シンディが人間界に帰還する時間となり、レイはマリア=ルイゼ・フォーフェンバングに伴われて、幼馴染が入院している地下の病室へ向かった。
排泄目的以外で病室を出ると見張りの堕天使たちに追いかけまわされるのだが、デニソン総合病院の院長である、ミューティ・ワーズの口添えによって可能になったシンディの送別なので、今回は見咎められずに通してくれた。
逃げ隠れせず、堂々と廊下を歩けるのだから、レイにとっては爽快である。
気分よく歩いていると、パジャマ姿の幼い女児を連れた看護婦と、すれ違った。
看護婦はマリア=ルイゼに会釈をし、こちらは一瞥されただけで、注意すらされない。
ただ、看護婦と一緒にいた小さな淫魔は、レイを見ると、「男の淫魔だ」と囁いてきた。
レイは、自分に淫気があるから幼女が勘違いをしたんだと思ったものの、とくに説明はせず、微笑を返して通り過ぎた。
女児の淫魔はレイを知らなかったようだが、自分の存在は院内では周知の事実である。
何度も脱走を繰り返していたし、物々しい見張りもついていたから、誰が入院しているんだと騒ぎになったのだ。
この事態を収拾するため、淫女王、バベット・アン・デニソンが飼っている淫魔だと、機密保持を目的とした捏造による説明がなされ、すぐ何事もなかったかのように、普段どおりの病院に戻った。
女王の所有物に、わざわざ危険を冒してまで興味本位で接近してくる淫魔は、何も知らずにいた女児以外、いなかったのである。レイとしても、医者だろうが患者だろうが周りは全員が淫魔なので、それを遠ざけてもらえたのは都合がよかったから、何も指摘しなかった。
この発表により、かねてよりレイが疑念を抱いていた、男性淫魔の存否が肯定された。院内にも男性淫魔の患者が入院しているという情報を得ている。
女児の発言で男性淫魔の存在を思い出したレイは、地下の病室に着くまでに男の淫魔を見かけられはしないものかと捜してみた。だが、廊下でも階段でも発見できず、そのままシンディの病室に到着してしまった。
鉄扉のせいで牢獄のようにも見える入り口までやって来ると、男性淫魔への興味は、すぐに掻き消えた。
幼馴染との別れに意識が向かったからである。もっとも、今生の別れになるかもしれないのだから、頭が切り替わったのも当然だった。
シンディは、人間界へ帰るのには渋々ながら承諾してくれたものの、淫魔ハンターになるという決意だけはとにかく固く、これが悩みの種なのである。
最初は悲愴なまでの覚悟に同情していたから、何も言えなかった。だが、やはり彼女が淫魔ハンターを目指すのは反対なので説得をするわけだが、『こうと決めたら一直線』の幼馴染は、かたくなであった。
互いの主張は正反対であり、どちらも引かないため、激しく衝突した。レイが会いに行くたびに喧嘩になってしまい、険悪な状況を招いてしまっているのである。
できれば仲直りして気持ちよく別れたいところではあるのだが、この状態を好転させられる自信はない。
シンディの考えを曲げる方法が思いつかないからだ。かといって、自分が折れるわけにはいかなかった。
彼女の決意を認めてしまうと、自分にはその気がなくとも、淫魔ハンターになってぼくを助けてくださいと言っているも同然になってしまう。シンディの身を案じるレイにとって、それだけは、有り得ないのである。
また、自分など忘れて新しい生活を送ってほしいという想いもあった。
淫魔化した人間が元に戻れた例がないからだ。もしかすると戻れた者が存在しているかもしれないが、少なくともその報告は、たったの一件すら、人類にはもたらされていない。
人間に戻って帰宅するという目標は揺らいでいないものの、可能性が極端に低いのは容易に予測できるのだ。
このままでは、シンディに辛酸を舐めさせるだけの人生を送らせてしまうかもしれない。
自分がシンディの足枷にしかなれないならば、いっそ自ら命を絶ち、彼女が淫魔ハンターになる理由を消してやるべきなのかもしれない、そんな考えまでもっていたのだった。
レイは廊下の終点までやってくると、いざシンディと面会直前となっても覚悟が決まらず、沈痛な面持ちで立ち尽くしてしまった。
鉄扉を挟むかたちで、二名の堕天使が警護についていた。
両者はマリア=ルイゼの姿を見て敬礼したので、マリア=ルイゼは手を上げ、黙したまま直れと示す。左右の堕天使は直立の姿勢をとると、右側の者が、マリア=ルイゼに話しかけた。
「隊長と人間の女が、中でお待ちです」
彼女たちはレイの苦悩など、露ほども気付いていないらしい。
「ご苦労。では入らせてもらう」
マリア=ルイゼはうなずいて応えると、すぐ背後にいるレイへ首を向けた。
少年の空色の瞳は輝きを濁らせていたので、マリア=ルイゼは小さく息をつく。だが、とくにレイへは声をかけず、扉へ向き直るとノックした。ノック後、ドアノブの上に設置されている計算機のような設備へ手を伸ばし、一番上にあるボタンを押しながら話しかける。
