――数年前。王宮にて。
王宮の玉座にてひとりの男性が組んだ手に額を押し当て、唸っていた。
豪奢な服装の男性であった。肌触りの良さそうな生地で仕立てられた貴族服には絵画に描かれているような模様が編み込まれていて、それは庶民の薄給では一生かかっても手に入りそうにないものだ。
身なりだけではない。それを身に着けた男性にも、余人にはない気品があった。一朝一夕ではけして身に着けることのできない、生まれたときより染みこんだ風格である。喉を鳴らして悩んでいる仕草ひとつとっても、上等な生まれのものでなければ身につかない貫禄があった。
男性が浮世離れした風格を持っているのも当然で、彼こそがこの国の王なのだ。
国家を統べる場所であり、大勢の兵士がつめ、貴族が集まる国の最高機関である王宮の頂点に君臨する最高の権力者。
しかし、普段ならば王の周りにいるはずの兵士も、貴族も、玉座の周りにはひとりとしていなかった。
王は顔をあげて、がらんとした玉座の間に目をやる。キラキラと星のように輝くシャンデリアが灯火を幻想的に揺らしていたが、常ならば絢爛な灯りも今となっては薄ら寒いものにしか見えない。消えてしまいしまいそうになりながら頼りなくゆらゆらと揺れる灯に不安を覚えて、王は天井の絵画へと目を向けた。
かつての王が巨額の費用を投じて芸術家に描かせた太陽神の天井画である。そこに描き込まれた太陽神と人々の絵にはこの瞬間にでも動き出しそうな脈動感があった。見ているだけで活力を漲らせてくれるようなその絵画だけが王に残された最後の心のよりどころであった。
王は目を閉じて、耳を澄ます。それでも、本当に遠くの方から人の声がかすかに聞こえる程度だった。王が大声をあげても誰の耳にも届かないくらいに、兵士たちは玉座の間より引き離されていた。
王宮の警護を手薄にしろなどと、王は命じた覚えもない。なのに、どうしてか王宮は腹を見せて寝転んだ獅子のように無防備を晒している。
争いをおこなわずに、対象を無力化する。
そういう手段を得意とした連中を、王は知っていた。そしてなにより懸念し、警戒していたはずなのだ。
連中に対抗する手段を模索し、国家より駆逐する――そのお膳立てを、王はつい最近終えたばかりであった。
その認識が敵につけ込まれる隙を生んでしまったのだろう。王宮の中での出来事で王が認識できないものが増えていったことに気付いたときには、もはや手遅れだった。
これより自身へと降りかかるであろうことを考え、顔が悲壮に歪んだ。
「逃げずに残っているだなんて、その勇気には敬意を表したいですね、王」
王にかけるものとは思えない不遜な女性の物言いが玉座の間に響いた。
扉を開けて入ってきたのは侍女の格好をした女性だ。それでも、王には見覚えのない顔である。王宮に仕えている者たちの顔を全員把握しているというわけではないものの、王は王宮で起こっている異常の元凶が彼女であると判断した。
「例え逃げても、無駄なことなのはわかっている。そうだろう、淫魔よ」
「察しがよくて助かります。ああ、そういえば、名乗りが遅れてしまいましたね。高位淫魔、七柱が一柱、強欲のアワリティア――あなたを果てさせる者です」
「昔、聞いたことがある。淫魔の中でも特に優れた七人の者たちがいると……そうか、そのひとりが入り込んだとあってはこうもなろうな」
「正確には、私だけではありません。騎士団を掌握している騎士団長のスペルビアも七柱のひとりですし、あとひとり、貴族御用達の娼館で働いていますよ。いずれも」
「高位淫魔が三人……この手際のよさも頷ける。これは命運が尽きるのも道理だ」
冷や汗を流しながら、王は毒でも飲まされたように苦しげに頷いた。それでも口調から威厳を手放していないのは、さすがは王といったところか。
「あなたがいけないのですよ。おとなしく人の王として君臨していればよかったのです。そうすれば、私たちも市民に紛れて人間を搾取するだけで干渉は致しませんでしたのに」
王はアワリティアの口ぶりに生唾を呑み込んだ。
自分がやろうとしていたことを淫魔に知られているとは思わなかったのである。
「お前たちも他の淫魔と同じく、魔女狩りのときの報復で人に害をなそうとしているかと思っていたが……よもや、知られていようとはな」
かつて、淫魔は人に紛れて何食わぬ顔で生活をしていた。気ままに人と戯れ、思い付きのままに人を虜にする。迷惑な限りであったが、淫魔たち個人個人の気分で完結されていたために大きな問題もおきていなかった。それなのに、一部の人間が自分たちとは違う淫魔たちを見抜いてしまった。しかも厄介なことに、彼らは彼女たちを淫魔ではなく魔女と勘違いしたのだ。
世界中に広まった魔女狩り、それによって処刑された魔女の中には多くの淫魔たちも含まれていた。これを契機に淫魔たちは人間への態度を家畜に対するそれに変更し、襲うようになった。そのため王は、アワリティアたちが国を支配しようと暗躍していたのは魔女狩りの報復だと思っていたのだ。
そう訊ねられて、アワリティアは笑い話でも聞かされたようにくすくすと笑う。
「何故、私たちが人に捕まって処刑されてしまうような淫魔たちの復讐をしてあげなくてはいけないのですか? 所詮、彼女たちは自分が弱かったから処刑された……弱肉強食というものですよ。私は常に相手を喰らう強者ですので、彼女たちのことも、そしてこれから喰べられてしまうあなたのことも顧みる気などありません」
「……死は覚悟していた。今なら人も来るまい。しかし、ただで殺されるつもりはない」
王は玉座の陰に隠していたマスケット銃の銃把を掴んで構える。こういう日が来ることを予期して手入れを怠ることはなかったものであり、撃てば淫魔といえども無傷ではすむまい。
マスケット銃はアワリティアへと向けられた。銃口が自分をじっと見つめていても、アワリティアの笑みは消えなかった。
「あら、殿方が女性に銃を向けるのですか? ノブレス・オブリージュはどうなっているのでしょう」
「お前たちを排除することこそが、王としての高貴なる義務のひとつだ」
「私たちは人に仇など成してはいないのですけどね。むしろ、悦ばせてあげているのですから、感謝されることはあっても謗られる覚えはありませんよ」
「浅はかな……己の口でそうも語るか。お前たちの毒牙にかかるくらいならば、自害の道を選ぼう」
「強情ですのね。あなたの奥様はあんなにも悦んでくださいましたのに」
「な、なに……?」
王が動揺すると、アワリティアの背後にある扉から褐色の少女が現れた。
王宮にはおよそ似つかわしくない露出の多い服を着ており、腹部や瑞々しいふとももをおしげもなく晒した姿はジプシーかなにかのようで、躯を売り物にしているような相手なのは一目でわかった。
「きましたか、ルクスリア」
「きましたか、じゃないよー。せっかく貴族の男の人たちと遊ぼうと思ってたのに。まあ、新しい玩具も楽しかったからいいけどね」
にこにこと笑っているルクスリアという褐色の少女の言動で、彼女も淫魔なのだと王は理解した。おそらく、先程の話にできてた娼館に勤めている淫魔とやらだ。そして、言いようのない悪寒に襲われる。
「お前たち、まさか……」
「そのまさかですよ。さあ、妃様に入ってきて貰いなさい」
ルクスリアが、扉の外からひとりの女性を引っ張ってきた。思わず、王は声をあげていた。
「そんな、お前たち……妻になんてことを!」
淫魔たちに連れてこられた女性は、王の妃その人であった。
いつもは気丈に、傲岸不遜、傍若無人と振る舞っていた妃――が、その瞳は色欲で濡れていた。焦点を結ばない目は与えられた快楽で意識が朦朧としているためだ。
ひとりで立っていられなくてルクスリアに寄りかかった妃のドレスはスカートの部分が大きく引き裂かれており、むき出しになった股からは放尿でもしたのかと思うほどの愛液が流れ出していた。
「あはっ、妃様とえっちするなんて初めてだったから、つい張り切っちゃって。すっごい抵抗してくれたから、調教のし甲斐があってボクは楽しかったよ?」
「妻から、離れろ!」
無邪気な物言いが癪に障って王はマスケット銃をルクスリアへと向け、すぐにアワリティアが視界から消えていることに気がついた。
どこへ消えた――?
