればなんの問題もなかったことでしょう。けれども、もうひとつの目的を果たすためにはどうしても、細工は必要だった。王が気に病むことではありません」
 ――王!?
 そう呼ばれたことにアンナマリアは心底驚き、男の顔はここではないどこかで見た記憶もあった。
 アンナマリアは、この男を殺したことがある。国で革命をおこした者たちによってつれてこられて、広場でアンナマリアを使って処刑されたのだ。あのときはどうしてか、精気を搾り取られたかのような頼りない有様だっただけに、今の今まで気付かなかった。
「すまないな、気を使わせて。せっかく協力者の力のお陰でこの娘を作り出せたのだ。……あとは、神に委ねよう」
 これは自分が生まれ落ちる前の記憶、そう悟ったときには、既にアンナマリアの意識はなくなりつつあった。誰かが呼ぶ声がしている。そんな中、王は最後になにか口を開こうとしていた。呼び声を無視して、アンナマリアはその一言に耳を傾ける。
「この子が淫魔を、打倒してくれることを……」

     *

「――ギヨたん、ギヨたん、起きなさい、ギヨたん」
「ギヨたんいうなっ」
 条件反射で叫びながらアンナマリアはがばっ、と跳ね起きた。
 声が自らの鼓膜に届いたことに驚いて、アンナマリアは思わず自分の喉に触れた。
「あ、云えた」
「起きて早々になにをわけのわからないことを云ってるんだい?」
「……いや、普段のあなたほどじゃないから」
 目の前にいた、かわいそうな子を見る目をしたイザベラに言い返すと、アンナマリアは自分の両手に目を落とす。そこには傷一つない、小さい真っ白な手がある。先程の記憶に見た無骨な刃からは想像もつかない綺麗な手だ。
 軽く、手を握りしめる。指の動く感覚があった。無事に五感が戻ってきたことにアンナマリアは肩から力を抜いて安堵した。いや、元は断頭台であったのだから人の姿に戻ったと形容するのはおかしな話のはずだ。それなのに、人の姿を望んでいる。自由に動き回れるというのは、それほどまでに度し難い。
 うつむきがちになって手を見つめるアンナマリアに、イザベラは首を傾げた。
「いったいどうしたんだい? 寝てたかと思えば、いきなり黙り込んでしまうなんて。悪夢にでも魘されたかい?」
「……違う。ただ、ちょっと、昔のことを思い出していただけ」
 一瞬だけ話してしまうか迷ったものの、アンナマリアは気になる言葉を思い出してしまい、誤魔化すことにした。
 ――淫魔を打倒する? 処刑道具の私が?
 王の最後の言葉は、実際にこの耳朶を振るわせたかのように生々しくこびり付いていた。おそらく、妄想ではなく、実際に王はそういったのだろう。
 しかし、何故そんなことをいったのか。アンナマリアはあくまで咎人を断罪するための処刑台である。できるだけ苦痛を与えず人道的に殺害する手段として造られたのだから、異端審問の道具でもなければ、ましてや淫魔を殺すための道具であるわけでもない。あまりにも、アンナマリアの存在からはかけ離れていた。
 ずっと脳内で主張し出すものを振り払って、アンナマリアはもっと大事なことをイザベラに訪ねる。
「それで、ジョゼフはどうなったの?」
「勝ったよ。というよりも、見逃してもらえたと云った方が正しいかな。なにはともあれ、ジョゼフは五体満足で気絶中さ」
「そう……じゃあ、わたしが最後に勝てば、なにもかも解決なんだ」
「ああ、そうだね。相手は今回の国家転覆をおこなった首謀者、その彼女を撃破できれば少なくとも私たちの安全は確保できるだろう。因縁の対決をもって、無事解決できるというものだ」
「前から気になってたけど、その因縁の対決ってなんの話?」
「ああ、それはね。アワリティアは、キミを造った男のひとり――この国の王を屈服させ、キミ自身に殺害させた張本人だからさ」
 さっきの夢の中で感じたものは間違いではなかった。あの王と呼ばれた男は、アンナマリア自身が殺した相手なのである。
「でも、わたしは父親のことなんて、ほとんど覚えてない。だから、復讐心みたいなものも、あんまりないんだけど」
「それはそうだろうね。でも、中々に運命的だろう?」
「どちらかというと、悪趣味だけど……まあいい」
 アンナマリアは寝転がっていたソファから立ち上がって、服の裾を叩いて直した。
「早く跳ばして。仇打ちとか、そういうのはどうでもいいけど……ついでに、私を悪趣味なことに付き合わせてくれた報いも受けて貰ってくる」
「それでこそ、ギヨたんだ。ではでは幼き姫君、ご案内致しましょう。美しく踊って咲き乱れてきてくるといい」
 イザベラはわざと大仰に語ると、手をアンナマリアに差し出した。その手をじとっ、と睨み付けて、アンナマリアは乱暴に手を取る。
 そして、アンナマリアは視界が書き換わっていくのを感じた――。