「カーミラ様、レイ・センデンスをお連れしました」
マリア=ルイゼがそう発言すると、何か軽い音が聞こえた。どうやら開錠されたらしい。
レイは卑猥で生ぬるい淫気を感じ、こちらへ波動を向けてくる淫魔に目をやった。
首謀者は扉の左側に立っている、緑髪の堕天使だった。彼女はレイと目が合うと、色目を使いながら投げキッスをおこない、扇情してくる。
昨夜、マリア=ルイゼはミューティに呼び出されたので、レイの病室にいられなかった。そこで代わりの者が見張りについたのだが、彼女がその淫魔であった。
彼女には見張られるだけでなく、しっかりと味見をされてしまった。
昨日はミューティに陵辱されたあと、マリア=ルイゼと激しく睦みあった。だから体力を消耗しきっていたので、迫られたときは、疲れているから眠らせてくれと懇願した。だが当たり前のように犯され、淫気喰いによる心臓の痛みを味わわされている。
名前も知らない左の淫魔は、まったく悪びれていないらしい。
艶めかしく唇を舐めながら、緑の瞳を潤ませ、うっとりとした表情で誘っている。昨夜の出来事を再びしましょうとでも言っているかのように見えた。
レイは投げかけられる淫気に当てられて発情せぬよう、平静を装って淫魔から目を切った。
ここで我を忘れると、シンディと会えなくなるのが分かりきっているからだ。
マリア=ルイゼはレイを挑発している警護兵を厳しく睨みつけた。すると、誘惑をかけていた堕天使が逡巡して淫気の流れを止め、首をうなだれてしまう。
マリア=ルイゼはそれ以上叱責せず、「入ります」と、中へひと声かけてから扉を開いた。
レイは彼女のあとに続いて入室する間際に左の淫魔へ首を向け、昨夜の復讐だとばかりに、「ワーズ先生に言っとくから」と、やり返してやった。
この脅しは効果覿面だった。
挑発してきた左の淫魔だけでなく、関係ないはずの、右の淫魔まで怯えだしたのである。左の淫魔は腰を抜かし、廊下に坐り込んでしまうほどの恐慌ぶりであった。
どうやらミューティの仕打ちは有名らしい。
自分もやられたが、あれは仕打ちにすら入らないと思える。本当の激しさがどれほどのものかを、マリア=ルイゼで見知ったからだ。
日が明けて起床し、朝食を摂っているときに彼女は戻ってきた。
ただ、その姿は完全に憔悴しきっており、見張りの交代を済ませてレイとふたりになった途端に、床へ倒れ込んでしまった。
淫気は弱々しく、目に隈ができ、今にも気絶しそうな状態だったので、仕事があるからと拒否する彼女を強引にベッドへ連れて行って、無理にでも休ませたくらいである。
何をされたかは訊ねなかったものの、まだ疲労が残っていたから朝食後にひと眠りしようと思っていた自分が、ベッドを明け渡してしまったほどだ。
シンディの面会に呼ばれる直前まで、マリア=ルイゼは寝返りどころか微動だにせず、死んだように眠っていた。起きてからは毅然としているが、すべての肉体疲労が回復したとは思えない。
休憩させなければ、歩けもしなかったのではないだろうかとすら思う。
左右の淫魔が慄然としたのは、こうなるのを知っているからなのだろう。
レイはいくらか気分が楽になり、したり顔を浮かべた。自分を襲った緑髪の淫魔に、痛烈な仕返しができたからだ。
シンディとは出たトコ勝負だと、開き直れたのである。
「嘘だよ、ごめんね」
いたずら小僧の真骨頂とでも言わんばかりに舌を出しておどけてみせ、それからマリア=ルイゼを追っていった。
左右の淫魔は入室していく少年の後ろ姿を見送りながら、胸に手を当て、大きく安堵の息をついた。
入室すると着替えを済ませたシンディが待っていたので、手を振って挨拶した。
帰り支度を整えたシンディは、タンポポ色のワンピースを着用している。着てきた衣服は恍魔によって切り刻まれてしまったため、代わりが用意されたらしい。
ツインテールにまとめている金色の髪の毛と色彩を合わせられたワンピースは、よく似合って見えた。レイの空色の瞳に、とても健康的な、いつもの幼馴染の姿が映っている。治療が終わって生きる力に満ちている彼女を眺めているだけで、不思議と元気が湧いてきた。
小振りな胸には、ピンク色のポーチを大事そうに抱き止めている。
ポーチがないから探したいと固執し続けたので、レイはマリア=ルイゼに頼み、探し出してきてもらったのだった。
シンディに返したときは泥まみれだったが、今は輝くほどに磨き上げられ、ひとつの汚れも見られない。大事にしてもらえているのがよく分かり、レイにとっても、嬉しかった。
このシェネーフューヌというブランドもののアイテムを買うために、随分とアルバイトをしたものである。
なんとかシンディの誕生日に間に合ってポーチを贈れたとき、彼女が異様なほど喜んだので驚きもしたが、頑張った甲斐があった。
「とうとう、この日が来ちゃったんだね」
シンディは寂しそうに微笑した。
「そうだね。でも喜ぶべきだよ。無事、というわけにはいかなかったのが申し訳ないけど、とにかく、帰れるんだからさ」