さっと血の気が引き、怒りで熱く燃えていた頭が一気に冷める。マスケット銃を右へ左へと振るもアワリティアは見あたらない。
直後、頭上で鳥が羽ばたくような羽音がした。
はっ、と王はマスケット銃を天井へ向けた――が、急降下してきたアワリティアの足に勢いよく蹴り飛ばされて銃は床を跳ねていった。
衝撃に痛む手に呻く間もなく、王は降ってきたアワリティアによって床へと押し倒された。
「ぐ……っ!?」
「油断大敵ですよ、王。これで、あなたは私たちを殺すことも自害することも選べません」
王へ馬乗りになったアワリティアの背中からは、蝙蝠のものに似た羽根が一対生えていた。男である王の躯すら包み込めそうなほどに大きな羽根は、淫魔が普段は体内に隠しているトレードマークのひとつである。
「ここで死なれては困るのです。あなたは、革命派によって殺されて貰わねばならないのですからね。それらが完了したとき、この国は私たちのものとなるのですよ」
「ならば、舌を噛み切ってでも……」
「させませんよ……そんなこと、考えられなくさせてしまうんですから」
そういって、アワリティアは王へと顔を近づけると相手のそれへと自分の唇を押しつけた。
「んふ……っ、ちゅ……」
しっとりと濡れた赤い唇を重ねて、アワリティアは己の舌を相手の中へとねじ込む。
王はその舌を噛み切ってやろうかと思ったが、アワリティアに歯茎を舐められると快楽で意識が胡乱になった。じんじんと痺れるように浸透する快感で顎に力が入らない。
「う……」
「先程までの威勢はどうなさいましたか? そんなに目を蕩けさせてしまって……奥様も見ていますのよ?」
「こ、殺せ……ひと思いに……」
「そんな無粋なことはしませんよ。私たちの手を煩わせたことに敬意を表して……与えるのは苦痛ではなく、快楽です」
アワリティアは上品な顔で妖しく淫蕩に微笑んで、王の服を留め具をひとつひとつ器用に外していく。服の下から現れた胸板をアワリティアの人差し指がなぞるとそれだけで性器に触れられたような快感があった。
「や、やめろ……。淫魔なぞに犯されるなどと、人としての恥……!」
「その強情が、いつまで続くのでしょうね?」
くすくすと笑み、アワリティアは腰を揺らす。柔らかい尻の肉を押しつけられて、敷かれていた王の股間はあっという間に最高硬度へと到達した。
「それに、こちらをこうも膨らませていては説得力もありませんね」
王の顔が羞恥と怒りに歪む。その表情をアワリティアは愉しんでいた。
「本当は、このまま私の中で果てていただくつもりでしたが……そうですね。機会をあげましょう。もしあなたが私をイかせることができたら、この国から手を引いてあげます。どうします、自分に自信がありませんか?」
見え透いた挑発だった。しかし、このままアワリティアのされるがままになっていても事態が好転しないのは間違いなく、屈辱的な提案だとしても受けざるを得なかった。
「いいだろう……その生意気な口を二度と聞けぬようにしてやろうではないか……!」
「ふふ、楽しみにさせてもらいますわ」
アワリティアは王の上から退くと、床に座り込んで股を広げ、自分の服をはだける。侍女用の服がほどかれ、露わになった胸元は見る者の目を釘付けにするほどに扇情的だった。王も、その姿には思わず生唾を呑む。
「さあ、いらしてくださいな」
アワリティアが手を差し出して指で誘う。無言のままに王はアワリティアの躯に覆い被さった。
妻が、すぐ側にいる。そのことで罪悪感が沸き、それでも抑えきれないほどに淫魔の美しい躯から目が離せない。無意識のうちに露出した一物はガチガチに堅くなったままだった。
そして、王は男のもっとも無防備なところをアワリティアの秘部に押しつける。亀頭に愛液で濡れた膣肉が触れた。亀頭に吸い付く感触に、まだ挿入すらしていないにも関わらず刺激で腰を引いてしまいそうになる。
女を知らぬ少年のように胸を高鳴らせた王はアワリティアの細い腰に腕を回すと、ペニスを彼女の中へと挿入した。
ぬぷっ、と準備万端だった膣の中にペニスが突き入れられる。
「は、っああ……!」
喉の奥から声を洩らしたのはアワリティアではなく王の方であった。
熱く濡れた膣はまるで精液を搾りとろうとする意志でもあるかのようにずるずると肉棒に絡みつく。その感触に王の頭の中からはこの場を切り抜けようと巡らせていた思考が吹き飛んでしまった。
「声などあげてしまわれて、そんなにも私の中は心地よかったのですか? そんな姿を奥様の目の前で晒されるなんて……男性として恥ずかしくはないのですか?」
「お前が、しろとっ」
「ふふっ、私はこの躯をイかせられたら、といったのですよ。それだけなら入れる必要なんてないのです。そうやって腰を動かしているのは……ご自分がなさりたかったことだからでしょう?」
云われてみれば、確かにその通りだった。本当にやりたくないことならば、それを出来るだけ避けて目的を遂行しようとする。それをせずに、この方法を即決したのは、ひとえに王がアワリティアを抱いてしまいたかったために過ぎない。自分の妻を目の前にしているという状況においてでも。
戸惑う王に、アワリティアは膣に力を込めてペニスを締め付けた。ぎゅるっ、と力強く膣肉が陰茎全体を滑りながら愛撫する。
「ぬ、おおおっ」
「さあ、もっと突いてくださいな。もっと突いて、私を気持ちよくしてくださいね、王様?」
アワリティアは足を王の腰に絡みつかせ、動けなくすると、淫蕩に微笑んだ。
今まで抱いてきたどのような女性よりも心地良い暴力的な膣の感触に、王は既に果ててしまいそうになっていた。アワリティアの躯は自分から一切動いていないのに、膣はうごめいて精液を搾り取ろうとむしゃぶりついてくる。愛液という涎でびしょ濡れになった秘所の食い付きになにもかも吐き出してしまいそうだった。
それでも、イってはならない。相手を先にイかせなければ……。わずかに残ったその目的だけを頼りに、王は歯を食いしばって腰をアワリティアに叩きつけた。
ぱんっ、ぱんっ、とアワリティアの躯に男の躯がぶつかる。
「あんっ」
柔らかい肉を叩きながら膣を貫く剛直に、アワリティアはわかりやすい嬌声をあげた。