     *

 どこに跳ばされても、アンナマリアは驚かない覚悟をしていた。
 跳んだ先が兵士たちに取り囲まれていようと、地獄のような場所であろうとだ。人ならざるものを相手にしようというのだから、その程度に一々驚いているようでは打倒など到底無理な話である。
 そう、気を引き締めていたはずなのだが。
 アンナマリアは自分の立っている所を見渡して、呆然とした。見るのも来るのもはじめてな場所だったが、知識だけはあった。そう、ここは――
 周囲に気を取られて、アンナマリアの足下はおろそかになっていた。躯を捻ろうとして、足が水に取られて滑りそうになる。
 珍しくあられもない声をあげてアンナマリアはその場に踏みとどまって、ほっと一息ついた。
「あら、断頭台はかわいらしい声をあげるものなのですね。はじめて知りました」
 背後からかかった声に、アンナマリアはあからさまに眉を顰めた。
「……貴女みたいな品のない人に殺されるなんて、この国の王様も不憫ね」
 今度は足下に気を払いながらアンナマリアは振り返った。その先には、素肌の上にベールのような薄布だけを纏って、腕を組み艶然と笑う淫魔アワリティアの姿がある。しっとりと濡れた長髪を肌に張り付かせ、すっと細められた冷気を孕む視線は、男なら見つめられただけで心を奪われることは間違いない色香があった。
「品がないとは失礼な物言いですね。貴女よりもずっと恵まれた生活をしていますよ。ほら、貴女、お風呂なんてご存じでないでしょう?」
 アワリティアは緩く片腕を動かして周囲にアンナマリアの注意を向けさせた。
 そう、ここは王城の一角にある大浴場の中だった。高価そうなマーブル模様を浮かべた石の床には水溜まりができていて、アンナマリアが足を取られたのもそれのせいである。
 アワリティアの手がさした先には人が何十人と一緒に入れそうなほどに広大な浴槽があり、花の蜜に似た香料が湯の熱気に混じってねっとりとアンナマリアの肌に絡みついた。全身を舐められているような暖かさに、じんわりと額が汗を浮き上がらせる。
「この浴槽は私の希望で人間に作らせたものです。湯浴みの文化すら俗説を恐れているがために抑圧していたなんて、私たちと比べて劣っているとしか言い様がありませんね。もっとも、貴女のお父様は王城に浴場設備自体は導入していましたから、その点だけは評価してあげなければいけません。ご褒美にたっぷり天国を見せてさしあげましたよ」
「……長々と語って、云いたいことはそれだけ?」
 アンナマリアは自覚していなかったが、相当に不機嫌なのは声からして明かだった。押し殺された声は獲物を狙う猛獣の唸り声で、目は殺害対象を見据えるもので刀身のように寒々しい。
 小気味良い音を関節から立てて、アンナマリアは右手をかぎ爪の形に曲げる。
 正直なところ、彼女には相手の得意分野で戦ってやろうなどという殊勝な心がけは微塵もなかった。
 レリアは同じ淫魔であるから戦いの方法が同じで、ジョゼフに至ってはそうする以外に手段がないからやむなく性技による戦いを選んだにすぎない。
 だが、アンナマリアは違う。
 彼女は断頭台。元より人間を、人間の形をしたものを殺害するために産み落とされた処刑機具だ。武闘派であるスペルビア相手には見切られる可能性もあったが、ただの淫魔なら易々と斬首できる力は身に秘めている。
 相手が身構えたのを見て、しかしアワリティアは薄く笑った。
「もしかして、監獄で見せた不思議な技でも使うおつもりですか?」
 アンナマリアは答えなかったが、沈黙が肯定となっていた。
 前回、監獄で放った不可視の一閃。それをアンナマリアは以前も自分の意識下で制御し、撃ったことがある。レリアとの初対面時だ。
 あの現象自体は、アンナマリアにとっては別段難しいことではなかった。むしろイザベラの扱う魔法の方がよほど特異なものであるとさえ思っていた。自分のはただ、まっすぐに相手を切り裂くだけのことなのだ。断頭台として当たり前の機構≠ナある。・
 だが、その切り裂く方法自体が問題だった。
 原理はアンナマリア自身も理解が及んでいない。ただし、イザベラは判っていたようだ。息を整えて、ゆっくりと脳内でこの機構≠ノついて思い出す。
 不可視の刃――それは鎌鼬などという生やさしい代物ではない。
 アンナマリアのそれは謂わば存在を断つ即死の刃だ。対象に刃が当たれば、それが建物であろうがなんであろうが、その強度に関係なく対象は断裂する。しかし、無機物を斬るのが断頭台の真の機能ではない。よって、強度を無視して無機物を斬るには相当な集中力が要求される。
 真の機能、目的とは即ち斬首。アンナマリアは人間という存在を断ち切る刃なのだ。
 アンナマリアは断頭台のときにおいて、一度も人を仕損じたことはない。一刀一殺。必ず殺している。人の血と呪詛に塗れた断頭台の刃は、これによって魔術的効果を付与された。あらゆる人を殺せる。相手は人である。相手は死ぬ。という三段論法の呪いが。
 人の形をした存在にとって、アンナマリアは天敵だった。当たれば、即死。そんな攻撃手段を持っているものが、人にとっての天敵でなくてなんになろう。
 アワリティアとてこの攻撃の例外ではない。アンナマリアが腕を振り、斬撃を放ち、当たれば――かすっただけで躯は両断される。
 音速で迫るであろう刃を避けることは淫魔といえど肉体を鍛えていなければ到底無理な話。アンナマリアの目の前に出てきただけでアワリティアの進退は窮まっていた。はずだ。
 なのに、未だにその顔には余裕があった。
「確かに、それは脅威です。私も当たれば死んでしまうでしょうね。けど、そんなもので決着をつけるのはいささか無粋ではないでしょうか。やはり仇討ちをするなら、同じ手段でありませんと雰囲気がありませんよ。そう、貴女のお父様と私がしたように、躯を重ね合わせての戦いでなければ」
「うるさい。――死んじゃえ」
 有無を云わせなかった。アンナマリアは間髪入れずに右手を振るっていた。
 瞬間、刃が疾駆した。
 アンナマリアの正体が見えない刃として顕現したのだ。
 風切る音速の斬撃が手から伸びる。それはあまりに理不尽な力の象徴。吸い込まれるようにアワリティアの首に滑り込んだ。
 アワリティアの背後の壁に鋭い亀裂が走った。アンナマリアの刃が、破城鎚の直撃にも耐えうる城内の壁をバターのように切り裂いたのである。
 無論、壁との合間に立っていたアワリティアが無事なわけもなかった。
 アワリティアがその場に立っていたとしたら、だが。
「い、ない!?」
 アンナマリアは驚きに目を見開いた。確かに腕を振るう一瞬前までは視線の先にいたはずのアワリティアが忽然とかき消えていたのだ。
 そこで混乱に思考停止を起こしてしまうのも無理からぬことだった。アンナマリアは処刑をしたことは数え切れないほどにあったが、人と決闘は愚か喧嘩すらしたことがなかったのである。
 だから、自分の真横からの呼びかけには呼吸が止まった。
「こっちですよ、断頭台さん」
 咄嗟に振り返ろうとしたところに足を払われて、アンナマリアは水に滑って床に背中を打ち付けた。
 アンナマリアの眼前には、得意気な様子になったアワリティアがいた。その背中には一対の翼が風もないのにゆらゆらと揺れており、思わず羽根すら生き物と錯覚しそうになった。
「いったい、いつの間に……」
「淫魔の速度を甘く見ましたね? まあ、ふつうの淫魔なら貴女の下手な攻撃も当たっていたでしょうが、相手を見誤ったのが敗因ですね。翼さえ出せれば、貴女が右腕を振り下ろすよりも早く身を動かせるのですよ」
「くっ……!」
 もう一度右腕を振ろうと振り上げるが、その手をアワリティアに掴まれて押しとどめられた。
「無駄ですよ。ただの道具が自分の躯を使いこなせるわけがないでしょう?」
「うるさい、離して……!」
「やれやれ、聞き分けのない子ですね。それでは、素直にさせてあげましょう」
 アワリティアはぺろりと自分の唇を舐めると、アンナマリアのそれを奪った。
「んんっ」
 小さな躯を強ばらせて侵入してくる舌を拒む。
 それにアワリティアは唇を唇でついばんだ。ジンジンと口元の熱くなる甘い快楽に、アンナマリアはつい口を開いてしまった。
 そこにぬるりとアワリティアの舌が滑り込む。そこからはもう舌技の虜だった。
 口内で舌が動く度にアンナマリアの小さな躯が床の上でぴくぴくと震える。必死に抵抗しようとしていた腕にはいつしか力が入らなくなり、されるがままにアワリティアのキスに酔ってしまっていた。
 相手の顔が離れる。アンナマリアの目には涙がたまっていて、頬を紅潮させながらまだキスの余韻に呆然としていた。
「普段は男性を銜えて喘がせてあげるための舌技なのですが……どうやら、相当気持ちよかったようですね。口の中をペニスと同じように舐められて感じてしまうなんて、恥ずかしくないんですか?」
「う、うるさ……い」
 口では抵抗するものの、アンナマリアは躯に根を張った快感に躯を振るわせ続ける。無防備なところへ受けるには、あんまりにも情熱的な口づけだった。
 精一杯の抵抗にアンナマリアは肩を突き飛ばそうとするが、それはひらりと躱されてしまう。指先が髪の毛一本にすらかすることもなかった。
「あらあら、反抗的な子ですね。これは、教育が必要なようです……。ああ、なら、やはりこういうときは年長者さんたちが導いて差し上げなくてはなりませんよね」
 突然、アワリティアが誰かに語りかけているように声を張り上げた。ようやく快感の酔いから覚め始めたアンナマリアが不思議に思うと、すぐに相手の真意を目の当たりにすることとなった。
「さあ、お姉さん、お兄さん、入ってきなさい。この子を丹念に洗ってあげるのです」
 すると、浴場の扉が開かれた。
「はい、お母様」
 ぞろぞろと浴場に入ってきたのは、十代の子供たちだった。比率としては少女の方が多く、たまに少年が混じっている。彼らはひとりとして衣服を身に着けておらず、人種も様々であった。差こそあれど、だいたいはこの国の人々と同じく肌の白い者たちだったが、何人か浅黒い肌の子供も混ざっている。
 その無作為に集められたような統一感のない子供たちは、しかし動きだけは群体のように統一されていた。
 子供たちが近づいてくることに驚いてアンナマリアは慌てて躯を起こすが、あっという間に集まってきた子供たちのひとりに背中から抱きしめられてしまう。
「な、なに……この子たち……」
 アンナマリアを背中から抱きしめている少女が妹を叱るように耳元で囁いた。
「こら、年上の人にそんな口の利き方をしちゃ駄目でしょう?」
 そういって服の上から胸を撫でられると、アンナマリアは熱い吐息を洩らす。キスによって敏感になった肌は、例え服の上から触れられただけでも性器を愛撫されたように感じてしまった。
 その反応にアワリティアはくすりと笑い、アンナマリアを取り囲んだ子供たちに命じる。
「彼女はお風呂も入った経験がないようです。貴方たちの手で躯の隅々まで洗ってあげなさい。新しい姉妹になるかもしれない子ですから」
「はい、お母様」
 子供たちは一斉に答えると、その細腕を伸ばしてテキパキとアンナマリアのドレスを脱がしていく。
「や、やだ、ちょっとっ」
 躯を捻ってなんとか抵抗しようとするが、元は断頭台といえど見た目相応の力しかないアンナマリアでは数の力には抗いがたく、瞬く間にドレスを脱がされ一糸まとわぬ姿にされてしまった。
 何人もの男に跨り、精を搾ってきたアンナマリアだったが、子供たちの純真な視線に晒されて生まれはじめて羞恥心を覚えた。太腿を擦り合わせて毛も生えていない秘所を隠そうとするが、褐色の少女の手によって容易くこじ開けられる。
「なにを恥ずかしがっているの? 隠してたら洗えないよ。それに、これから兄弟になるんだから恥ずかしがることなんてないんだから」
「きょ、兄弟? いったい、なんの……」
 それには、また別の少女が答えた。
「お母様に見いだされて、行儀の良い子供になるの。そうして将来、男の人や女の人を喜ばせるお仕事をさせてもらえるのよ」
「そ、そんなの……いやっ」
「こらこら、暴れちゃ駄目だよ」
 子供たちに両手足を抱きしめられて、アンナマリアは首をいやいやと振ることしかできなかった。背中にいた少女はアンナマリアの長髪に首を埋めて、周りの子たちに合図をする。
「それじゃあ、みんな、この子を綺麗にしてあげようね」
「はーいっ」
 子供たちは行儀良く返事をして、躯を濡らして石鹸を泡立てはじめる。手で泡立て、自分たちの躯にも泡を塗り込むと、次々にアンナマリアの躯へと自分を擦りつけはじめる。
 精液とは違うぬるぬるとしたものがすり込まれて、アンナマリアはくすぐったさに声を上げた。
「や、やめ……っ、そんな近づかないで!」
「だから、恥ずかしがっちゃ、めーっ、だよ?」
 誰かの手がぬるりとアンナマリアの太腿の間に滑り込んで、泡立った手が秘部を撫でた。
「ひゃっ!?」
「躯を洗ってるだけでそんな声出しちゃうなんて、あなたってえっちなんだね」
「そんなところ触られたら、誰だって……ひゃぁうっ」
 膣の中に指が入り込む。泡を潤滑液代わりにした指はぬるぬると前後の動きを繰り返す。
「ほらほら、中も綺麗にしないとね」
 背中の少女がアンナマリアの耳元に息を吹きかけながら囁いた。
「こっちの方も綺麗にしようね」
 アンナマリアの手足を泡まみれの躯で擦っていた少女たちのひとりが、アンナマリアの菊座へと手を伸ばした。泡に濡れた指で菊の穴を撫でて、一息に貫く。
 つぷぅっ、と穴に突き入れられた指の感触にアンナマリアの中がきゅっと、甘く絞まった。
「ひぃうっ……あ、ああ……っ!?」
「もうっ、掃除してあげているだけなのに、そんなかわいい声をあげて……」