「でも、複雑……」
シンディと軽い挨拶を交わしていると、幼馴染のすぐ隣に、半裸の堕天使が立っていたのが目に止まった。
マリア=ルイゼのものよりも大きな黒翼の持ち主で、折り畳まれていても床につきそうなほどだ。半裸なのは衣服が邪魔だからなのかは判然としないが、布地がほとんどないマイクロビキニを着用し、腿丈ほどのレザーブーツを履いているだけである。
黄白色の大柄な肉体は、成長途上の自分よりも遥かに背が高い。自分の身長などこの堕天使の肩までしかないので、目を合わせようと思ったら、見上げねばならなかった。
体躯はよく鍛え込まれており、二の腕や太腿、腹部の筋肉が目立っている。だが女性特有の凹凸のほうが遥かに存在感を示しているので筋肉質な体型には見えず、唖然とするほどの、肉々しい肢体であった。
どうしても目に止まるのが、胸にふたつついている、メロンを思わせる肉塊である。
シンディの顔よりも大きなそれは、三角形のブラジャーを着けているが、先端を隠すためだけに存在しているとしか思えないほど、面積が狭い。僅かにずれただけで、男を虜にするいろいろなものが、顔を覗かせるだろう。これを糸のような細紐でつなげているだけの代物なので、乳房の全容がほとんど見て取れた。胸の輪郭が明確に見えるのは、それだけ大きいという証左である。
にも関らず、重力を無視して盛り上がっているのは、強靭な大胸筋によって支えられているからに違いない。胸元の盛り上がりは柔らかくも逞しく、これがバストアップに拍車をかけているようだ。
素晴らしすぎる持ち物を前にして、レイは満足そうにうなずいた。
無意識である。
「レイ?」
下半身の下着も布地がひじょうに少なく、ハイレグを通り越して鼠径部が剥き出しだ。そのため脚がとても長く見えるものの、局部が見えてしまうのではないかとこちらが危ぶむほど長さも幅も頼りないため、膀胱部は多くを晒している。ただ、下の毛は見えなかった。剃毛しているのか、それとも元来から生えていないのかは分からない。
それは問題ではなかった。
布地が女の谷間に食い込み、深い筋ができていたからである。もう僅かにも食い込めば、下着は面積が足りなくなって、魅惑の丘を曝け出すだろう。
股を覆う役目を果たしているとは到底思えない下着であり、やはりこちらも、糸同然の細紐で布地が支えられていた。
では見えていない後ろ姿は、いったいどんなシステムになっているのだろうか。そう思うと男のロマンを探求する頭脳が想像力を膨らませ、紐しかない、最高といえる状況を思い浮かばせた。
実によいと勝手に自己満足しながらうなずきつつ、胸がメロンならば、尻はなんだろうと思い馳せた。
今度は想像力を働かせるのではなく、瑞々しく熟した大きな桃であれ、と願った。
また、レザーブーツと下着に挟まれる恰好で、太腿がその存在をひけらかしているのを目の当たりにもした。
大腿筋が浮き立っているものの、男性的には見えない。脂肪が筋肉の筋を柔和に包んでいるからだ。
逞しさと柔らかさの両立に成功させているこの淫魔を見たレイは、
むっちりという言葉は、この淫魔のためにある。
と思った。
「ねえ、レイったらっ」
話には聞いていたが、カーミラという戦士を見たのは初めてだった。
想像していた以上に存在感があり、ただ立っているだけでも、凛然とした風格がある。
バベットの国へ亡命してきた多くの堕天使たちをまとめあげているのだそうで、その見事な指揮ぶりに感銘した女王は、堕天使たちで構成した、黒翔隊という名の戦闘集団を新規に組織し、初代隊長に彼女を叙任したらしい。
そんな大物であるカーミラは、シンディを送り返す使者に任命されて、ここにいた。
納得である。
少年に凝視されていたカーミラは、深みのある葡萄色の目を向けると、無表情を保ったまま、軽くうなずいてきた。よく来たなという挨拶なのか、もっと見てもよいという合図なのかは分からないが、レイはいとも簡単に、彼女の魅力に惹き込まれていた。
ポニーテールにまとめている白銀色の髪の毛は、まるで高級錦糸のようである。男女の区別なく、誰でも触れてみたいと思うであろうそのきめ細かさに、レイは感嘆した。
「ちょっと、いつまで見てるのよっ」
とうとう怒ったシンディが、大切なポーチにも関らず、力いっぱい投げつけてきた。
「痛っ」
ポーチを顔にぶつけられ、レイはやっと、我に返った。中には固い物が入っていたらしく、鈍痛が額に響く。
自分は淫気を使うが、敵意のある物理攻撃を無力化できる能力は、有していないらしい。
床に落ちたポーチを拾い上げ、「ごめん」と謝罪しながら、シンディに返した。
「もうっ。デレデレと鼻の下を伸ばしちゃって、レイのエッチ! そうやってアタシのいないトコで、淫魔たちといやらしいことをたくさんしてたのねっ。ホントにレイったら、どうしようもないんだから。やっぱアタシ、淫魔になって淫界に残ったほうがよさそう。アタシがいなくなったら、レイはハメを外しまくるに決まってるもん。もう最っ低!」