「ああっ、良いですよ、王様……いつもこうやって奥様を喘がせていたのですね? さあ、もっと、もっと……」
さらに強く懇願するアワリティアに、王は腰の動きを早めた。すぐにでも限界を迎えてしまいそうな快楽の中、王は先に相手をイかせようと何度も子宮を亀頭で突き上げる。
「そんなに激しく突かれては、私はもう……我慢できなくなってしまいますっ」
あと一息……、と頭の片隅で確信して、王はアワリティアの豊満な胸を両手で乱暴に掴んで、一気にペニスで膣を掻き分け。
「精液を、味わいたくて――ですが」
いきなりアワリティアの膣の動きが変わった。たっぷりと愛液に濡れた膣は締め付けを強め、ぐちゅぐちゅと音を立てながらペニスを呑み込んだ。
「お、おお!?」
「では、これでお終いにしてあげますね。さあ、私の中で果ててください」
くいっ、とアワリティアが腰を一度捻り、
「あ、ああああああ!」
一瞬で王の我慢を超えた快楽に、ペニスは為す術なくアワリティアの中に白濁を噴出した。
肉棒から噴き出した白濁とした男臭い精液が子宮に流れ込み、アワリティアは自分の下腹部を撫でながら唇を舌で舐めた。
「王様の精子、いっぱいいただきました。でも、このくらいでは足りませんから……もっと、搾り取らせていただきますね? さあ、王様、精液を全部私の子宮に出し切るか、それより前に私をイかせることができるか……勝負しようではありませんか」
達した衝撃で倒れ込み、アワリティアの胸に顔を埋めている王の頭を撫でて、微笑む。
「もっとも、その様子では……もう私の躯の虜でしょうけれど」
「えー、もう勝負着いちゃったのの? つまんないよー、まだこっちは始まったばかりなのに」
アワリティアがルクスリアの声がした方へと向くと、彼女は股間から生やしたペニスで壁に手を着かせた妃を突いていた。こうして喋っている間にも、ルクスリアはお尻を無防備に突きだしている妃を突くことを忘れなかった。
「あ、あひぅ! ひっ、いやっ、も、もうこんなに……」
「はいはーい、また一緒にイこうねー? ボクの精液たくさん味わってねっ」
ルクスリアは妃に囁いて、ずっ、とペニスで奥まで入れると白濁を妃の中に流し込む。それが子宮を叩くと、妃は一際高い声を発した。
「ひ、い、いやああああああっ」
妃の膝ががくがくと震え、股から溢れた愛液と精液がぴちゃぴちゃと床に大きな水たまりを作った。
もう何度イかされたかも判らぬ妃が腰砕けになって倒れそうになったところを、ルクスリアが腰を支えて押しとどめた。
「まだダーメ、もう一回最初からいこーねー?」
「あ、あああ……ああ……」
口から涎を垂らしながら虚ろな目になっていく妃に、ルクスリアは精液だらけになったペニスで掻き分けはじめだしたのだった。
そんなふたりの様子を見て、アワリティアは膣を一度きゅっと捻り、満足気に王の顔を胸に押しつける。
「これで、あなたがたも、この国も――私たちの、虜です」
それは、国がひとつ淫魔に掌握された瞬間だった。
*
「それで、進行状況はどのようになっていますか?」
不遜にも玉座に腰を降ろしているアワリティアが、正面に立っている騎士スペルビアに訊ねる。その顔色に余裕はなく、追い詰められた鼠のように暗かった。
革製の防具を身に着け、凜として立つスペルビアは、アワリティアが哀れに見えるほどの平静さで返答する。
「なんの問題もない。云われた通り、兵を手配し、魔女狩りと称しての襲撃をおこなう手筈も整った」
淫魔――その名前から連想させる淫蕩な気配は、スペルビアからは一切伺えない。清廉な、騎士たる高貴さを感じさせる立ち姿だった。しかし、鎧の下には淫らに男を惑わす柔肉が隠されていることは実際に躯を重ねて魅了された男たちしか知らぬことである。もっとも、その大半は帰らぬ人となっているが。
「国の兵を挙げて討伐しようなどと、お前らしからぬ優雅さの欠片もない行為だ」
男を狂わせる肉体を持ちながらそれをおくびにも出さないスペルビアは、それと同じくらいに平静で、動揺もなにも見せていなかった。
アワリティアは疲れを吐き出すように溜息をついて、首を振る。
「貴女に優雅さをとかれるとは思いませんでしたよ。剣などという無粋極まりないものを振り回す貴女に」
「剣が無粋ならば、この世の総ては品性の欠片もない下劣な創造物であろうよ。剣と力ほど洗練された美しいものはない」
「武力に拘るとは、淫魔らしくもない……いえ、知力に拘るのも、淫魔らしくはないのでしょうけれど。それでもやはり自ら力を振るうより、蟲みたいに争う人間相手に高みの見物をする方が性にはあっています」
「ようやく調子がでてきたな。で、いい加減話して貰おうか。何故、兵を挙げて彼奴らを潰そうとする? お前が以前からあの魔女らの存在を危険視していたのは知ってはいたが、一国を手に入れた今、ここまで大事にする意味はあるまい」
アワリティアたちは、この国に革命を起こした。国王に反感を抱く勢力と貴族たちを抱え込んで籠絡し、争いの火種を造り、発火させた。ひとりだったなら苦労もしたであろうが、高位淫魔が三人も揃えば国家を転覆させることなど造作もなく。王を革命派に処刑させ、誰にも知られることなくアワリティアたちは国を盗った。
国を盗ることにさえ一度として表舞台に立たず、人を操ることはあっても指示をすることはなかったアワリティアが、今、たった三人を暴力によって潰そうとしていた。それがスペルビアには疑問だった。
「いいえ、違うのですよ……問題は魔女ではない。あの黒いドレスの少女です」
「どういうことだ?」
「私がこの国を落とそうと企てた理由を、知っていますか?」
「そんなものがあったことすら初耳だ。魔女狩りで我等淫魔が虐げられた腹いせで、どこでも良いと思っていたが」
その昔、魔女狩りがおこなわれた。多数の人々が魔女とされ、処刑された儀式である。しかし、魔女とされた中には人に紛れていた淫魔も含まれていたのだ。それまでは人とある程度もちつもたれつのような関係で過ごしていた淫魔たちは、それに激怒した。あの出来事以来、淫魔たちの大半は人間を純粋な家畜として見ており、スペルビアはアワリティアの行動も魔女狩りの報復としてのおこないであると思っていた。