 悠然と腕を組んでほくそ笑みながら、アワリティアはその痴態を眺めていた。
「それだけ貴方たちの手際がいいのですよ。さあ、もっと奥の方まで洗ってあげなさい」
「はーいっ」
 すると、ひとりの男の子がアンナマリアの股の間に躯を滑り込ませた。アンナマリアの膣から少女が指を抜くと、代わりに泡まみれになったペニスを秘所に宛がう。
「それじゃあお姉ちゃん、中まで綺麗にしてあげるね」
 返事を待たずに男の子は勃起した肉棒を中へ挿入した。
 アンナマリアよりも小さい男の子のペニスは、勃起していても相応の大きさしかなかった。男たちからねじ込まれていた膣を裂くような大きさの陰茎に比べると随分かわいらしい代物だ。挿入されても異物感は少なく、アンナマリアの躯は自然と受け入れてしまっていた。
「うわ……お姉ちゃんの中、すっごく気持ちいいや……。でも、がんばってお掃除するね」
「こ、この……っ」
 無邪気な顔で腰を揺する少年を精一杯の敵意を集めて睨み付ける。それでも快楽で涙を浮かべていた目ではかわいらしさしかなかった。
 石鹸の泡でぬるぬるになった男の子の小さな肉棒はアンナマリアのひだを丹念に擦り、子宮の入り口に何度も亀頭を押し当てる。
 子供たちに纏わり付かれて未知の快感に襲われていたアンナマリアの肢体は、幼い男性器のピストン運動にも初心な反応を返す。ぴくぴくと躯は震え、口元から透明の液体が垂れた。
 だが、自分よりも小さな男の子に言い様にされるのはアンナマリアの意地が許さない。
 足で男の子の腰をがっちりと掴むと、無理矢理一番奥にペニスをねじ込ませ、反撃を開始した。
「お茶目は、お終い!」
 アンナマリアは勢いよく相手のペニスを締め付ける。挿入されたときに入り込んだお湯と愛液、石鹸が混じりあった混合液がじゅくじゅくとペニスに絡みつき、その上からは幾人の男たちを屈服させてきた膣肉が精を貪るように吸い付いた。
 ただの人間の男の子がアンナマリアの男慣れした肉体に抗えるわけもない。
「わっ、お、お姉ちゃん、すご……い……あああああっ!」
 ぴゅっ、ぴゅっ、とかわいらしさを感じさせる射精がアンナマリアの中で起こった。
 泡まみれにされたアンナマリアの躯にしがみついて、男の子は気持ちよさでだらしない表情になりながら子宮の中に精を吐き出させられたのだ。
 瞬殺されてしまった男の子は蕩けた目のまま白い肩で息をしてアンナマリアの躯の上に倒れる。その不甲斐ない様子に、少女たちがくすくすと笑った。
 アワリティアも子供たちにつられて微笑んでいて、アンナマリアに男の子が倒されたことへの不安は一切浮かんでいない。
「あらあら、この子ったら、躯を洗いながらイってしまうなんて。私の子供たちにもおかしな性癖の子がいてしまったものですね。汚れてしまいましたし、お姉さんたちは弟の面倒もしっかり見てあげましょうね」
「はーい!」
 元気のいい挨拶をした姉妹たちは男の子をアンナマリアから離すと、脱力している彼をすぐ横に寝かせた。そして、褐色の肌をした少女が精液にぬれた半勃ちのペニスを口に含んだのである。
 頬をすぼめて石鹸と精液の混じった液体で濡れたペニスをしごきあげると、イったばかりだった少年が悲鳴のような嬌声をあげた。
「あぁあうっ! お、お姉ちゃぁん……ま、まだダメ……」
「お風呂なんだからちゃんと綺麗にしないとダメでしょう? それに、お風呂で汚くしちゃった罰だよ」
 男の子の懇願もむなしく、姉と呼ばれる少女はじゅぽじゅぷと肉棒を口内で虐める。舌と頬肉による吸引の愛撫に、まだ精経験に乏しいであろう男の子が耐えられるわけもない。
「お、お姉ちゃんっ、またでちゃうっ!」
 男の子の腰が跳ねると、今度は褐色の少女の口内に精液を噴出した。
 どぷどぷっ、と口の中に精を出されて、少女はペニスを抜くと手で受け皿を作りながら口を開いた。舌の上で白濁とした精液がぷるぷると震えていて、舌から垂れた精液は唇をなぞりながら掌の上にしたたり落ちた。
「もうっ、洗うっていってるのになんで汚しちゃうかな? もっとお仕置きが必要みたいね」
「お、お姉ちゃん、もうやめてぇ……」
 そうして少女は男の子を虐めることに専念し始めた。その様子にアワリティアは呆れながらも、そうなることが判っていたのか笑みを崩すことはなかった。
「やれやれ、盛りがついているんですから。貴方たちの方はちゃんとその子を綺麗にしてあげてくださいね」
 少女と男の子の動向を見守っていた少女たちも再びアンナマリアへの奉仕をはじめる。お尻の穴に抜き出しされる指の感触、肌の上を滑る少女たちの肢体の感触。そのどれもがアワリティアが目をかけるだけはある気持ちよさで、アンナマリアは我慢しようと思ってもつい口から喘ぎ声を洩らしてしまっていた。
「は、ああ……っ、いい加減に……っ」
 きっ、とアンナマリアは子供たちを睨み付ける。しかし、くすくすと笑われるだけで彼女たちは気にした様子もない。
 このままでは弄ばれて骨抜きにされてしまう。気持ちよさで一杯になった脳内にそんな危機感が生まれるが、両手足の自由がきかない状態では抵抗のしようがなかった。先程の男の子のように無防備を晒してくれれば話は別だが、少女たちにはそれを望むこともできない。
「自分は高みの見物で、あんなに偉そうなこと云ってたなんて……随分と、臆病者ね」
「あら、それは挑発のつもりですか?」
 進退窮まって発したアンナマリアの言葉はアワリティアを鼻で笑わせるだけだった。
「勘違いしないでくださいね。私は、貴方のためにこうしてあげているのですよ」
「わたしのため?」
「ええ。だって、キスしただけであんなにかわいらしい顔になってしまうんですもの……。私が相手をしてあげたら、貴女は壊れてしまうでしょうね」
 キスの感触を思い出してアンナマリアの唇がひりひりと熱くなる。もしアワリティアが本気で相手を籠絡しようと思えば、あれの比ではない快感が躯を走り抜けることだろう。
 レリアを除けば常に格下の相手と躯を重ねていたアンナマリアからしてみると、アワリティアの力は想像できない領域にあった。
 アンナマリアは雪のように白い頬を朱に染めたまま、股を開いた。
「なら、壊せるかどうか……試してみたら?」
 例え圧倒的に不利な状況だったとしても、アンナマリアは賭に出るしかなかった。
 一瞬、アワリティアの表情が強ばる。
「……?」
 理由がわからず、アンナマリアは怪訝に思った。今までは余裕であったのに、アンナマリアの誘いに突然そんな反応を見せたのだ。
 おそらく、アワリティアの本気がアンナマリアを大きく上回っているという事実に偽りはない。実際、キスだけであれだけの快感を流し込んでみせたのだ。七つの大罪の名を冠する淫魔の実力は伊達や酔狂ではあり得ない。
 だからこそ、アンナマリアには意味がわからなかった。今の反応は、いったい何故?
 だが、アワリティアの表情は既に余裕の笑顔に戻っている。違和感を追求する前に、アワリティアが動いた。
「そうまで云うならいいでしょう。私も自ら貴女のその薄汚れた躯を流してさしあげましょう」
 一枚だけ纏っていた薄い布をさらりと床の上に落とすと、美しい裸身がアンナマリアの目の前に現れた。
「この胸を押しつけられて昇天しなかった男はいませんでした。貴女はどこまで耐えられるでしょうね?」
 くすくすと笑って、アワリティアは石鹸を泡立てた両手で自身の豊満な胸を持ち上げた。そのまま泡を乳房に馴染ませるために揉みしだく。穏和な顔付きの女性が自らの胸を慰めるように見える姿は官能的で、アンナマリアですら生唾を呑み込んでしまった。
「貴方たちは下がっていなさい。さあ、行きますよ……」
 子供たちがアンナマリアから離れると、すぐにアワリティアはアンナマリアを抱きしめた。薄い胸に大きな乳房が押しつけられてつぶれる。。胸を押しつけたままアワリティアはのの字に胸を動かして、乳首と乳首を擦り合わせた。
「く、ぅ……!?」
 ただ乳首が触れあっただけなのに、絶妙な硬さになっているアワリティアのそれに引っかけられてアンナマリアは背筋を跳ねさせる。
「どうしました? まだほんの少し動いただけですよ? ……それとも、おっぱいが好きなんですか?」
 湯船に張られたお湯からあがる湯気のせいで軽くのぼせたアンナマリアは首を振って問い掛けを否定する。しかし、頭が朦朧とするのはなにも湿気だけのせいでないことは明かだった。
「誰が、貴女の胸なんかに……」
「そうですか。……では、そろそろお顔もあらってあげなくてはいけませんね」
 アワリティアがアンナマリアの後頭部に手を回すと、相手の顔を自分の谷間に押しつけた。
「う……っ、ふぅ……っ」
 息苦しさに呻き、アンナマリアは顔をなんとかあげようとするが、アワリティアの方が腕力でも上だった。為す術なく胸の弾力に顔を挟まれてその触感に身を委ねるしか、アンナマリアには許されていなかったのである。
 なんとか首を捻って谷間の隙間に顔をずらして浅く呼吸をした。すると、鼻腔に甘い芳香が充満した。香料の匂いか、石鹸の香りか、それともアワリティア自身の色香がわき上がりでもしたのか。その香りは蜂を招き寄せる蜜のように甘美で、アンナマリアは躯から力が抜けていくのを感じた。
「ふふ……どうしました。私のおっぱいはそんな気持ちいいですか?」
 アワリティアが躯を揺すると顔に押しつけられた胸がぷるぷると震えながら顔を圧迫する。しかし苦しいとは感じず、アンナマリアは顔を包み込む乳房の心地良さに身を委ねていた。
「あ……う、あ……」
 それはアンナマリアにとって未知の感触だった。躯を重ねたことのある同性はレリアだけであったし、母もいないアンナマリアには女性らしい女性との交流が皆無だったのだ。
 ……そう、母。
 アンナマリアはぼんやりと思う。今、自分の胸の中を満たしている幸福感は、まるで母に抱きしめられているときのようだ、と。母親がいたこともないのだから想像でしかないが、溶かされそうなほどの暖かい染み渡る快感はそうとしか説明のしようがなかったのだ。
「ふふ、なにもかも忘れて、身を委ねなさい」
 すっ、とアワリティアの片手がアンナマリアの秘所に触れた。射精された精液と石鹸の泡で白く汚れたアンナマリアの膣に、ゆっくりと指が入り込む。
「あ、あぅ……」
 拒まなければいけないのに、今までのような無理矢理与えられる快楽ではない、愛でるように染みこんでくる気持ちよさをアンナマリアはふりほどくことができなかった。
 くちゅ、くちゅ、とゆっくり秘所を細い指が愛撫する。陰核を子供の頭を撫でるような優しさでなぞり、愛でる――。
 胸の谷間から香る蜜の芳香と、顔を締め付ける弾力ある乳房、秘部をかき回す細指の感触。その前に、アンナマリアは反抗心を折られて屈服してしまっていた。
「さあ、このぬくもりの中で果てなさい……」
「あ……あ……っ!」
 つぷ――、と秘所を貫かれ続け、ついにアンナマリアは見も心もアワリティアの前に折れた。
「あ――あああ――!」
 びくんっ! とアンナマリアの躯が陸に打ち上げられた魚のように跳ねる。それでもアワリティアに力強く抱きしめられて胸から離れられず、アンナマリアは乳房の芳香で頭の中をいっぱいにされながら果てた。
 躯の芯を走り抜ける甘い閃光で目の奥に火花を散らし、アンナマリアは潮を吹く。びちゃびちゃとアワリティアの手を汚して、それでも止まらず何度も終わることのない絶頂に身を震わせた。強引にイカされたのではなく、自然と導かれた絶頂は胸を熱く満たしていて、快感は留まるところを知らなかった。
「あう……あ、ああ、ひゃ、ああ……」
「赤ん坊みたいな声を出して、そんなに心地良かったですか? 私の胸が貴女の涎でべとべとですよ……もう、しょうがない子ですね」
 アワリティアが頭を撫でると、撫でられた場所がじんじんと熱くなる。髪の毛に手が触れているだけだというのに、そこが性感帯にでもなったかのような錯覚を起こさせられた。
 もう躯を押さえる手はなにひとつないというのに、アンナマリアは脱力し、もう完全に抵抗することを諦めていた。いや、もう頭の中からは、このゆりかごにいるような心地良さから逃れようようなどという発想自体が抜け落ちてしまっていたのだ。
「お母様にあんなにされちゃ、もうあの子もなにもできないね」
「うんうん、あたしもあんな風に撫でられてイカされちゃったんだよねぇ」
「こちらも昔はお母様と敵対していましたが……あの優しさの前には……」
 周りで見ていた少女たちが口々に感想を言い合う。この子供たちもあのようにされ、アワリティアに心酔した者たちだったのだ。
 意識を朦朧とさせたアンナマリアの頭を撫でながら、アワリティアは子守歌でも歌うように耳元で口ずさむ。
「私の娘となりなさい……そうすれば、ずっとこのように愛し続けてあげましょう」
「むすめ……むすめに……」
「ええ。そして、私のために働いてください。行儀良くしてくれる限り、私は無償の愛を貴女に捧げてあげますよ……」
 このような、心地の良い母性を――。
 蕩けるような、ふわふわと、天にも昇る快感が――。
 自分の手にはいる?
 その言葉は、アンナマリアにとってこれ以上ないほどに魅力的なものだった。今までの記憶や感情を総てなげうってでもしがみつく価値があると心から思えた。
 自分のことを遠巻きに見ている子供たちも、きっと、同じなのだとアンナマリアは理解する。敵として恨んでいたのに、アワリティアの抱擁で骨抜きされてしまった、それがあの子供たちだと。
 その一員になるというのも、悪くない。だって、いなかった母親もできて、あんなに沢山の兄弟と一緒になれるのだから。
 もう、ひとりぼっちじゃなくなるんだから。
 アンナマリアは、そっと目を閉じた――。