不機嫌になったシンディが、矢継ぎ早に叱責してきた。レイはひるんでしまい、呻きながらあとずさる。
淫界に残るだの、淫魔になるだのと言われて、すかさず絶対に駄目だと言い放ちそうになったが、自分が原因でシンディを怒らせてしまったので、何も言えなかった。
「アタシ、これから帰るんだよ? 今度いつ逢えるかも分からないのに。もしかしたら、もう逢えなくなっちゃうかもしれなくて、不安で不安で仕方がないのに。なのにレイは、アタシなんて、全然、どうでもいいんだね」
「そ、そんなことないよ……」
「じゃあなんで、この人をジロジロ見てたのよっ。アタシなんか眼中になかったくせに」
「ち、違うって」
「嘘ばっかり言って。何が違うのよ」
「だ、だからそれは……」
レイは言葉に詰まってしまった。それを見たシンディが頬を膨らませ、睨みつけてくる。
少女はツインテールにまとめている金色の髪の毛を振り払ってから腕を組み、さらに不満をぶつけてきた。
「スタイル抜群の淫魔を見てヘラヘラしちゃってさ。どうせアタシはスタイルよくないもん。そんなに淫魔がいいんだったら、好きなだけエッチでもなんでもすればいいじゃない。好みの女に搾り尽くされるんだったら本望でしょ。もうレイなんか知らないっ」
シンディは腕組みしたまま、顔を背けてしまった。
ただここで、間接的に死ねと言われたレイが逆上した。顔を真っ赤にすると、負い目も忘れ、幼馴染に食い下がっていく。
「人の気も知らないでっ。何もそこまで言うことはないだろ!」
レイの抗議がシンディの火に油を注いだらしく、横に向けていた首を少年に戻すと、少女も負けじと、顔を真っ赤に染めて怒鳴り返した。
「何よ、自分が悪いのに逆切れして文句を言うわけ? いいよ? アタシは寛容だから、言い訳があるんだったら、聞いてやろうじゃない。さあ言ってみなさいよっ。淫魔をジロジロ見てニヤけてた理由を! この、おっぱいバカぁっ!」
「何をぉっ。悪いと思ったから謝ったんじゃないかっ。よそ見をされるのがそんなに悔しいんだったら、シンディだって、ボン、キュッ、ボンって、なってみせればいいだろっ」
「ひ──、酷すぎるぅぅっ! 人が本気で悩んでることなのにぃぃ!! レイだって、そこまで言うことはないでしょっ!!」
シンディは、レイに返されたポーチを、再び投げつけてきた。レイは咄嗟に反応し、両手で掴んで難を逃れる。
「何よけてんのよっ」
「こんなふうに使ってもらうために、プレゼントしたんじゃない!」
両者は今にも取っ組み合いそうな気配で睨み合い、火花を散らした。
すると、ここまで静観していたマリア=ルイゼが吹き出した。
「なんだこの夫婦漫才は」
腰に手を当てて呆れながらも、失笑しているうちに青竹色の瞳が潤んでいく。
「まったくおまたえたちときたら。普段からこんな調子なのか?」
「お涙頂戴の感動的な場面でも見せつけられるのかと覚悟してたけど、まさかこんな痴話喧嘩が見れるとは。どうしたどうした。ほら、もっとやってみせなよ」
無表情を保っていたカーミラからも苦笑が起こり、ふたりを煽ってきた。
ここで、レイとシンディは我に返った。
互いに不満げなままだが、言い争いは終了する。
レイは憮然としながらシンディにポーチを突き出すと、少女はひったくるように受け取った。ただ、ポーチを返されてからは、大切そうに胸に抱いている。頭と心は真逆の反応を示しているらしい。
それはレイも同様だった。
茶色の髪の毛をぞんざいに掻き、やり場のない複雑な心境を、必死にごまかしている。
喧嘩などしたくはなかったのだ。
「滑稽な別れの挨拶だったよ。さ、先方はもう待っているだろうし、そろそろ行こうか」
カーミラに声をかけられ、ふたりは黙ってしまった。別れという言葉が、重くのしかかってきたからだ。
レイとシンディが目を合わせると、互いはすぐ、視線を外してしまう。
「ああもうっ」
レイは隔靴掻痒として、つい不満の声が出てしまった。
それを見たシンディが、それはアタシだって同じだよとでも言いたげに、顔をしかめる。
少し間が空いたあと、シンディはカーミラを窺うようにして話しかけた。
「あの。もう少しだけ、いいですか?」
「早めに切り上げてくれるならね」
忠告されつつも応じてくれると、シンディに安堵の色が浮かぶ。
レイも胸を撫で下ろす思いだった。
心を許せる人が相手だと、場もわきまえずに地が出てしまう自分が情けなく、忸怩たる思いが自己嫌悪感を増大させた。
どんな結末が待っているにせよ、ちゃんと話をしてから別れたい。
複雑ではあるが、それが今の自分の、正直な気持ちだった。
マリア=ルイゼは何も言わず、腕組みの姿勢で見守っている。カーミラも、シンディに話の許可を与えたあとは口を閉ざし、話しやすい空気を作ってくれた。