「どうして、私が殺された者たちの報復などしてやらなくてはいけないのですか。腰を振ってあげるだけで悦んで死んでいくような相手に殺されたなんて、淫魔の恥さらしですよ。……私は、単にこの国が驚異だったからこそ潰そうとしたのです。あの国王は、私たちにとって最悪の天敵でした」
「その国王も、お前の腰の下で果てて処刑台に送られたはずだが……」
「そう、それです。処刑台! あの王が残した遺物。まさか、もう人の形をとれるようになっていたとは思いもしませんでした。一心不乱に私の中へと精を注ぎ込むしかできなかったあの男が、ここにきてこんな隠し球を残していたなんて……」
不安に駆られて強く玉座の肘掛けを握り締めたアワリティアは、いてもたってもいられなくなって立ち上がった。
「スペルビア、戦いの用意を。ルクスリアにもいつなにがあっても良いように伝達しておいてください。今回で、今度こそ総ての憂いを断ちます」
「よかろう。どちらにせよ、横取りされた獲物も取り返してやらねばならぬしな……」
ちろっ、とスペルビアの舌が唇を舐める。その一瞬だけ、女性騎士の本性が垣間見えた。
こうして、自分たちが淫魔たちに操られているとは露とも思わぬ兵士たちはアンナマリアたちを狙って行動を開始した。
*
夜が明け、アンナマリア、イザベラ、レリア、そしてジョゼフはリビングに集まっていた。
「さて、無事ジョゼフを救出することができたわけだ」
ソファに座ったイザベラは周囲にいる全員を見渡しながら、皆の労をねぎらうように口を開く。それに、対面で座っていたジョゼフの顔が引きつった。
「いや、まあ、助けてもらったことはありがたいんですけど……せめて方法というものはなかったんですかね……」
アンナマリア、レリア、イザベラによるジョゼフの体内に溜まった淫魔の毒気を駆除する作業は無事成功していた。一時期は自我を喪失していたジョゼフも、あれから数時間が経過した現在はすっかり以前の状態を取り戻している。
これまでの間に、ジョゼフは淫魔の毒気に当てられていたことの説明を受けていたが、それでも三人におそわれていたときのことを思い出すと恥ずかしさで顔が熱くなるのは止められなかった。
「やだなー、ジョゼフくんったら。みんなで楽しんだんだから良いじゃないですか」
「楽しんでなかったとは、たしかに云えないんだけど……」
にこやかに笑顔を浮かべて躯を寄せてくるレリアにジョゼフは立ち上がってしまいそうな勢いで肩を跳ね上げると、すぐに情けなさで萎縮してしまった。
「元はと言えば、巻き込んだのはわたしの責任だから……責めるなら、いくらでも甘んじて受ける」
三人とは少し離れ、彼らに背を向けて木製の椅子に座っているアンナマリアが呟くと、ジョゼフは慌てて弁明した。
「い、いや! あそこにいた、その、スペルビアって騎士の女の人はぼくの知り合いだったわけでね。だからぼくも無関係ってわけでもなかったから、アンナマリアちゃんだけのせいってわけでもないよ」
「そうだぞ、ギヨたん。物事を気にしすぎて沈んでいたらつまらないじゃないか。そこはもう開き直って捕まる方が悪いと云いきってしまえばいいのだよ」
「……それはそれでどうかと思うんですよ、魔女先生」
あきれ果てるジョゼフにイザベラは笑い、しかしすぐにその表情から珍しく笑みを消した。
「今回ばかりは、いつまでも落ち込んでいられる暇はないということさ」
「え、それってどういうことなんですかぁ、先生」
「そうやっていつまでも余韻に浸ってジョゼフに抱きついているのは結構だけど、それで注意力が散漫になってしまうのは、まるで恋する乙女のようだよ、レリア」
「余計なお世話です!? もうっ、もったいぶらずに早く云ってくださいよ」
「ではまずひとつ。何故、朝なのにギヨたんはいつまでもここに留まっていると思う?」
「……あ」
そういえば、アンナマリアはいつも朝には広場に戻って、断頭台へと姿を変えていた。本来なら広間にあるはずの断頭台がいつまでもなければ、大騒ぎになってしまうからだ。それに、アンナマリアは処刑という行為を自分がおこなうことに一種の義務感までも覚えていた。一番楽に人を殺せ、さらに民衆を満足させる視覚効果を演出する処刑道具としてはアンナマリアが一番優れていた。
だというのに、この話を聞いていてもアンナマリアには動こうという気配すらなかった。
「えっと、ギヨたん、なんで……?」
「わたしも、行けることなら行きたいけど。今日はその必要もないみたいだから」
「そう、今日は処刑がおこなわれない。何故だかわかるかい? 街中に兵を配置するために人員を割いているから、そんなことをする時間もないのさ。そう、この国を支配しているあの淫魔たちは、とうとう私たちを武力行使で排除しようとしているわけだよ」
「な、なんだか、すごい大事になってますね、魔女先生」
「その一翼を担っているのは、キミのお師匠様だけどね。いや、ジョゼフもえらい淫魔に目をつけられていたものだ」
「淫魔ってだけでも驚きですけどね……そんなのがいるなんて思いもしませんでしたよ」
目が覚めてから、淫魔という種族が人間に混じって生活をしていることをジョゼフは初めて聞かされた。牢屋でスペルビアらに云われたときは驚きで頭がいっぱいであり疑念を抱く余裕もなかったが、改めて聞かされるとそれもまた驚くことばかりである。
「もー、そんなのって酷いですよ、ジョゼフくん」
「え、ああ、ごめん、悪気はなかったんだ……」
「えへへー、わかってますけどねー」
イザベラに敵の動向も聞かされても、レリアはすっかりジョゼフにのぼせ上がった笑顔のままに相手の腕に抱きつく力を強めた。直接の躯でなくとも、狙っていた意中の相手と繋がったことはそれだけレリアにとっては悦びであったのである。
「っていうか、レリア、くっつきすぎ。ジョゼフも、鼻の下伸ばしすぎ」
「伸ばしてないよ! こ、これはただドキドキして……」
「やだー、ギヨたんったら嫉妬ですかっ? こわーい」
「……死なす」