 ――ジジジッ、と蝿の羽音のような雑音が脳内に反響した。

 眠ろうとしたのに、このまま呑まれてしまおうとしたのに、その音だけがやかましく邪魔をしてきた。
 うるさい、とアンナマリアは眉を顰める。けれど、同時にこの音から耳を背けてはならないという声も心の中であがった。
 この音はいったいなんなのだろう。考えてみてもわからない。どんどんと大きくなる音は、次第に無視のできない程に大きくなっていた。
 うるさい、うるさい、鳴り止んでしまえ。そう強く念じるが、雑音はさらに悪化するばかりだった。まるで、その音はアンナマリアを呼び起こそうとするベルの音のようで。
 我慢できずに、アンナマリアは大声をあげた。
 ――うるさい! わたしは、このまま眠りたいの! ひとりぼっちはもう嫌なの!
 人は死んでしまう。あの処刑人のように、無情に、あっさりと。父のように、強引に、あっさりと。みんな自分を置いて先に逝ってしまうのだ。
 だから、そう、アンナマリアが復讐したいと思ったのも、単に自分をひとりぼっちにさせた報いを受けさせたかっただけなのかもしれない。大なり小なり理由はあれど、それが一番重要なことだったのか。処刑人のためだなんてことはただの大義名分で、ただ、どうしようもない理不尽に駄々をこねたかっただけなのだ。
 でも、アワリティアなら、淫魔を母とすればその心配はなくなる。自分は多くの姉妹たちに囲まれ、人間たちに束縛されることなく、注がれる愛情を隣人として自由を謳歌することができるのだから。
 そこまで云いきって、しかし、アンナマリアはまだ言葉が続くことに気がつく。
 ――ああ、でも。
 自分に愛情を向けてくれる人は、まだいたのではないか。