「ねえレイ。アタシが帰るってことは、アタシはハンター学校に通い続けることになるんだよ? 二年生になったら、アタシはいろんな男の人と経験するようになるんだよ? それでもレイは、いいの?」
先に話しかけられてしまった。
シンディと話をするたびに、必ず話題になる事柄である。それを、彼女は最後にも提起してきた。
「いいわけがないよ。でもシンディはハンターになるのをやめないでしょ。諦める代わりに淫魔になるなんて、こっちのほうこそ絶対にダメだし。これじゃ、ぼくにはどうしようもないじゃんか」
レイの思いも変わらないため、こうして堂々巡りになるのだ。
結論は出ているのである。
ただ、互いが辛く思う状況にそれぞれが身を置く結果になるため、どうしても同じ話題が出てしまう。
レイは、嫌だとは思わなかった。
重要な話だからだ。
何かを突破口にして、解決の糸口を見出したいのである。
「シンディがぼくを怒るのも解る。確かにぼくは最低だ。淫魔に見蕩れちゃってたんだから、言い訳なんてできない。シンディはさ、もうぼくなんか忘れて、新しい生き方を見つけたほうがいいんじゃないかな。ウチに帰れば、幸せな家庭があるでしょ?」
「それを言わないで。アタシの決めた人生が、否定された気分になっちゃうじゃない。それに、本気でそれを、アタシに言うの?」
レイは返事ができなかった。本気なのかどうかも分からないからだ。売り言葉に買い言葉なだけなのかもしれない。
シンディは、答えられないレイの苦悩が解るらしく、責めはしなかった。
下唇を噛み締めて俯いてしまったが、すぐに話を続けたのである。
「アタシはお父様に勘当されちゃったから、幸せな家庭なんか、もうないよ。お兄様はお優しいから励ましてくれたけど、本当はお怒りなの、アタシだって解ってるもん」
「え……」
レイは言葉を失ってしまった。
シンディが自分を救おうと淫魔ハンターを目指したせいで、家族に大反対された結果だと直覚したからだ。
彼女の父親であるアンドレは、シュバイツァー事件によって妻を失い、身をもって悲劇を経験させられてから、センデンス一家と家族ぐるみの付き合いをするようになった。
この親睦によって淫魔ハンターという職業に理解を示し、淫魔ハンター協会に多額の資金援助もおこなうようになっている。ただ、それと自分の娘は別の話なのだろう。
当然だと思った。
アンドレはどんなに多忙でも週に一度は必ず帰宅し、家族と一緒に食事をしてくれるような優しい人である。家族愛に満ちているのだ。血のつながりのない自分が反対の立場なのだから、実の父親が賛成するとは、とても思えなかった。
それにアンドレには、巨大な財閥の総裁という体裁がある。娘が淫魔ハンターになったら、財閥の名声に悪影響を波及させてしまうだろう。報道機関が嬉々として記事にし、祭り上げらるのは目に見えている。栄耀栄華を謳歌した存在が失楽したシュバイツァー事件は今でも語り草になっており、旨みが凝縮しているのだ。何を書かれ、どんな話題にもっていかれるか、知れたものではないのである。
淫魔ハンターは人類の存亡を担う、欠かせない職業に変わりはない。命がけで淫魔に対抗してくれる人たちであると、誰もが知っている。だが、性行為を武器にしなければならないのが、問題をややこしくさせた。
この職業は世間の目が激烈である。報道規制が必須になるような案件が多すぎるので、闇に包まれてしまう不祥事も多い。淫魔ハンターをネタにした悪質なビジネスは、どこの国でも横行していて社会問題になっている。
だから、必要不可欠な存在でありながら、表沙汰にできる不祥事があると、大々的に叩かれてしまうのだ。
淫魔ハンターなど売春の延長でしかないと卑下する者があとを絶たないのは、たとえ人類の生存権を争うためであったとしても、種の保存と繁栄に関る最も重要な手段を、商売に使われてしまう悲憤があるからだ。
世間一般の印象は悪いのである。彼らがいないと人類が滅亡するから仕方がない、そう思われてしまうのだ。
自分が実の兄と慕っているファン・ストライカーは、淫女王を斃して淫界を滅ぼしたことがある。
人類への被害を減少させたのだから、英雄なのは間違いない。だが、そんな英雄ですら、世間で彼を知っている者は少なく、たとえ知っていたとしても、表立って賞賛されはしない。むしろ、正体を知られて石を投げつけられたときすらあった。
人類を救いたいと、純粋に淫魔ハンターとして命を捧げている者ですら、忌避の視線を浴びる世界なのだ。
そんな世界に娘が飛び込もうとしているのだから、アンドレが激怒するのも解る話だった。
肉体は汚れきり、心は傷つき、世間体も悪くなる。
それ以前に、殺されてしまったり、淫魔化させられてしまう可能性が高い。
その起因を、自分が作ってしまったのだ。
シンディの生活環境を叩き壊してしまったのだと思うと、取り返しのつかない重荷が背中にかかってきた。
立っていられないほどの重さを感じたレイは、愕然とした表情を浮かべると脚の力を失ってしまい、床に跪く。