「ちょっとアンナマリアちゃん、落ち着いて! 椅子に座って! 魔女先生もなんとか云ってくださいよ!」
背後に黒い影を背負って立ち上がるアンナマリアに慌てながらジョゼフはイザベラに訴えるが、彼女は面白そうににやにやとしているだけだった。
「いいじゃないか、こんな状況でも普段通りでいられるのは良いことだよ。そもそも私たちにしんみりとした空気は似合わない。そうは思わないか、ジョゼフ」
「そりゃ明るい方がいいですけど」
「ははは、まあ仕方がない。ふたりとも、その辺りにしておきなさい。さすがに時間的な猶予も少なくてね。もう数刻もせずに兵士たちはここに踏み込んでくるだろう。さすがに一国の軍隊ひとつを真正面から相手にするのはきついだろう?」
「そもそも、あたしたちの戦う場所はそこじゃないですからねえ。ジョゼフくんならわかるよねー?」
意味深に笑ってレリアがジョゼフの胸に頭を乗っけると、ジョゼフはビクンと躯を震わせ、アンナマリアの視線がきつくなったことに頬を引きつらせた。
助手の期待通りの返答に、イザベラは満足げに頷く。
「その通り。だから、君たちの戦場で決着をつけようじゃないか」
「……まさか、国の人間全員を一斉にあっちの方で相手をする、なんてこと云い出すつもりなの?」
「ギヨたんの目的はそれだったろう? ちょうどいいじゃないか」
「あ、あはは、先生……そういう力押しも一度はやってみたいことではありますけど……」
数十万、数百万の男女を相手に性技でねじ伏せるようなことは淫魔であるレリアもさすがに考えておらず、ずっと明るかった笑みが引きつった。
「なんて、それは冗談だよ。面白くはあるけど、あとに控えた淫魔たちを続けて相手になんてしたら保たないだろう? だから、取り巻きは無視してしまおうじゃないか。直接、その淫魔たちを叩こう」
「なるほど、あのアワリティアとかいう淫魔たちがいなくなれば、あたしたちは大丈夫ですね。表だって権力を持っているのは騎士団長だけで、他のふたりのことなんて兵士たちは知らないでしょうし。淫魔の虜にされてた人たちも彼女たちが消えてしまえば、総力を挙げてあたしたちを潰せー、なんて命令取り下げますもんね」
そこで、元騎士団所属だったジョゼフが口を挟む。
「でも、魔女先生。その、あの牢屋から出してくれるくらいだからこのふたりがすごいのは判りますけど、もしその淫魔さんたちが城に立て籠もっていたら接触するのは難しいですよ。ぼくがいたときでさえ、スペルビア団長と軍の人間たちが決めた警備に穴はなかったんですから、籠城を決めるつもりなら、さらに頑強になっているに決まってます」
「もうっ、ジョゼフくんはあたしたちのこと信用してないんですかぁ? 大丈夫、男の兵隊さんなんて物の数じゃないですよ。ジョゼフくんだって今朝までじっくり体験したじゃないですかぁ」
「そ、そうだけど……」
「まあ、たしかに利口なやり方とは云えないですけどねー。人がどんどん来ちゃいますし、槍とか銃でぐさっぱーんっ、もあり得ますから」
「あ、城攻めの方は大丈夫だよ。私が魔法で直接敵のところへ転送してあげるから」
「……ジョゼフを助けに行く時、それを使ってくれればよかったのに」
「ごめんごめん。これは行ったことのある場所にしか転送できないんだよ。生憎と私は牢獄に入れられるようなことはしてないんでね」
「司法の目をかいくぐってきたって意味でしかないですよねぇ、先生の場合」
レリアの追求もイザベラは微笑で受け流して話を続ける。
「で、高位淫魔三人……アワリティア、ルクスリア、スペルビアだったかな。この全員を負かしてしまえばいいわけだけど、淫魔の根城にこちらから飛び込もうっていうんだから、力尽くの戦いはできないわけだ。どっちにしろ、レリアもギヨたんも一番得意な戦いは相手と同じだろうから関係ないけど――」
そこでイザベラはジョゼフの方へと向いた。
いつも見ているはずの笑顔なのに、ジョゼフは嫌な予感に胃の入り口がきゅっと絞まるのを感じた。
「問題はジョゼフだね。いやあ、人間の男が淫魔と戦って勝つなんてよっぽどのことがないと無理だけど、まあ、がんばってね」
「え、え、えええええ、ぼくですか!?」
素っ頓狂な声をあげてジョゼフが驚く。イザベラの言葉はアンナマリアとレリアも聞かされていなかったため寝耳に水で、ずっとジョゼフに躯を預けていたレリアも飛び上がってしまうほどの驚きだった。
「ちょっ、先生!? てっきり、あたし、ギヨたん、先生の頭数で淫魔を相手にするつもりだったんですけど!」
「え、私はなにも手伝わないって云わなかったっけ」
「あれってジョゼフくん助けに行くときだけの話じゃなかったんですか!?」
「残念ながら私は世俗に関与しない主義なんだ。さして結果の変わらぬ小事にならともかくとして、介入次第で歴史が変わってしまうようなことに関わるつもりはない。城への手助けをするのだって最大限の協力なんだから。本当は自分たちで方法を探してほしいくらいだよ」
「ぼ、ぼくがまたあの人たちと……」
ジョゼフは牢屋での出来事を思い出して、雨に触れた犬のように身震いした。淫魔たちに与えられた快楽が全身に甦り、脳髄が溶け出しそうな蜜月の記憶に躯が熱くなる。ただ、同じくらいに、生と死を強制的に繰り返させられて終わることない渦の中に引きずり込まれた畏怖も強かった。
「先生、あたしとギヨたんのふたりで三人を相手にしちゃえばいいじゃないですか。厳しいですけど、できないことは……」
「いや、それが間違いなく無理なんだ。キミとギヨたんはアワリティアとルクスリア相手ならともかく、スペルビア相手では万に一つの勝目もない」
「……それは、どうして?」
絶対に勝てないと断言されて、アンナマリアは無表情の中に不愉快さを覗かせた。牢獄で淫魔たちと出会ったとき、圧倒的な力の差を見せつけられて愕然としたことは記憶に新しいが、それでも一瞬の迷いもなく云われては腹も立ってしまう。
「簡単なことだ。彼女だけは淫魔でもあり、そして騎士であるからだ。スペルビアを押し倒して性技の方で相対するには、まず、暴力的な戦いの方で勝たなければいけないのさ。淫魔の異端であり、そして淫魔が一番敵に回したくないのが傲慢のスペルビアというわけだね」