 暗闇の中に亀裂が走ってうっすらとした光が差し込んだ。
 なんてことはない。ただ、アンナマリアが閉じていた目を開いただけである。目の前にはアワリティアの乳房があり、ランプの明かりが目に降り注がれた。
 アンナマリアが顔をあげると、微笑んでいるアワリティアの顔がすぐそこにあった。目と目があって、頭を優しく撫でられた。
「お目覚めですか? さあ、貴女はこれから末の妹として私たちと……」
「気易く、頭を、触らないで」
 自分の頭を撫でるアワリティアの手を振り払った。驚く相手に、アンナマリアは屹然とした目を向けた。
 気付いてしまった。たとえ優しく頭を撫でられたとて、母親の手つきではない。ペットを撫でる手つきだと。アンナマリアも、子供たちにも、誰一人とて自分と同等の存在として扱っていない。ただの、かわいい玩具としか思っていない。アワリティアは、どうしようもなく骨の髄まで淫魔なのであった。
「うそ……お母様の誘惑をはねのけるなんて……」
 周囲の子供たちがざわめきだしていた。いつの間にか、男の子の上に跨って腰を振っていた褐色の少女も動きを止めて唖然としている。それほどに、今起こった出来事が信じられなかった。
「あんなに愛してもらったのに、どうして」
 動揺する子供たちを、アンナマリアは意志のこもった目で睨み付ける。
「これに愛情なんてない。だって、自分と同じだなんて思ってないんだもの。わたしや、あなたたちは。この人からしてみたら……ただの動物よ」
「だ、黙りなさい!」
 アワリティアが慌てて一喝したが、時既に遅かった。
 アンナマリアの言葉を聞いた子供たちが、皆一様にして様子を変じさせる。頭痛を堪えるように頭を抑え、床に倒れていくのだ。
「うそ……ぜんぶ、うそ……。おかあさまは……アワリティアは、あたしたちのことなんて……」
「そうだ、最初はアワリティアを倒そうとしていたはずなのに、なんで、こんなことに……」
 譫言をつぶやき、体力を使い果たして子供たちは気絶していく。アワリティアの余裕な表情は、ここにきて完全に崩壊した。
「そんな馬鹿な……。私の洗脳がたった一言で解けるだなんて、あり得ません! 大司教クラスの聖職者でさえ解呪には三日三晩を要するはず……!?」
「でも、出来ちゃったものは出来ちゃったんだし」
 あっさりと言ってのけるアンナマリアを、アワリティアは悪霊でも見るような目で見た。顔は蒼白になり、もう当初の余裕はどこからも伺えない表情になっていた。
「やはり、貴女は危険です。その力、私のために利用させてもらおうと思っていましたが……ここで果ててもらうほかないようです」
「なにをそんなにビクビクとおびえてるの? わたしが怖いのは、貴女が淫魔だから?」
「な……っ」
 アンナマリアは前に見た夢の内容を思い出しながら口にしてみた。あの夢が妄想以外のなにものでもない可能性もあり、鎌をかけだけのつもりだったが、ものの見事にそれは図星を突いていた。
「なんだ、当たりなんだ。よくわからないけど、わたしは貴女みたいな淫魔を倒すために作られたとか聞いた覚えがあったから云ってみただけなんだけど」
「く……っ、人をコケにしたのですか」
「それ、貴女が云う?」
 はあ、と溜息をつく。これまでの会話の間で、アンナマリアは自身のペースを取り戻していた。
「理屈はわからない……けど、まだわたしには貴女を倒せる力があるみたい。だから、ここからが……本番」
「たかが洗脳を解いただけのこと。思い上がらないでください」
「だと思う?」
 アンナマリアはくすりと笑った。何故か、もうアワリティアに負ける気は微塵も感じなかった。最初は虎に見えていたのに、アワリティアのことをもう子猫のようにしか思えないのだ。
「たぶん、わたし以外だったなら勝てたんだろうけど。わたしたちって、相性が最悪で、最高みたいだから。多分、もう無理だよ」
「それは、試してみなければわからないでしょう?」
 ばさっ、とアワリティアが一対となった蝙蝠の羽根を広げる。アワリティアは、自身の躯すら覆い隠せるほどに大きな羽根でアンナマリアを覆った。
「これは……」
 躯を覆い隠す羽根には人肌の暖かさがあり、思い切り手足ごとの抱擁。
「淫魔は、自分の羽根を自在に動かせるのですよ。ただ、私は他の淫魔よりも神経が発達していまして……羽根の表面から毛先の一本一本まで自由にできるのです。……今から、それで全身を愛撫してさしあげます。ちなみに、これを受けて生き残った者は……ゼロです」
 妖艶な笑顔で宣告し、アワリティアが羽根を動かした。
 きゅっ、とアンナマリアは躯を締め付けられる。ふりほどこうとしても手足は動かせず、じたばたと藻掻くしかなかった。
「こんな、もの」
「無駄です。大熊ですら絞め殺せる力すらだせるのですよ……貴女の細腕ではどうにもなりません」
 言葉通り、アンナマリアがいくら抵抗したところでこの拘束を緩めることすらできない。じわじわと羽根が躯を強く押し包み、砂のようにざらざらとした皮膚を肌にすり込んでくる。
「さあ、羽根の感触に身悶えなさい」
 ざらりとした羽根がアンナマリアの柔肌を撫でた。未熟ながらも触れたお尻を羽根でさすり、股の間に羽根の節を滑り込ませる。秘所に節が宛がわれ、じゅっ、じゅっ、と音を立てながら擦り上げる。
「うひゃ……っ」
「ふふ、陰核と膣を同時に責められる気持ちはどうですか? ざらざらした毛で粘膜をこすられると、腰が震えてしまいますよね。みっともないことです」
 さらに、羽根の表面にある毛がさらさらと動き出す。敏感になった全身の肌を優しくブラシがけされているような感覚に、自然とアンナマリアの口から声が洩れていた。
「どうしましたか? さっきの威勢はどこにいってしまったのでしょうね。私の胸と、羽根に夢中ではありませんか。さて、このまま天国まで導いてあげましょうか――」
 そこまで云って、アワリティアはアンナマリアの唇によって口を塞がれた。
 羽根に抱かれたながらなんとか背伸びをしたアンナマリアがアワリティアの唇を奪ったのだ。
 手足を封じられたアンナマリアにできる唯一の抵抗が口づけだったのである。そのことが判っているアワリティアは驚くこともなく、楽しげに唇を細めた。勝てもしない勝負を挑まざるを得なくなったアンナマリアの決死の行動に微笑ましくなって、アワリティアは自分から舌を搦めて相手の行為に乗ってやることにした。
「ん……ん……っ」
 ふたりの呼気が漏れる。そして、片方からは案の定、切羽詰まった喘ぎ声があがった。聞く者を欲情させる艶やかな嬌声をあげて、自分の有様に目を瞠る。
「そ、んな……ばかな……!」
 声をあげていたのは、なんとアワリティアだった。
 目を蕩けさせ、頬を赤く染めたアワリティアは、口の端から涎を垂らしながらも必死に正気を保とうとしていた。
「こんな、さっきはあんなに拙かったはずです……っ」
「なんだ、そんなこと」
 くすりと微笑むアンナマリアの横顔は慌てているアワリティアよりもずっと淫魔のようだった。
「簡単だよ。ただ、貴女のやり方を覚えただけ」
「そんな、簡単に!? いや、まさか、それができるからこそ貴女が、私たちの……!」
 淫魔を打倒する――夢の中の言葉をアンナマリアは正確に理解しているわけではなかった。けれど、自分いはそれを成せる力があるらしいということだけはぼんやりとだが自覚し始めていた。
 はじめてアワリティアにキスをされたとき、アンナマリアはふりでもなんでもなく、本当にその舌技に圧倒された。だが、一度それを体験してしまえば、どうやって相手が舌を動かし、相手を感じさせたかを理解し、覚えてしまえたのである。
「きっと、わたしが道具だったからかな……。だから、方法さえ教えてくれれば簡単に真似できちゃうみたい」
 例えば、人の首を刈ることのように。
 アンナマリアは、刃を落とせば人は死ぬということをしっていて、そのための手段を用意された断頭台という存在である。それと同じで、実行するための手段である肉体があれば、どうしたら相手を感じさせることができるかという情報さえ手に入れば簡単に再現することができるのだ。そのことを、誰に云われることもなく、アンナマリアは感覚で把握した。
「ですが、所詮は猿真似です。そんな接吻だけで、この私が倒せるとでもお思いですか」
「だから、次はこっち」
 アンナマリアがほくそ笑んで、秘部をきゅっと締め付けた。すると陰部を撫でていた羽根の節をつまみ、腰を押しつけながら上下に躯を揺らした。
 じゅる――っ、と今度はアンナマリアが動いて羽根を舐め上げた。自慰行為のような行動に、何故かアワリティアが快感で躯を震わせる。
「こんなによく動くってことは、貴女の羽根ってとっても敏感なんでしょ? こうやって撫でてあげたらどうなるかな」
「私としたことが、おしゃべりが過ぎましたか……!」
 アンナマリアの指摘は図星であり、アワリティアは悔しそうに顔をしかめた。
 アワリティアの羽根は諸刃の剣なのである。神経が発達しているお陰で自由自在に動かすことができるが、神経が密集した分、性感帯のような敏感さを併せ持っている。それでも、欠点を抱えながらもアワリティアは自分の羽根に絶対の自信を持っていた。その弱点を相手に知られていても負けたことがないからだ。デメリットを補って余りある利点が自由に動く羽根にはあったのだ。
 しかし、それがここに来て裏目にでていた。
「こ、こんなもの……っ」
 アワリティアが羽根を動かして、アンナマリアの秘所から羽根を外す。そのとき、羽根による拘束がわずかに緩んだ。
 それで、アンナマリアの右手が自由になった。
 隙を突いて右腕を抜き取る。腕を振るうだけのスペースはないが、相手の躯に触れるくらいの余裕はあった。
 アンナマリアは自由になった右手で、押しつけられると窒息してしまいそうなくらいに大きな胸に触れると感触を楽しみながら持ち上げ、乳輪を口に含んだ。
「ああっ!?」
 口にしてしまえば、後はもうアンナマリアの独壇場だ。アワリティアから学習した男殺しの舌技。それを余すところなく発揮して、その乳首にむしゃぶりついた。
「ちゅ……ちゅぷゅ……はう……っ」
 まるで母乳を欲する赤子のような吸い付き。ただし、ただ夢中になって吸い付く赤ん坊と違って、アンナマリアの搾乳は性器すら搾り取ろうとするほどに貪欲だった。
「やっ、そんなに勢いよく吸い付いては……っ!」
 乳首から浸透し、乳房を犯して全身を貫く刺激に、アワリティアは切なげに鳴いた。ちゅっ、とアンナマリアが強く乳首を吸う度に刺すような快感が乳首を責めるのである。
「吸い付くのは、だめ? なら、こっちも……貴女の指の技で責めてあげる」
 いって、指先をアワリティアの膣に挿入した。
 それは、アンナマリアの頭を撫でているときにアワリティアが使った指技であった。繊細に相手を責め立てる指の動きを完全に再現して、技を総てお返しする。
 くちゅくちゅと蜜壺をかき回されて、止めどなく愛液が溢れだしてアンナマリアの手を濡らす。乳首と秘部を同時に責められ、アワリティアは目をうっとりと涙で濡らしていた。
「そんな、この私が……こんな、声を、あげてしまうなんて……!」
「それだけ、貴女の技が気持ち良いってことなのかな。今まで男たちを搾り取ってきた自分の技で感じるなんて……恥ずかしいね」
「ちょ、調子に乗って……! ああんっ」
 睨み付けてくるアワリティアを子宮に指を差し込むことで黙らせて、アンナマリアは嗜虐心のままにほほえみかけた。
「もう終わりにしよう……自分の技で、みっともなく、イってしまって」
 アンナマリアは指の前後運動を早め、ラストスパートをかけながら、口も思い切り乳首に吸い付かせた。
 ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅぱっ、と乳首をむしゃぶる音と、ずぷっ、ずぷっ、ずぷっ、と膣を貫く挿入音。その協奏に鼓膜を刺激され、アワリティアの性感は一気に高められていく――。
「こ、こんな……こんな、嘘です……私がイってしまうなんて、そんなことあるわけ、あるわけぇ……!」
 アンナマリアが、最後に乳首をこりっと甘噛みし――アワリティアの躯が跳ね上がった。
「あ、イ、イ、イってしまう……この私が、私が、私がぁ――! あ、ああああっ、ああああああああんっ!!」
 虚ろだった目を開いて、淫魔アワリティアは絶頂に達した。
 乳房を何度も揺らし、足先をぴくぴくと痙攣させながら、何度も何度も全身を巡る快楽の渦に呑まれて、アンナマリアの前に屈服したのである。
 ぐったりと脱力したアワリティアから、羽根を押しのけてアンナマリアが立ち上がった。
 大浴場の中でひとり立ち上がり、すぐにまた倒れそうになってしまう。啖呵を切り、アワリティアを退けたものの、アンナマリアの躯に堪った刺激と疲労も相当なものだった。膝はがくがくと笑い、気を抜けばすぐにでも倒れてしまいそうである。
 だが、戦いは終わった。
「……わたしの勝ち。さよならアワリティア」
 足下に倒れている淫魔に向けて、アンナマリアは右手を突き出す。
 アンナマリアの体力ももう限界で、性技でトドメをさせるだけの余力はもう残っていなかった。なら、自分がもっとも得意とする手段で敵を排除するしかない。
 生かしておいてはなにがしでかすかわからないのだ。だからアンナマリアは、断頭台の力でアワリティアに引導を渡そうとしていた。
「あまり、調子に乗らない方がいいと、云っているでしょう……」
 絶頂の余韻が抜けずに息を荒くしたアワリティアが、アンナマリアの目を見返した。しかしいくら凄もうとも、あの様子では淫魔といえどもしばらく動けないことは明白だった。
「負け惜しみ……? もう云わずに、死んで……しまえ、ば……」
 急に全身から力が抜けて、アンナマリアが膝から床に崩れ落ちた。
 そのまま躯を支えようとしても腕にも力が入らず、倒れてしまう。疲労が限界に達した、というわけではなかった。急に全身の筋肉が弛緩して動かなくなったのである。
「これ……ひったひ、な、に……」
 口にして、ろれつが回らなくなっていることに気付く。これは自然に発生するとは考えられないことだった。
 その有様に、アワリティアが喉を鳴らして笑う。顔には余裕が戻っていた。
「どうやら、保険がきいたようですね……。気付いてはいませんでしたか? この浴場にずっと漂っている甘い香りに。これは催淫効果のある淫魔特製の媚薬なのですが、濃度の濃いものを耐性のない者が吸い続けると筋肉弛緩を引き起こすことがあるのですよ。やはり人の姿を取っている以上、その生理からは逃れられないようですね……安心しましたよ」
「そ、ん、な……」
 アンナマリアは狼狽しながらも右腕を動かそうとする。その手を少し左右に振れば、断頭台の刃がアワリティアに向かって跳ぶというのに、指先すらろくに動かせない。それは、意識だけをマネキンに移植されたかのような気分だった。
 絶望的な焦燥が、炙るように胸を焼いた。じりじりと、敗北の足音がすぐそこまで迫っていた。
「これで貴女はもうなにもできませんね……。形勢逆転というやつです」
 倒れたアンナマリアにかわって、アワリティアが躯を震わせながらゆっくりと立ち上がる。勝利を確信したアワリティアには既に不安の色はない。
「どうです? いきなり絶望の底に突き落とされた気分は」
 床に倒れているアンナマリアの頭をアワリティアが踏みつけた。素足とはいえ力を込められて踏まれて、痛みに小さく声を洩らした。
「く……っ」
「いいです、いいですね、その悔しそうに歪んだ顔。本音を云えばもっと眺めていたいのですが、時間をかけて痛め付け、また不測の事態が起こってしまっても困ります。ですから、これで、お別れです」
 羽根が大きく広がった。
 大きく広がった一対の漆黒の羽根は、アワリティアの躯よりもさらに大きい。その異様な、美しさすら感じさせる姿は、アンナマリアにとっては死神以外の何者でもなかった。
「淫魔として、搾り殺すことこそ名誉ですが――この際、手段は選ばないことにしましょう。甚だ不本意ではありますが……これで逝っていただきます」
 すっ、と手を掲げると、掌の上で何かがふわふわと光り出した。突如、小さかった光が太陽のようなまばゆさを持って輝く。目もあけられぬ光に浴場が照らし出された。
 その灯りはすぐに収まった。だが、光自体は長細い槍状のものとなりアワリティアの手に握られていた。
「淫魔が暴力に訴えるのは本当に不名誉なことなのですよ……恥をかかせていただいた分、貴女にも不名誉な死に様を晒していただきます。その首を刎ねさせてもらいますね」