勘当されたならば、生活はどうしているのだろう。淫魔ハンター事務所で寝泊りしているのだろうか。そこから通学しているのだろうか。淫魔ハンターを目指す彼女に対し、友人知人たちからどう思われ、何を言われたのだろうか。
ちゃんと、食べているのだろうか。
自分を救うために、彼女はかけがいのないものを失っているようだ。このままでは、もっと多くの悲しみを背負い、数えきれないほどの傷を、心と体に負うだろう。
やりきれない思いが広がった。
心が暗澹極まる闇に覆われてしまい、いっさいの光を失う。暗黒の中から、さらなる闇が、ある思いを同伴して湧き上がってきた。
思いを乗せた闇は、たしかに、自分の素直な心であった。
贖罪にすらならないと思ったが、もうそれしか自分にはできないと、力なく口を開く。
「今から死ぬよ。ぼくが死ねば、シンディはハンターになる必要性がなくなる。あとはアンドレおじさんやギュンター兄ちゃんに謝ってさ、家に入れてもらって、やり直すんだ。まさかそんなことになってたなんて。ぼくはどれだけ、ものを知らないんだ……。ごめん、シンディ」
「だからそういうことを言わないでって言ってるでしょっ」
シンディも床に膝をつくと、消沈したレイの肩を掴み、激しく揺すってきた。
ポーチが床に落ちてしまったが、少女は気にも留めない。
「アタシの人生はアタシが決める。だから後悔なんてしないっ。お願いだから、死ぬだなんて言わないで。お願いだから……っ」
レイが力なく首を上げると、幼馴染の頬に大粒の涙が流れているのを見た。
「ねえレイ。アタシって、重い? レイの邪魔になるなら、アタシのほうこそ、レイのまえからいなくなるよ」
「そんなんことあるもんか。シンディがいてくれたから、今まで生きてこれたようなものなんだから。でも、シンディがハンターになるってことは、シンディが、命の奪り合いをするってことになる。シンディだって、もう分かってるでしょ? 淫魔はぼくら人間たちと、意思の疎通が可能な生き物だって。いろんな事情があるにしても、そんな存在を、殺さなくちゃいけないんだよ? ぼくだって、淫魔をひとり殺した。ぼくはもう、殺人者なんだ。淫魔は人類を滅ぼす敵だから仕方ないって頭では分かってても、心からは、どうしても罪の意識が消えない。怖くて怖くて、気が狂いそうになる。ハンターたちは、今までこんな思いをしながら、ずっと戦い続けてくれてたんだ。そう思うと、せめてシンディには、そんなことを、させたくないんだよ」
恍魔を絶頂させ、性行為によって命を奪った瞬間が、レイの脳裏をよぎった。
死ぬわけにはいかないと豪語していたはずの恍魔が、いざ消滅という間際に、ひじょうに満足そうにしながら、消えていった。
淫魔たちにとって、快楽は絶対であると、思い知った瞬間である。
同時に、自分が殺人を犯した瞬間でもあった。
シンディやアーシアを助けるためだったとはいえ、この事実は曲がらないのである。
レイの身体は自分に巣食っている淫気によって、四六時中、火照った状態にあるはずが、全身に寒気が走り、身が震える。
「レイは、優しすぎるんだよ……」
シンディは、レイの肩を掴んでいた手で、そのまま優しく、少年の震える肩をさすった。
「そうやっていっつも、誰かのことを考えてて。自分のことは二の次で。アタシたちを殺そうとする敵にまで同情しちゃう、大馬鹿者。でも、そんなレイだからこそ、所長たちみんながレイを助けたいって、必死になれるの。アタシだってそう。所長ね? レイが淫魔になった可能性があるってファンさんから聞いたときは、すごくショックを受けてた。でも、あっという間に立ち直ったの。なんでか分かる?」
「分からない……」
「簡単だよ。レイが、生きててくれたから」
「え?」
「レイが生きているかぎり、人間に戻れる可能性だって、ゼロじゃないはず。最悪、淫魔の力を持ったまま生きなきゃいけなかったとしても、それでも死なれるよりはマシ。だってレイは、ちゃんと自分の心を、持っててくれたじゃないっ」
シンディはマリア=ルイゼとカーミラを睨みつけた。淫魔への憎しみの強さが眼光に現われ、蒼色の輝きが鈍く濁っている。
マリア=ルイゼとカーミラは、真正面から少女の敵愾心を受け止めた。その顔は真剣そのものでありながら、どこか満足そうにも見える。
「だからお願い、どうか生きて。たとえ木の皮を食べてでも、生きて。死ぬだなんて、もう言わないで。そんなんじゃ、ヴェイスおじさまやエパおばさまが可哀想だよ。所長から、最後に奇跡が起きて、エパおばさまが正気に戻ってくれたときのことを教わった。おばさまは最後までレイを心配して消えていったって。なのにそのレイが死んじゃったら、おふたりが浮かばれないよ。それにアタシだって、もしレイが死んじゃったら──っ」
シンディに泣きつかれた。
レイの首を抱く力はとても弱々しく、今にもくず折れてしまいそうなほどである。
レイはシンディの背中に腕を廻し、優しく撫でさすってやった。