「うぐっ、あたしたち淫魔はそういう戦いはあんまり必要としませんもんね……。人間相手なら早々負ける気はしませんけど……」
「そういうこと。あとギヨたんもダメな理由は一緒だからね」
「……なんで? わたしは淫魔じゃないし、それに、戦う力なら……」
ある、と続けようとしたアンナマリアの言葉をイザベラは手で制した。
「ああ、キミは優れた殺戮能力を持っている。けど、キミは効率的に首を刎ねることはできても、それを実行するだけの能力がない。起源が道具なんだ、あくまで身体能力が人間と同じなキミじゃ荷が重い」
そこまで云われて、アンナマリアも重く口を噤む。それに、アンナマリアの――断頭台としての本来の――力は、牢獄で一度淫魔たちに目撃されている。もしアンナマリアがスペルビアと相対したとしても、初撃を見切られたら勝つ見込みはない。
「えーと、魔女先生、今のはアンナマリアちゃんが、その、元はギロチンってあることに関係してるんですか? よくわかりませんでしたけど」
「そうだね。まあ、関係のない話だよ。ともかく、スペルビアにはジョゼフが当たって貰う。なに、勝算がないわけじゃない。なんといっても今のジョゼフなら淫魔の快楽にもある程度耐えられるだろうからね」
「あ、そうですね、ジョゼフくんは淫魔といっぱいえっちしましたからね」
ぶっ、とジョゼフはレリアの取り繕い一切なしの言葉に噴き出した。
「そうそう。レリアだけじゃない、あれだけの高位淫魔と生死の境を何度もさまよいながら交わい続けたんだよ? 躯だって耐えやすくなっているさ。ふつうなら、慣れる前に死ぬか精神が崩壊するんだけど、ジョゼフの場合は両方乗り越えられているし。そこにギヨたんもいるんだ、多分もうふつうの女の子相手じゃジョゼフも感じられないんじゃないかな」
「喜んで良いのやら、悪いのやら……。でも、そのお陰でぼくも頭数に加われるんだから、そこには感謝ですけど」
「え、ジョゼフくんそんなにまたスペルビアとしたいんですか?」
「違うよ!?」
「さて、これでジョゼフがスペルビアを相手にすることは納得してもらえたと思うけど、残りはアワリティアとルクスリアだね」
「あ、先生、ルクスリアはあたしが相手をしまーす。スペルビアと一緒にずっとジョゼフくんと絡み合っていたのが許せません」
「はい決定。じゃあアワリティアはギヨたんに任せるよ」
「う、うわあ……適当だなあ……」
「いいじゃないか。とっても妥当で宿命的な組み合わせだと思うよ。特にこの国を転覆させた首謀者を断頭台のギヨたんが相手にするのが特に」
「関係ない。わたしは降りかかる火の粉を払うだけだもの。……それと、別に今すぐしかけるわけじゃないんでしょ? 少し、ひとりで休んでる」
返答を待たずにアンナマリアは立ち上がると廊下の方へと歩き出してしまう。
イザベラは手を叩いて、それを合図にして場に張り詰めていた空気を払った。
「じゃあ、そういうわけで私たちも休もう。じゃ、こっちも準備があるから」
レリアとジョゼフに言い残して、イザベラはアンナマリアの後を追うように部屋を出て行った。
適当な部屋のひとつに入って扉を閉めた瞬間、全身の筋肉が弛緩した。傾く躯に驚いて棚の天板に手をかけても力が入らず、小物を薙ぎ倒しながら床に尻を付いた。
緊張の糸が途切れると、一気に汗が噴き出す。来ている服は汗でぐっしょりと濡れて、額には髪が鬱陶しく張り付いた。
もう我慢する必要はないのに、強く手を握りしめる。掌に突き刺さる爪の感触が辛うじて判り、そのことだけがこの状況においての救いだった。
大丈夫……まだ大丈夫……まだ、わたしは……。
「随分と辛そうだね、ギヨたん」
「……っ!」
熱病に苛まれたように胡乱としていた思考が、一声で覚醒する。
アンナマリアは弾かれたように、声のした方へと顔を上げた。ベッドに腰を下ろしているイザベラの姿に驚愕で目を見開く。
「どうして……ドアは閉めたのに……それに、わたしの方が早く……」
「だからね、私は魔女なんだよ。既存の法則で括ってもらっては困る。そんなことより、よくもまあそんなになるまで隠し通せていたものだね」
「別に、足がもつれて転んだだけ。まだ人間の躯になれきってないから……」
「見え見えの嘘はやめなさい。キミが今どんな状況にあるのか、私は全部わかっているんだよ」
イザベラはベッドから離れて、アンナマリアの前で膝をついた。
「キミがあと少しで死んでしまうこともね」
アンナマリアは息を呑んだ。誰にも悟られまいとしていたことが簡単に見抜かれていて、その事実に声を出すことすら忘れてしまった。
「どう、して」
「レリアに担がれて帰ってきてきたときにね、一発で悟ったよ。そもそもキミに命を与えたのは私だよ、それが消えかかっているくらいわかるさ。それに、死にかかっているかの原因と解決方法すらも判ってる」
「……死なない? 生きられる、方法……。それは、なんなの? 教えて!」
イザベラの肩を掴んで、アンナマリアは掠れた声で懇願した。
「簡単だ。人を殺せばいい」
「……え」
「キミは、処刑道具が人と成ったものだ。だから、己の意志で人を殺せばキミは世界に生存を許される」
「云っている意味が、わからない」
「そうか、じゃあまず前提条件から話そう。器物が意志を持つには九十九年はかかるものなんだよ。それが人の形を成そうとするなら、倍以上の時間が必要になってしまうわけだ。人を殺す物には呪詛的な力が宿って期間が短縮されるものであるけど、それにしたってたかだか数年で人間になるなんて不可能なんだ」
「でもわたしは貴方の力で……」
「そう、私はキミを人間にした。ただし、それはキミの存在価値と目的が合一を果たしていたから、その呪詛の力を増幅して所用期間を誤魔化すだけの力を生み出してあげたに過ぎないんだ。……わかるかな? キミの存在価値と目的がずれた時点で、増幅できる力の源がなくなる。あとは先細りで衰えていくだけだ」
――人を殺せばいい。その言葉がアンナマリアの頭蓋骨の中で反響していた。
「わたしの存在価値……人殺し。それで、人になりたいと願ったのは……」