 槍の歩先がアンナマリアの首もとに突き付けられた。じりじりと槍の放つ熱で肌が焼ける感触。
「……っ!」
 元の姿が断頭台といえども、人の姿をとっている限り身体構造も人のものに倣っている。首を刎ねられれば、アンナマリアといえども死を免れない。死が目前に迫っていることに、断頭台は静かに息を呑んだ。
 これまで、数多の人を殺めてきたというのに、いざ自分の前になって恐怖する自分にアンナマリアは恥ずかしさを覚える。厳かに敗北を受け止めて死んでしまえればまだ格好もつくのに、肌を焼く痛みに目頭が熱くなって、どうしようもなく死ぬことが怖かった。
 槍を振り払ってアワリティアに飛びかかりたい思いに刈られたが、全身は水銀に覆い被さられたように重く、身動き一つとれない。
 このまま、為す術なく、自分は死ぬのだ。
「それでは、断罪のお時間です」
 そして、アワリティアが槍に込める力を強めた。
 抵抗もなく、槍の穂先は押し込まれる。そのまま刃は石造りの床すら易々と焼き切りながら貫いた。
「……何者です」
 殺意を隠さぬ声をアワリティアが洩らした。楽しみに水刺されたと、そういう不快さが滲みでている。
 アワリティアの槍は床を貫いたが、貫いたのはそれだけだった。そこにはアンナマリアの躯はなく、薄い水溜まりが出来ているだけである。
 剣呑な呼び声に答えたのは、張り詰めた空気には似つかわしくない余裕をたっぷりと砂糖壺一つ程は含んだ声。
「何者だ、と問われれば、そうだね。彼女の保護者と答えようかな」
 浴場に始めて響く声。声の主は浴場にはおらず――否、現れた。
 アワリティアの目の前に紺のマントが翻る。塔みたいに長い帽子を抑え、マントを払って危なげなく着地する女性は、口元をわずかにつり上げて人をからかうような表情をしていた。その表情こそが彼女の常なのだということはアワリティアの知る所ではない。
 だが、それでも、アワリティアが彼女に対して知っていることはある。瑞々しく艶やかな銀髪に、人でありながら淫魔に引けを取らない男を惑わす魔性の肉体。その立ち姿を忘れることなどそうそう起こりえることではない。特に、出会ったことすらない彼女を常々警戒していたアワリティアにはとって、その可能性は皆無だった。
「魔女イザベラ……邪魔をしたのは貴女ですか」
「お初にお目にかかるよ、七罪の一柱。興を削いでしまって申し訳ない。本当は私も傍観を決め込むつもりだったのだけどね、いやはやなんとも、私にもまだ人の心というのが残っているらしい。我慢できずに干渉してしまったよ」
「……そうですか。貴女はそれほど情が深い人には思えませんでしたが」
「私もそう思っていたのだけどね。いやあ、母性とはすごいね。さすがの私も娘の危機には¥dい腰をあげざるを得なかったよ」
 にやりとイザベラが笑った。アワリティアは戦いで疲れ切った躯で精一杯にイザベラを警戒しながら、槍の方もいつでも動かせるようにと気を払った。
「やはり貴女が断頭台制作、秘密にされた最後の協力者……でしたか」
「いかにも。常々私に気を向けていたということは、君は最初から知っていたようだね。さすが強欲のアワリティア。情報にすら欲が深いと見える」
 互いに静かな牽制を続けながら、それでもイザベラから余裕が消えることもない。
「王と開発者からの要請さ。彼女に魔術的効果を付与するためには私の協力が必要でね、この王宮に出向かせてもらっていたよ。いやあ、この浴場も懐かしいなあ。ギヨたんの人格を作るためにサンプルとして子供を受精したんだけど、そのためにここで何度も王や兵士と躯を重ねたものだよ。みんな途中でへばってたなあ、懐かしいね」
 イザベラの論点が判らなくなるような軽口をアワリティアは相手にせず、冷静に返答する。
「対淫魔用、索敵断罪処刑具……というわけですね。あの学習能力、やはり完成していては我々の脅威となっていたでしょう。王を搾り殺した私の判断は間違っていなかったようですね」
「ギヨたんが成熟したら最終的にはもっと凄かったろうからね。自立行動して、淫魔と人を判別し、さらには性技を簡単に躯で覚えられるんだ。きっと世界一の床上手になっていたと思うよ。あ、最後の機能は私が勝手につけたんだけど。せっかく淫魔と戦うんだからそれくらいないと面白くない」
 そこでイザベラが指一本立てる。まるで教え子に講義をする教師のような仕草だった。
「でも、間違っていることがひとつ。それはね、ギヨたんが完成していたとしても君たちの害にはならなかったということだよ」
「……なんですって?」
「王の気が変わったんだよ。ギヨたんを自立行動させるためには知能が必要で、だから私の受精した子供をすぐに摘出して魂だけを移植したわけだけど、それに情が移ってしまったというわけさ」
 大げさに肩を竦めて、イザベラは言葉を続けた。
「ただでさえ人化できるほどの力を蓄えさせるために断頭台を選んで人を処刑させていたんだ。人を殺すことはもっとも呪詛を溜め込む手段として優れているからね。ただ、そのせいで人化の前に意識が目覚め、意志とは関係なく人を殺すという呪われた運命を背負わせたギヨたんに、それ以上の苦行を押しつけることができなかったのさ。だから私はギヨたんが目覚めたら自由に生きるようにいってくれって言付けられていたよ。その結果はご覧の通りだったけど」
「……なるほど、大方の事情は飲み込めました。それを知っていたとしても私の行動は変わらなかったでしょうが」
「ほう? 君は王の行動を危険視してこの国を落としたものだと思っていたけど」
「それが大きな理由であったことは否定しません。ですが、根本的に私の中に根付いている願望はおわかりでしょう?」
「二つ名は伊達ではない、か」
 イザベラのつぶやきに、アワリティアの口が孤を描いた。
「そう――強欲。私はね、欲しいのですよ。街が、国が、世界が。そこにある家畜が、民が、富が。私の淫魔としての行動は元をたどればそこに行き着くのです。搾精をおこなうのも心が満たされるからですし、子供たちを作るのもその一環でしかありません。この世の総てが、私は欲しい」
「世界すら喰らおうとするか。なんとも大言壮語が過ぎる淫魔だ」
「そうでもないでしょう。世界をとるなんて実に淫魔らしいとは思いませんか。いや、世界、より地球と言い換えた方がいいでしょうね。だって、地球は生きているんですもの。生きているなら幾らでも籠絡してさしあげますわ」
「まあ、その槍すらその地球の産物だろうからね。私の魔法もそうだけど……やれやれ、私も人のことをいえないくらい業が深い」
「魔女も淫魔も、魔に通じるものは等しく地球の愛人ですものね」
 イザベラとアワリティアの口にしている言葉は、常人には理解のし難いものであったが、ふたりの間では常識のような事柄であった。
 空間跳躍を筆頭に超常的な力を振るうイザベラ、虚空から光の槍を取り出したアワリティア。ふたりの行使した力は共に魔法と呼ばれるものである。この力、理論的なところを省略してしまえば、その共通項は地球を騙す≠アとなのだ。
 地球とは自然という新陳代謝をする生物であり、この世界の時間、空間、そんな普遍的な物理法則すら総て地球自身の生態、行動なのである。よって魔法とは、この地球をどう騙して架空の論理を走らせるか。どう新しい法則を地球に作らせる、信じ込ませるか、に集約する。
「私は魔女だからね。最初に力を手に入れたのは悪魔と契約したからさ。対価を支払わされることになるけど、悪魔から一気に強い力を貰える。魔法使いと違うところだね」
「そう、そうやって貴女が欲望のままに悪魔から力を手に入れたように、私は自分の欲望のままに国を獲ったまでのこと。そしてそれはこれからも続いてゆくのです。……ですから、邪魔な貴女にはここで逝っていただくとしましょう」
「へえ、その調子だと体力は回復できたのかい? 結構時間がかかったね」
 飄々と云ったイザベラに、アワリティアは顔を強ばらせた。
「まさか、わかっていたのですか」
「そうでなければあそこまで口数は多くないよ。と、云いたいところだけど、半分以上は私が話したいから話しただけさ。いや、他人に云えない秘密というのを抱え込むのが苦手なタチでね。誰かに聞いておいて欲しかったんだよ。ほら、ギヨたん本人に伝えてもどうせお母さんなんて呼んでくれそうにないし」
「たいした余裕ですね。よほどご自身の力に自信があるようですが――その油断が命取りです」
 瞬間、光が爆ぜた。
 光――ッ、とまばゆい光で浴場が満たされる。目を閉じ手で覆ったとしても肉をつらぬき目を焼きかねない光。
 その中を一筋の黒影が疾駆した。
 光の槍を携えたアワリティアである。閃光に紛れて駆ける姿は足場の悪さをものともせず豹のように俊敏。
 両手で腰の辺りで構えた光の槍、アワリティアはその穂先を人影へ一直線に向けていた。
 光が晴れる。しかし、人影は未だに閃光の余韻で呆然と立ち尽くしていた。
 目くらましの光に立ち尽くすイザベラが――。
 無防備な獲物を前にして酷薄な笑みが浮かんだ。
「さようなら――愚かな魔女さん」
 槍は鮮やかな手つきで、迷いなくイザベラの左胸を貫いた。
「ぐ……っ」
 イザベラの口から真っ赤な血がこぼれ落ちる。
 アンナマリアのときのようなことは起こらなかった。転移する暇すら与えずに、光の槍はイザベラの左胸を刺し、その心臓を貫いたのだ。熱を持った光の槍が音を立てて血を蒸発させながらイザベラを内部から焼き焦がし、脂肪の焼ける酸っぱい匂いが浴場の中に充満する。
「確かに貴女は過信するだけの力を持っていらしたようですが……それも使えなければ意味もありませんでしたね。おとなしくひきこもっていればよかったのに、調子に乗るからそうなるのですよ、お馬鹿さん」
「ああ、慣れないことは、するもんじゃ、ないね……」
 イザベラの足から力が抜けて躯が傾ぐ。胸に刺さった槍に体重がかかって、背中へと貫通している槍がさらに深く突き刺さった。
「いかな魔女といえども、死んでしまえばただの肉塊。惨めな最期でしたね。あの世で悪魔への対価で慰みものにでもなっていなさい」
 心の臓を貫かれて虫の息になったイザベラに、アワリティアは最後となるであろう言葉を投げかけた。
 脱力したイザベラの躯をトドメをさすために槍がさらに深く突き進んでいく。
「いや、別に死んでないけどね。私は」
 イザベラの手がアワリティアの胸を押した。
「え――っ」
 それだけでアワリティアの躯が吹き飛んだ。
 衝撃に槍を手から離してしまったアワリティアが向かいの壁に激突する。背後の壁に亀裂が走るほどの力に、口から苦悶の声があがった。
「いたたた。手が届かないから躯ごと奥に押し込んだけど、さすがに痛いね」
「か、ぁ……っ!? な、何故……」
「どうして生きてるか、だって? いやいや、君が散々云ってたじゃないか。魔女だからだよ」
 自分の左胸に突き立った光の槍に、イザベラは熱で手が焼けることも気にせずに掴むと、一息で引き抜いた。傷口は焼け焦げ、血は流れ落ちなかった。
「魔女を人間と思っちゃいけないね。だから弱点が心臓だなんて思い込む。私も心臓を壊されれば痛いけど、それは肺や胃を傷つけられたのと意味に違いはないんだよ。私としては肝臓を刺された方が昔を思い出してまだ気が滅入ってしまうね」
 自分の手を焼く光の槍を興味深そうに眺めながら、アワリティアはこれまた講義のような口調で云った。痛みと屈辱で、アワリティアの顔が苦虫を噛みつぶしたソレになった。
「へえ、光を一カ所に止めるように偏光させた槍か。熱は放射せず、直接触れたときにのみ伝導するんだね。温度は五〇〇〇度は超えているか。さすが高位淫魔は作り出せる携行武器も一流だね」
「調子に、乗るなと、云っているでしょう――っ」
 アワリティアが吼えた。
 一喝で彼女の背中にあった壁が吹き飛ぶ。アワリティアの漆黒の羽根に叩かれ、砕け散ったのだ。
「いいでしょう、そうまで虚仮にされてはこちらも全力で行かせて頂きます。この国に来てから蓄えた精気、それを総て魔法に注ぎ込んで――」
「あ、それは無理。これ以上争う気はないよ」
 にこりと笑いながらイザベラが微笑んだ。
「だってもう争いじゃなくて、虐めだからね」
 そして、アワリティアは自分の置かれた状況に絶句した。
「あ、ああ……」
 頭上から、無数の光がアワリティアを照らしていた。それぞれの光源が青空に浮かぶ太陽を見上げたときのようにまぶしく、人が直視しつづけていては目を悪くしてしまいそうなまばゆさだった。そんなことをものともせず、いや、そんなことに気を裂く余裕すらなく、アワリティアは見上げ続けていた。
 その頭上には無数の光の槍が雨粒を停止させたような格好で並んでいた。
 ずらりと並んだ光の槍。一〇は見ただけで上回ることがわかり、一〇〇ですら足りそうになかった。いったい、何百の槍が頭上に並んでいるのか。もし数え切れてしまったらアワリティアは発狂してしまうだろう。
「君が本気を出してしまえば、このお城くらいなら簡単に消し飛ばしてしまえるだろう。それは困るんだよ。ここに倒れてる子たちも兵士も巻き添えだし、なによりこんな歴史ある建物を壊すなんてもったいない。だから、そうさせる前に終わらせたいんだ」
「なんで、私の、魔法を……」
「んー? わからないかな。私もね、ギヨたんみたいに君の技を覚えたんだよ。もっともギヨたんは道具っていう性質を利用して関連づけしたんだけど、私は悪魔と契約して手に入れた模倣能力さ」
「馬鹿な……転移、怪力、身体の不死性、それに技の模倣……これだけの数の力を契約で与えられる悪魔などいるはずがありません! もし仮にいたとしても、埒外な代償が……」
「簡単な話だよ。私は、複数の悪魔と契約してるんだ。それなら話は簡単だろう?」
「そちらの方があり得ない! 悪魔から要求されるのは魂! 複数の悪魔から代価を要求されれば、生きていることなど……」
「うーん、頭が硬いな。だから、私は悪魔に代価を払わなくていいんだ。だから何体とだって契約できる。ああ、でも全員に一度は払ったかな。躯を重ねるっていう代価をね。ちょっと腰を振ってあげたら、みんな代価を免除してくれたよ」
 今度こそ本当にアワリティアは言葉を失った。
 魔女イザベラ――アワリティアはその存在をこの国に滞在している人物の中で最重要人物として注意を払っていた。未知数の魔女の力は、高位淫魔である自分自身でも脅威と判断していたのだ。
 しかし、心底警戒していたというわけではなかった。常に目の端で姿を追ってはいたが、凝視したことは一度としてはなかったのだ。
 アワリティアは最大限に警戒していたつもりだったが、相手の力はそれを軽々と上回るほどに規格外だった。
 その力、全力のスペルビアでも勝てるのであろうか――? 淫魔の得意分野である性技でなら、自分でも――。そう思い込もうとして、勝てる想像が一切わいてこないことにアワリティアは絶望で泣きそうになっていた。
「それじゃ、覚悟はいいかな?」
「ま、待って……ください。最後に、ひとつだけ……」
「なんだい?」
 時間を稼ごうという気はアワリティアにはなかった。多分、いかなる幸運が重なろうとも自分の死が覆らないだろうということは判っていた。ただ、単純に知りたいことがあったのである。
「貴女は、何者、なのですか……?」
 その質問にイザベラは目を瞬き、次いでくすくすと笑い出した。
「ああ、そうか。そうだね。正体の判らぬ相手に殺されたくもないだろう。かといって、何者か、と問われて即答できるほど私は哲学を嗜んではいないんだが……うん、ならこの名なら通りもいいか」
 すこし逡巡して、イザベラは自分の異名を口にした。
「シュネー・ヴィットヒェン……白雪姫=Aさ」
 答えて、白雪姫――イザベラはアワリティアに問い掛ける。
「それじゃ、私からも君にひとつ聞かせてもらおうか」
「え……」
「君は今まで死んだことがあるかな。いや、ほら、こんなに槍があるんだ。即死されてもつまらないだろう。どれだけ蘇られるのかと思ってね」
「そんなことできるわけ……」
 そこまで答えて、アワリティアの真っ青になった顔からさらに血の気が引く。イザベラの言葉の意味がわかってしまって、既に顔は死人のそれになっていた。
「ま、さか……あなたは……」
「ああ、そうだね。参考まで云わせてもらうと――私は、三度死んだよ」
 今度こそ、アワリティアの理性という堤防は絶望によって決壊する。
「い、いやあああああああああああああああああああ」
 無数の槍が投下され、悲鳴は光の彼方に消えた。