自分の大切な幼馴染は、胸の中で泣きじゃくっている。彼女の想いの強さが痛いほど心に響いてきて、闇の世界に、ひと筋の光が灯った。
シンディが勘当される原因となった自分が、彼女をなだめてやる資格などないとも思ったが、それを言ったらまた怒られるのは目に見えているので、口をつぐんだ。そういう考え方ではなく、堕ちるところまで堕ちた自分が、これからどう這い上がっていくのかを考えていかなければならないと思った。
シンディの笑顔を取り戻すためだ。
答えは見えている。
淫帝シドゥスを打ち倒し、アーシアを天界に還し、ディアネイラと決着をつけ、そして、人間に戻るのだ。
その方法が分からないのだが、それは足掻いてでも見つけなければならないと、思いを新たにした。
最近は思い悩みが多く、自分には生きている価値がないとすら思っていたが、それを決めるのは、自分ではないことに気付いた。
親から預かった命を、決して粗末にしてはならない。
この想いを、もう揺るがせにしてはならないと、心へ焼印した。これからも何度となく懊悩を繰り返すだろうが、自分で自分に評価を下してはいけないと、己の気持ちに正直なシンディを見ていて、勉強した。
どれだけ困難な道のりなのかなど、重要ではない。
できるできないは、関係がない。
やるのかやらないのか。
それが問題なのだ。
やる。
今なら、即答できた。
「ねえレイ」
「ん?」
シンディは涙も拭わず、互いの鼻が触れ合うほどの距離に肉薄してきた。レイは慌てて腰を後ろに退こうとしたが、首を巻くシンディの腕がそれを許さない。
結局、シンディに互いの額を触れ合わせる状況を作られてしまったが、レイは抵抗をやめ、好きにさせてやろうと受け入れた。
「さっきはごめん。レイの事情は解ってるつもり。嫉妬してる自分がバカみたい。まえにも言ったけど、淫魔の人たちと、してていい。しなくちゃレイは生きられないんだもん。好きなだけ欲情させられちゃっても、しちゃってもいい。それでもいいから、どうか生きて。ごめんねワガママばっかり。アタシなんか自分からハンターになって、自ら汚しちゃうのに。だからさ、レイはアタシを、見捨てちゃっていいんだからね。レイ、ホントに、ごめんね」
再び、シンディから嗚咽が聞こえ始めた。
レイはもう、遠慮なくシンディを抱き締めた。
「ぼくがシンディを見捨てるわけがないじゃないか。シンディはこれからがたいへんだってのに、ぼくは自分のことしか考えてない。シンディのほうこそ、辛かったら辞めちゃっていいんだからね。ぼくは絶対に人間に戻って、ウチへ帰るんだから」
レイはさらに腕に力を込め、シンディの背骨が反り返るほど、強く抱いた。
驚いたシンディが目を見開く。だがシンディは苦しい素振りすら見せず、むしろ嬉しそうに、顔を綻ばせた。
「大丈夫、レイは、大丈夫だよ。アタシたちが、助けに行くから。レイが人間に戻れる方法だって、探してるの。所長って、ホントに凄い。ハンター協会本部すら、動かしたんだから」
シンディは抱かれた身体をおもむろに離し、真剣な眼差しで正面からレイを凝視した。
蒼色の瞳から滝のような涙が溢れ、頬を伝う。
「でも、どうしてもレイがダメなときは、どうしてもレイが耐えられないときは、どうかアタシに、教えて。アタシが、アタシが……っ」
レイは、シンディが言葉を詰まらせてしまったのが判ったので、黙って待った。
気分を沈着させるかのごとく、大きくひと呼吸した幼馴染は、ゆっくりとレイにうなずく。
それから少し間を置き、シンディの震える薄い唇が、
開かれた。
「アタシが、レイを……」
シンディの頬を、さらに大量の泪が流れ落ちた。
「──斃してあげる」
「ありがとう、シンディ」
決意と哀愁が入り混じった彼女の泪が今にも血に変わりそうで、正直なところ、痛々しすぎて見ていられなかった。だが少年はシンディから目を離さずにうなずき返し、感謝を述べた。
ここまで想ってくれる人がいてくれる。
畏れ多かった。
感謝しかなかった。
「そろそろ行こうか」
カーミラに声をかけられたシンディは黙してうなずき、泪を拭いながら立ち上がった。
「でも、アタシもすぐに追いかけるから。だからレイは、独りぽっちじゃ、ないからね」
「それはダメだよ」
手を差し出され、レイも幼馴染の手を借りて立ち上がった。
「なんで? アタシがレイを殺してしまう結果を導いちゃったなら、アタシだって、レイに、ついて逝きたい」
「ぼくには生きろって言っておいて、よく言うよ。なんでシンディがそこまでしなきゃいけないのさ」
濡れ続けるシンディの頬を、親指で拭ってやった。
「そういうことを、女の子の口から言わせる気?」
泣き笑いながら、拗ねたように口を尖らせたのを見て、レイはしどろもどろになった。
「えーと。だ、だってさ、ぼくはこれからだって浮気しまくっちゃうんだし、それって最低だし、シンディを怒らせちゃうし。それ以前に、釣り合わないし。だから……」