「そう、復讐。殺害欲求。ほら、ぴったりだろう。けれど、今のキミは復讐をしてやろうだなんて気概が薄れてしまっている」
「そ、そんなこと……」
「存在価値は生まれたときから移り変わることなんて滅多にない。特に、断頭台なんてものの存在価値が殺害以外に変わるとは思えないね」
自分の目的を果たせば、人の形を保っていられる。どちらもアンナマリアの望みで、叶える分にはなんのデメリットもない。
そのはずだ。そのはずだった。
やりたいようにすれば生きられる。最初、男を殺したときと同じで残虐に、冷酷に、嘲笑を持って搾り殺してやればいい。あの彼を殺した国の総意に報復するためにも。
むざむざ彼の処刑を執行させられたときの屈辱は忘れていない。何度も何度も、広場のゴミみたいな民衆に呪詛を投げかけた。
殺してやる、殺してやる、殺してやる……。
お前たちもわたしで殺してやる……。
殺して、殺して、殺し尽くして。
最後には――。
――彼の弟すらも手にかけるか。
「なんで……」
イザベラの肩を掴んでいた手が、落ちる。
「なんで、ないの……どこに行っちゃったの……ずっと、あったはずなのに……殺したいって、思ってたのに……」
狂おしく燃えたぎっていた憎悪の炎が、いつの間にか遠くにあった。他人の記憶でも覗き込んでいるように、まるで余所事でもを眺めるように、その感情は自分のものではなくなってしまっていた。
冷静になって考えてしまえば。
こんな復讐など、ただの八つ当たりでしかなかった。
現実が許せなかった。こんなのは嘘だと思いたかった。けれど、それは叶わない。いくら目を背けようと、残酷な速度で大切な人を欠落させた世界は回り続ける。
彼を殺したのは世界だ。なのに、どうしてそうも無関心でいられるの?
たかだか処刑人ひとりの人生、鑑みる方がどうかしているのだろう。でも、彼を殺した奴が、それに歓喜している奴らがのうのうと生を謳歌しているのは――どうしても気に喰わなかった。
そんなことをして、死者が喜ぶとは思わない。
悲しむことさえ、死者にはできないのだ。
それにアンナマリアは納得できなかった。だからこその復讐である。復讐とは、理不尽に対する裡なる衝動の発露に他ならないのだ。怒りや哀しみといった感情に整理をつけるためにおこなう精神活動なのだ。
アンナマリアの場合、そこに矛盾が生まれてしまった。
国の人間を総て殺してやりたい、願望。それは彼の弟さえも手にかけると云うことだ。
彼のために、彼の弟を殺す――。
否。自分が彼を失った悲しみの穴を忘れるための復讐で、彼の弟を殺すのだ。
断じて復讐は誰の為でもない。総て自分の為にするものなのである。
だからそれは、アンナマリアにとって最大の自己矛盾だった。
――なによりも。
ジョゼフにかけられた優しい言葉が、胸の奥で引っかかっている。
好きとか、嫌いとか、そんな感情ではない。ただ、うれしかった。人を殺してされる感謝は、いつも悲しみか下卑た笑みで満ちていたから。
彼の弟だからではない。ジョゼフだから殺したくなかった。
あんなに殺したじゃないか、とアンナマリアの中でまた別のアンナマリアが囁いた。今更、善人を気取るつもりなのかと。えり好みするのかと。
そんなつもりはなかった。でも、殺そうだなんて思えなかった。
もう、胸の奥の炎は戻ってきてはくれないようだから。
「……判ったようだね、アンナマリア」
一瞬、誰に呼びかけられたのか判らなかった。虚ろだった目でイザベラに焦点を合わせると、どうやら彼女がいったらしいと判る。それくらい、聞いた事のない真剣な声だった。
「もうキミは、人は殺せても復讐心はほとんどない。キミが人間でいられる時間は、保ってあと数日だろう。こればっかりは、残念ながら私でも変えてやることはできない。しかも残りの時間を自由に使おうにも、兵士たちのせいでそれも難しいだろう。なら最後に、できるだけやり残したことは潰さないかい」
「……ひとつ、きかせて。わたしは死んだらどうなるの?」
「本当は、死ぬという表現は正しくないんだ。キミは人の形を失って、また断頭台に戻ってしまうだけで、正確には眠りにつくといった方が正しい。そしてまた力を蓄えれば、再び人の姿も取り戻せる。しかし……」
「ならいい。そんな、なんでもかんでも身の回りの整理してたら、ホントに死んじゃうみたい。だから、あの淫魔たちを蹴散らしちゃった後に考える。それでいい」
「……よし。キミがそういうなら、私もこれ以上云うまい。それじゃあ、時間になったら声をかけるから、それまではゆっくりとしているんだよ」
「うん、わかってる」
イザベラが立ち上がり、今度はふつうにアンナマリアの背後にある扉を開けた。
すると、廊下側に立っていた者が声をあげた。
「あ……」
そこには、ジョゼフが立っていた。
イザベラと入れ違いで部屋に入ったジョゼフは、アンナマリアをベッドへと移動させて一息ついた。
ふたりはお互い相手に背中を向けてベッドに座っている。これといった理由があるわけではなく、なんとなくの行動だった。
口が重くなる気まずい沈黙が流れ、それを最初に壊したのは落ち着きのない様子のジョゼフではなく、憮然としていたアンナマリアだった。
「全部、聞いてたんだ」
「えっと、死なないでいる方法、って君が訊いてた辺りから」
「やっぱり全部だ」
「……ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
申し訳なさで肩を落としているジョゼフの姿がアンナマリアには容易く想像できて、つい微笑を洩らしてしまった。
「別に怒ってないよ。誰に知られたって何かが変わるわけでもないから。ただ、恥ずかしいこと、知られちゃったなあ、って」
「ぼくの方ばかり、聞いちゃってるね」
「じゃあ、そっちも何か話して。恥ずかしい話」
「恥ずかしい話? は、恥ずかしい話……」
顎に手を当て、短く唸る。しばし躊躇しながらも、ジョゼフは意を決して話を切り出した。
「それじゃあ、ぼくと兄さんの話を聞いてくれるかな」
そういわれて、アンナマリアの胸が一度だけ大きく跳ねる。
「……うん」
アンナマリアが緊張しながら頷くと、ジョゼフは一呼吸置いてから滔々と語り出した。