 これが、この国を騒がせた革命の裏側での決着であった。
 以後、真の指揮者を亡くした革命は瓦解していくこととなる――。

     *

 ――エピローグ。

 裏で指揮を執っていたものたちが無力化され、淫魔たちによって展開されていた兵士たちに下されていた命令は撤回された。
 元より指示されていた人間たちにも理解できない不可解な頼み事だったのである。淫魔たち三人が忽然と消えたとあっては、事態が収束するのも当然と云えた。
 さらに、スペルビアだけは騎士団長という表の立場もあったため、彼女の失踪についての調査もある。彼女が淫魔であると知らない大多数の者たちは大慌てで、意味の判らない命令にいつまでも構っている余裕はなかったのだ。

 あの騒動から数日が経過していた。
 アンナマリア、イザベラ、レリア、ジョゼフの四人はイザベラの家でテーブルをかこっていた。全員の目の前には細長いパンをナイフで切り分けたものがおかれており、できたてなのか香ばしいにおいを漂わせている。
「あー……冷めないうちにどうぞ」
 そのパンを焼いた張本人であるジョゼフが遠慮がちに云った。
 アンナマリアにパンを焼くという約束を果たすために、ジョゼフが居候をしているパン屋で焼いてきたものである。まともに店頭に並んだこともなく、特別に頼んでいたレリアだけが口にしていたものだが、それが今は全員の前にあった。
「じゃああたしが最初にいただきます!」
 即答したのはレリアだ。云っているときには既に手はパンを掴んでいて、女の子でも食べやすいように小さく切りそろえられたパンを勢いよく噛んだ。
「うわっ、我が弟子ながら空気が読めないね、レリア」
「うるひゃいですよ、てんてー」
 パンに噛みついたままもごもごと離したレリアは、そのままパンを口に押し込むと小さな喉を上下させて呑み込んだ。
「うんうん、空腹が満たされるパンですね」
「レリアちゃん、味はどうだったかな?」
「それはギヨたんの口から聞いてみるといいですよー」
「ギヨたんいうな」
 アンナマリアは相変わらずの不機嫌そうな顔だったが、レリアに急かされてパンに手を伸ばした。
 両手でおそるおそるパンを掴む。こんがりとして硬さのあるパンの耳と、真っ白でふわふわとした中の生地をじっと見つめた。元が断頭台であったアンナマリアにとって、パンは初めて口にするものであり、物珍しさで観察してしまっていた。
「さ、さあ、どうぞ」
「……うん」
 頷いて、アンナマリアは口元にパンを持っていく。
 さくっ、という音をさせて、パンをかじった。
 しばしの沈黙の後、パンから口を離してつぶやいた。
「……不味い」
 無慈悲な言葉にジョゼフの躯が硬直する。その隣でレリアはにこにこと笑っていた。
「はい、というわけで、あたしの感想も以下同文ですねぇ」
「容赦ない!? 笑顔なようでこの子たちまったく容赦ないですよ!」
「まあ仕方ないんじゃないかな。本当のことなんだし」
 ジョゼフの正面に座ってパンをかじったイザベラも頷いて賛同を示していた。頬を引きつらせてジョゼフはうなだれる。
「判ってましたよ、自分が力不足だっていうことくらい……。せっかくだと張り切ってみましたけど……」
「期待して損した」
 ざくっ、とアンナマリアの言葉がジョゼフに突き刺さり、体格の良い青年の躯がますます頼りなくしぼんだ。
「まるでやすりでも囓ってるみたい」
「もう追い打ちかけないで!?」
 がりがりとパンを食べながら言葉を止めないアンナマリアに、ジョゼフは思わず涙目になりながら叫んでいた。
 そこでジョゼフはアンナマリアの皿に載せていたパンが半分以上なくなっていることに気がつく。
「……あの、そんな無理して食べなくてもいいんだよ?」
「なんで?」
「いやなんでって……さっきやすりみたいって……」
「別にわたし、やすりがけされるのは嫌いじゃないけど」
 不愉快そうに睨まれて困惑するジョゼフに、レリアがくすくすと笑った。
「やだなあ、ジョゼフくん。ギヨたんは一度だってこのパンが嫌いだなんていってませんよ」
「ギヨたんいうな!」
 レリアの顔面にパンの切り身が投げつけられた。不意打ちに仰け反ったレリアは椅子から立ち上がるとむっと眉を寄せてアンナマリアを睨み付ける。
「こらっ、食べ物を粗末にするんじゃありません!」
「うるさいっ、ギヨたんいうな!」
 顔を真っ赤にしたアンナマリアも立ち上がってレリアの目を真っ向から睨み付けた。ふたりのにらみ合いにジョゼフが慌てたが、イザベラは何食わぬ顔でパンをスープにつけながらかじっていた。
「ま、魔女先生……見てないでとめてくださいよ!」
「そんなこといわれてもねえ、喧嘩するほど仲が良いともいうし」
 スープが染みこんで柔らかくなったパンを口に押し込んで、イザベラは食卓に肘をついた。
「それに、この喧嘩が見られるのは今日が最後だ」
 イザベラの口調が、少しだけ重くなっていた。
 それは、この場の全員が努めて気にしないようにしていたことだった。一気に部屋が耳の痛くなるほどに鎮まり返る。そうすると誰もが意識してしまう。ふたりの喧嘩にも、空元気が混じっていたということに。
「そのことくらい、みんな知っているんだろう。本人であるギヨたんや、直接話したジョゼフに……それと、立ち聞きをしていたレリアも」
「やっぱり、知られてましたか」
 レリアの笑顔にも力がなく、まるで彫刻が微笑んでいるように味気ない。
 アンナマリアが人でいられるタイムリミットは、もう目と鼻の先にまで迫っていた。そう、今にでも、瞬きをした次の瞬間には人の姿を保っていられなくなっているかもしれない。それほどまでに少女の躯は不安定になっていた。
「別に、死ぬわけじゃないし。ただ元の形に戻るだけ。そんな大げさなことじゃない」
 ただ、当の本人はいつもと同じような顔のままにそういった。イザベラでさえ声の調子が変わっているというのに、この中で一番落ち着いているのはアンナマリア自身であった。
 それに戸惑いながら、ジョゼフが声をあげる。
「でも、君はもう自分で喋ったりすることだってできなく……」
「大げさにしないで云ってるじゃない!」
 アンナマリアが声を荒げて、ジョゼフははっと我に返った。
 断頭台に戻るということは、アンナマリアは喋ることも、自分で考えることすらできなくなるのだ。単なるどこにでもある無機物になってしまうのである。イザベラの話では正当に年月を経ればまた目を覚ますことができるようになるとのことだったが、それは数年、数十年という単位ではない。数百年以上かかるものだ。それほどの長い眠りは、死と同義である。それがおそろしくない訳などあるわけがない。
「あ、ごめん……」
「もういい。外の空気吸ってくる」
「あっ」
 アンナマリアは椅子を倒しそうな勢いで机を離れると玄関から飛び出していった。止める間すら与えられなかった。
 呆けて開けっ放しになった玄関の扉を見つめるジョゼフの背中を駆け寄ったレリアが思い切り叩いた。
「ほらっ、なにしてるんですか! 早く追うんですよ!」
「う、うん……! ちょっと、待ってーっ!」
 頷いて、ジョゼフは後を追って玄関を飛び出した。その姿を見送って、レリアは安堵の溜息をつく。その横ではイザベラが丁度スープを飲み終えたところだった。
「いやはや。レリアは相変わらず苦労性だね。その難儀な性格には思わず目元が緩むよ。さ、あとはふたりに任せて私たちはのんびりするとしようか」
「なにいってるんですか、先生」
「んむ?」
「あたしたちも行くんですよ!」
 レリアは思い切りイザベラの背中も叩いた。