「浮気は確かに妬けちゃうけど、それは仕方ないもん。だからアタシは我慢する。レイだって同じなんだろうし、それを思ったら、アタシだって辛い。でも、だからといってこんなときに、釣り合わないとか、言うかなあ。レイに言われちゃうと、かなりショック。あ、そっか。レイが偉大すぎて、アタシじゃ釣り合わないってことね。レイって抜けてるんだか肝が据わってるんだか、物怖じしないもんね。口ばっかりだけど」
充血している蒼色の双眸に光が差した。それを見て、もうシンディは大丈夫だと思った。
無論、今の状況は大丈夫どころではないが。
「ご、ごめん。てゆーか、ちょっと酷いことを言ってない?」
「許してほしかったら、ちゃんと人間に戻って、帰ってきなさいよ?」
シンディに笑顔が戻った。泪に濡れてはいるものの、細められる両目から慈愛がもたらされ、こちらまで優しい気持ちになれる。それでいて目の力には活力が漲っているのだ。
太陽のような人。
レイが表現する、シンディの人物評だ。この顔を、いつも見ていたいのである。
黙って静かにしていても、彼女の周りには、不思議と人だかりができる。見目の麗しさや、大富豪の令嬢という肩書きだけで集まってくるわけではないのを、レイはよく知っていた。
「当たり前だよ」
「レイらしい答え方だね」
告白しろと言われる流れにならず、レイは安堵した。
シンディの心を知ったからである。素直に嬉しいのだが、心境は複雑であった。
絶対に諦めないが、生きて帰れる可能性は、現実的に、かぎりなくゼロに近いだろう。両想いとなって、彼女をいつまでも待ち焦がれさせてしまうのは申し訳ないという思いが、どうしても捨て切れなかった。
自分が女心を知らない愚か者なのは、自覚している。
「じゃあ出発するから、こっちにおいで」
カーミラに手招かれたシンディは、使者の元へ歩いていき、途中で床に転がっているポーチを拾って、大切そうに胸に抱く。
カーミラの隣に立つと軽やかに身を反転させ、レイと向き合った。
満面に笑顔をたたえている。
最高だった。
「カーミラさん、マリー。この場を設けてくれて、本当にありがとう。シンディをよろしく」
レイが感謝を述べると、マリア=ルイゼは呆れ顔で手を振り、投げやりに呼応された。
「淫魔へのお礼が何を意味しているか、分かってるんだろうね?」
カーミラが含み笑いをすると、発言の真意を悟ったシンディが憮然となり、大柄な堕天使を見上げて抗議の視線を送った。
そして、やり返した。
「レイ、この人にお礼しちゃって。アタシなら気にしないように努力するから大丈夫。だから、こんなスタイルの女なんか、打ち負かしちゃいなさい! 同じ女で、どうしてこうまで違うのよ、納得いかないっ」
「ねえシンディ? それってぼくのほうが、たいへんなことになるとは思いませんか?」
「そんなの知らないっ。自分でなんとかしなさいよ!」
眼前にあるメロンのような乳房を睨みつける。自分の顔よりも巨大な存在へ、信じられないとばかりに、かぶりを振った。
「あはは、痛快な子だね。気に入ったっ。アンタさ、あたしのトコに来ない? アンタはきっと、モノになる。こんな子を、育ててみたいもんだ」
「レイに帰れって言われたんだから、アタシが淫魔の世話なんかになるわけがないでしょっ」
カーミラに頭を撫でられたシンディが激怒し、不潔なものでも振り払うかのように、その手を薙ぎ払おうとした。
だが、見えない波動で弾かれてしまう。シンディの表情が、みるみるうちに不満を示していった。
「レイ、負けないで。どうか、どうか頑張って。アタシも、歯を食い縛って、頑張るから」
「うん。シンディ、身体を大事にね。風邪ひかないでよ?」
「よし、じゃあ行くよ」
カーミラはシンディの細腕を取った。
「ありがとう、ホントに嬉しい。レイも、どうか気をつけて。──ねえレイっ。アタシ、レイのこと──っ」
シンディは発言の途中で、カーミラの転移魔法により、姿を消した。
レイはふたりが消えた場所を見詰めたまま、マリア=ルイゼへ声をかけた。
「マリー、バベットに伝えて。……シドゥスと対決する」
「報告しておく」
レイは背中で返答を受けてから、マリア=ルイゼへ身体を向けた。
決意に漲る空色の双眸を真正面から受けた彼女の表情は、少し困惑して見えた。が、すぐに微笑を浮かべ、少年を連れ、地下室から退室していった。
後日、デニソン国へ侵攻していた淫魔ハンターたちが、完全撤退したと聞かされた。
それは、自分が救出される見込みがさらに小さなものとなる出来事となったが、レイは淫気を有した状態では帰宅できないと考えていたため、気にならなかった。
少年はシンディの身を案じ、現存するのかどうかすら分からない神様へ、どうかシンディが笑って生きられますように、と、祈ったのだった。
背徳の薔薇 泪 了
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