「兄は……ぼくが知る中でもっとも働き者で、もっとも立派な人で、そしてもっとも不器用な人だった」
振り向いたわけではなかったが、アンナマリアの脳裏にジョゼフの寂しそうな顔が浮かんでくるくらいに、その声には陰りがあった。
「ぼくたちの両親は早くに死んでしまって、だからふたりで自立しなきゃいけなかった。でも困ったことにぼくは今よりもずっと小さくて、無力で……だから兄さんはぼくの分まで頑張ってしまったんだ。あの仕事に就いてたのもそういうわけで、他人がやりたがらない仕事を率先してやらなければ子供に人を養うことはできなかった。でも、兄さんは余計にお金を稼ごうとした……ぼくに教育を受けさせるために」
「教育……」
「学があれば自分ほど苦労しなくてすむ、って。お陰でぼくは勉強ができたし、武芸の稽古まですることができた。けど、兄さんはそのひとつだって受けちゃいない。絶対に、ぼくよりも兄さんの方が優れていたのに……ぼくがいたせいでね」
ジョゼフの声には後悔の感情が色濃くにじんでいた。普段の温厚な性格からは考えられないくらいの重く沈んだ声に、アンナマリアも慎重に言葉を選ぶ。
「でも、それはそのときのジョゼフにはどうしようもなかった。だから、ジョゼフがいなくたって大変なことに代わりは……あ」
口にしていて、思考が整理されたことにより論理のパズルが急速に組み上がっていくのを感じた。頭の中でぐるぐるとしていたものがひとつの答えを導き出し、現れたのは単純で明瞭なパズルの絵面だ。
「ジョゼフは、もしかして、自分が重荷になっていると思ったから」
「そう、兄さんにぼくが生きていることは伝えなかったんだ」
処刑人である彼が孤独に死んでいったことをアンナマリアは覚えている。それで彼に血縁者なんていないと思っていたし、だからこそジョゼフが大怪我を負って生死の境をさまよったとき、処刑人の彼に対して生存を隠していたことをアンナマリアは憤った。
「腕を切り落とされて、死にかけたとき……良い機会だな、ってね。ぼんやりとしながら思ったんだ。このまま死んでしまえば、兄さんは自由になる、って。結果的には魔女先生に助けられて、けどぼくは死んだということにしてもらったんだ。でも……きみがあんなに怒ってたんだ、きっと逆効果だったんだろうね」
「うん」アンナマリアは即答した。「逆効果だった。余計なお世話だった。全力で裏目になってた」
「きついなあ」
遠慮のない言葉にジョゼフは苦笑した。けれど、それには不快そうな様子はなくむしろ清々しさすらあった。
「でも、その通り。ぼくもただ、人にいつまでも保護されているのが嫌で、それから逃れたかったんだ。……ね、恥ずかしい話だろう?」
「予想以上に恥ずかしい話で困惑するくらい恥ずかしい話だった」
「う、うん。まったくもって面目次第もなく……」
「本当に、許すとか許さないとかそういうのもわからないくらい、嫌な話だけど……。でも、わたしは断頭台だから、弾劾する方法は首を刎ねることしかできないし。どうにもしてやれないのがくやしい」
ふう、とアンナマリアは疲労を熱い溜息として吐き出した。
「だから、彼が死んでしまうほどに尽くした価値が貴方にあるのか、わたしに見せて」
「それは、どうやって?」
「……パンでも、焼いてくれればいい。もし不味かったら、そのときは首を切り落とすから」
「な、なにそれ、そんなことで!?」
パンを焼くだけで価値を示せるのか、そしてパンの不出来で生死が決まるのか。アンナマリアの不条理な要求にはそんなふたつの驚きがあって、ジョゼフは思わず背後を向く。
すると、同じく振り返っていたアンナマリアとジョゼフの目が合った。小さな少女は、刃のように真っ直ぐな瞳で相手を見つめていた。
「でも、彼にはパンは焼けなかった。彼にできなかったことをできるっていうなら、充分じゃない」
ジョゼフは口を噤む。兄ならばパンくらいすぐに焼けるようになるはずだ、と思う。きっと、自分のよりも美味しいに違いない、とそこまで考えてもジョゼフは兄が作ったパンの味を想像できなかった。それは兄がパンを焼いたことなど一度もなかったのだから、当然である。作っていたということもなく、もちろんそれを食べた経験もないジョゼフには、兄の作ったパンというものは空想上の産物にすぎない。
元より。ジョゼフが劣等感を抱いていた兄の姿は、ほとんどが勝手に作り出された虚像だったのだ。自分のために苦心してくれて、身を削ってくれた兄の強さは、ジョゼフの中で誇張されていったのである。それ故にジョゼフの方が兄より学力や知能もあるのは間違いないのに、それは兄の環境が酷いものだったからそうなっただけだ、といつも思い込んでいた。事実、そうだったかもしれない。けれど、そうでなかったかもしれない。
どちらにしろ、今ある結果が変わるわけでもないのに。いつだって、勝手に作り上げたイメージに負け続けていただけだ。
「そっか、そうだね。……わかった、明日にでも、つくって持ってくるよ」
兄への負い目はジョゼフの中に沈澱して、なくなることはなかった。今でも、もし兄も自分のようにしていたらどうだったのか、との疑問は消えない。けれど、アンナマリアがパンを焼け、といった相手はジョゼフだった。それは、例え兄が生きていたとしてもできなかったことだ。
アンナマリアにパンを焼いてあげるのは、実にやりがいのある仕事に思えた。
「うん、また明日。その前に……少し、眠い」
しょぼしょぼとした目を擦るアンナマリアに、ジョゼフは相好を崩した。
「ぼくも……。時間になるまで、寝てようか」
「うん」
そうして、ふたりはくすくす笑いながらベッドに倒れて、微睡みへと落ちていく。
目覚めたときには、淫魔たちと争うことになる。
それなのに、ふたりの中には不安はない。意識を手放す寸前まで、総ての事が終わったときへと思いを馳せていた。
だから、廊下で聞き耳を立てているレリアには最後まで気付くことはなかった。
To be continued...
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