「待って、待ってったら!」
 人混みを掻き分けて路地を進むアンナマリアに向かってジョゼフは声を張り上げる。しかし、彼女の小さな姿は止まるどころか人の間を器用にくぐって進んでいく。
 女の子を追いかけているのを周囲の人々に胡散臭げに見られながらも、ジョゼフはそれらに気を裂いている余裕はなかった。少しでも目を離せば、彼女は手の届かないところへ消えてしまっている気がしたのだ。そして、次に会うときは物言わぬ姿になっている。そんな想像ばかりが浮かび上がってきて、もうジョゼフにはアンナマリアしか目に入らなかった。
 走って、走って、アンナマリアが路地を曲がった。ジョゼフもつられてそこを曲がって進み続けると、急に人の姿がなくなっていく。郊外の奥地にひっそりと立てられたイザベラの家からある程度離れてしまえば、そこはもう人気のない森林地帯だった。
 ここまでアンナマリアはすばしっこく逃げ回っていたが、人という障害物がなくなった今なら足の速さでジョゼフに適うものではない。みるみる間に距離を詰めて、ジョゼフはアンナマリアを後ろから抱きしめた。
「捕まえた」
「……離して」
「逃げないなら離すよ」
 アンナマリアは答えなかった。ジョゼフは抵抗もしなくなった小さな少女のぬくもりを腕の中に感じながら口を開く。
「ごめんね、君が不安なことに気がついてあげられなくて」
「わたしは、別に……なんでもなかった。ただ、ひとりでいたいから……だからここまできたの」
「それなら、逃げなくてもよかったじゃないか。逃げられたら、追っちゃうよ」
「そんな、勝手なこと……」
 そうは云いながらも、アンナマリアの言葉に覇気はなかった。顔を近づけていなければ、なにをいっているのかすら聞き取れないほどに弱々しい。
 腕の中で小さくなる黒い少女に、ジョゼフはふと思いつく。
「君は、猫みたいだよね」
「なんで、猫?」
「猫は、自分の死期を悟ると姿を消すんだ。誰にも見られないように」
「それ……勉強して、知ったことなの?」
「さあ、なんだったかな。息抜きに読んだ本にでも書かれてたのかもしれない。だけどね、そうでなくてもぼくは君が猫みたいだと思ったよ」
「わたしは、猫みたいに弱くない」
「そうかな。ぼくには……君が雨に濡れて、帰り道がわからなくなった、かわいい黒猫に見えた」
 言葉を失ったアンナマリアに、ジョゼフは腕に込める力を強めた。
「だから、もうひとりで無理なんてしなくていいんだ。やせ我慢して、ひとりで最後を迎えようなんて……そんなことはしなくていいんだ。だから、ぼくやみんな嫌いで逃げたんじゃなければ……看取らせてほしい。君の最後を」
「……嫌いなわけ、ないよ」
 アンナマリアの顔はジョゼフからは見えなかったが、その声が震えていることはよくわかった。
「嫌いなわけない……ジョゼフも、レリアも、あの魔女だって……嫌いなんかじゃない。でも、わたしはひとりじゃなきゃいけなくて……ずっと酷いことをし続けなきゃいけなくて……だから、わたしが一緒にいたらみんなあの人みたいに不幸になっちゃうから……」
「不幸だなんて、ぼくは思わなかった。驚いたし、凄い目にだってあったけど、それでもぼくは君を蔑むことなんて一度だってなかった」
「でも……」
「あたしもギヨたんのこと大好きですよ!」
 女の子が声を張り上げていた。それはジョゼフとアンナマリアを追いかけてきたレリアによるものだった。
「自分のせいで人が不幸になるだとか、迷惑にさせるとか、なにひとりで被害妄想に耽ってるんですか。あたしの知ってるギヨたんはそんなに殊勝な子じゃなかったですよ!」
「レリア……」
「偉そうにふんぞり返っていればいいんです。弾劾してくる人がいたらそれがどうしたって鼻で笑ってやればいいんです。ギヨたんは自分のことを負い目に感じる必要なんてこれっぽっちもないんですよ!」
「そうとも。むしろ、ひとりで溜め込まれている方が良い迷惑だよ」
 レリアに続いたのはあのイザベラだった。急いできたのか肩で呼吸しているレリアと違って息一つ乱していなかったが、それでも、その目は真剣そのものだった。
 びっくりして硬直しているアンナマリアに、ジョゼフがそっとつぶやく。
「ほら、みんな、こう云ってる。だからね、後ろめたさなんて覚える必要はないんだ。最後くらい……みんなに囲まれていたって、いいんだ」
「あ……っ」
 ジョゼフの掌に熱い雫が落ちた。アンナマリアの小さな躯が震えていて、必死に掌で目元を拭っている。けれど、ジョゼフの手を濡らす雫が減ることはなく、むしろ堰を切ったように溢れていく。
「やだ……今度は、今度は……みんなとさよならしたくない。したくなくて、涙がとまらない……」
「ぼくは、君をひとりにはしないよ。だから、不安にならなくていいんだ。ただ、そう、少しだけ……眠るだけなんだから」
「起きたら、側にいてくれる?」
「勿論」
「それは……」
 アンナマリアの小さな手が、ジョゼフの手を握った。
「すごく、安心した」
 ジョゼフの腕の中にあった暖かさが徐々に薄れていく。ずっと掴んで離さないと思っていた子の躯からは力が抜けて、魂が抜け落ちたように冷たくなっていって、それを止める術はジョゼフにはなかった。
「さあ、ジョゼフ。もう離れるんだ」
「先生……」
「時間なんだ」
 振り返った先にいたイザベラは、沈痛な面持ちで首を振った。レリアもぎゅっと手を握りしめて、動かなくなっていくアンナマリアを見ていた。
 あの万能であったイザベラがあんな表情をするのを、ジョゼフは見たことがなく、だからもうどうしようもないのだという事実が胸に押し寄せる。奥歯を噛みしめながら、ジョゼフは少女の躯を地に横たえてその場を離れた。
 そして、アンナマリアの躯が変わっていく。質量を無視して、その躯は輪郭を失って大きな断罪の鎌へと変わっていく。あとには、見上げるほどのただただ大きな断頭台が残された。
 その処刑道具には、アンナマリアの名残を感じることはできない。無機質で、冷たい刃が、薄く漂う霧で濡れていた。
「ギヨたん……もう、動かないんですね」
 レリアが断頭台に歩み寄って、その刃を見上げる。
 涙は流していなかった。ただ、その顔には寂しさがあった。
「もう、ギヨたん云うなって、云ってくれないんですね」
 こういえば、文句の代わりに刃でも落ちてきてくれそうな気がした。そう夢想して、けれど断頭台は動かない。それはもう道具でしかなく、道具は人が使わなければ動かないのだ。当然の理屈だった。
「さあ、どうする、ジョゼフ。君は彼女に無責任な約束をしてしまったぞ」
 黙って断頭台を見ていたジョゼフに、イザベラが厳しい声をかける。
「起きたら側にいるだなんて、人の命では到底無理な話だ。彼女は今後数百年目を覚ますことはないのだから」
「そうですね……きっと、ぼくでは魔女先生みたいにもなれないでしょうし。もう、二度と、ぼくはあの子の姿を見ることはできないんでしょう」
 イザベラを振り返る。ジョゼフの瞳に溢れていたのは、しかし、決意だった。
「けど、ぼくは駄目だったとしても。ぼくの息子が、孫が、曾孫が、子孫が……きっと、彼女の側にいてくれるはずです」
「君は……」
「子々孫々、言い伝えますよ」
 そっと、その手で断頭台に触れる。
「ちっちゃくて、黒くて、かわいい、意地っ張りな……不器用な女の子がいるんだってことを。その子にあったら、絶対に助けてやってくれって」
 ジョゼフは目を閉じた。思い返すのは、家族を全員失ったあとの自分だった。
 あのとき感じた気持ちが胸にわき上がって、ジョゼフはイザベラに笑ってみせた。
「だって、目が覚めたときにひとりぼっちだったら、寂しいじゃないですか」
 その答えに、イザベラはしばらく言葉を失っていた。彼女がなにかを言い出す前に、静けさはレリアによって打ち消された。
「それっ、あたしもお手伝いしますっ!」
 がばっ、と抱きついてくるレリアにジョゼフが顔を真っ赤にしてあたふたと慌てた。
「え、ちょっと、レリアちゃん!?」
「いっぱい子供作って幸せな家庭を作りましょーね! それでそれで、ギヨたんが起きたときには騒がしいくらいの一大一族に!」
「ちょ、ちょっとそんないきなり……むぐーっ」
 いきなりキスをされてジタバタと手足を振り回すジョゼフの姿を眺めていて、イザベラは苦笑しながら帽子を抑えて顔を隠した。唯一見える口元は、しっかりとした、皮肉ではない笑みが浮かんでいる。
「なるほど、血の繋がりか……。そうだった、それが人っていう生き物の確かな力だったね。寿命をなくして、久しく意識していなかったことだ」
 騒がしいジョゼフとレリアの前でも静かにたたずんでいる断頭台を仰ぎ見て、イザベラは柔らかく目を細めた。
「なにも不安に思うことなんてないよ。だから、ゆっくりとおやすみ。――マイネトホター

     *

「おーい、倉庫なんかでなにしてんだよ。婆ちゃん」
「別に。ちょっと写真を見てただけ。あと婆ちゃん云うな」
「いてっ、別に叩くこたぁねぇだろ! こっちはアンタに作らされた飯ができたから呼びにきてやったんだぞ。まったく、パンなんか焼かせやがって……」
「はいはい。じゃあそのパンを堪能させてもらう。不味かったら死なす」
「相変わらず理不尽っすね婆ちゃん!?」
 騒がしい男女の二人組が薄暗い倉庫を後にする。
 はめ殺しの窓から差し込む灯りが、地面に落ちた写真に降り注ぐ。
 写真には、立派な髭を生やした老人が、若々しい妻と共に断頭台の前で微笑んでいる様が映し出されていたのであった――。

 Photo By Isabella.
 The End...
 あけましておめでとうございます。前回あんなこといって年内に終わらせるつもりがこんなことになりました。というか文庫本換算で60ページ以上ある最終話となりました。総ページ数は大体400ページ!
 思えば最初の一話をあげて思い付きで始めたものでしたが、こんなに続くとは自分でも驚きです。ここまで見守ってくださった皆様、本当に今までおつきあいありがとうございました。
 せっかく作ったのだし、ということで最終話にして初めてでてくる設定、キャラクターの行動背景を描写したせいで蛇足感もでてしまいましたが、やりたいこと、云わせたいことはこれで終わりです。機会があれば、コメントでもらったような補足的な話もやってみたいですね。

 今まで見るだけだったBF小説、実際に書いてみていかに苦労するか思い知らされた苦しくも楽しい期間でした。
 それでは。重ね重ね、ここまで目を通していただきありがとうございました!

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