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ないしょの#れっすん♪〜導入編〜前編

※注意※
エロが薄いです。薄いんです。
あとだれます。我慢できる人だけ眺めてください。
※注意※



 ――何暦だかわからんXXXX年。
 世界のどこかから現れた淫魔という生き物。
 武器を持たず、武器が通じず、快楽によってのみしか消滅させる手段がないというふざけたあんちくしょう。
 いずれもが美しい女の姿をして、性交渉を行った者のうち男は精を喰らい尽くして帰らぬ者にし、女は新たな淫魔にしてしまう。男は殺して女は自分のものにするなど、なんて野蛮もとい羨ましいのだろうと思わなくもないがそれはさて置くとする。置くんだ。置け。
 最初のうちは所詮薄汚れた色事に付いてまわった法螺話だろうと取り合っていなかった国民の味方の見解も相俟って、爆発的にその数が増加した。
 その対処法は、性交渉でイかせることのみ。
 数が増え、どこからともなく現れては被害を増やしていく淫魔に対して、遅まきながらも人類の反撃が始まる。
 対淫魔のための性技能を極めた人間の育成、その輩出、そして敵の駆逐。
 常人に比べれば時折馬鹿らしくなるほどの技術を持った彼ら。
 その淫魔に対するカウンターは、やがて自然とこう呼ばれることになる。
 淫魔ハンター、と。
 さらにその戦いぶりがまさに命をかけたものであった事から、競技的な意味がこもった性交渉をバトルファック、通称BFと呼ばれるようになった。

 ……この話は、その淫魔ハンターを輩出する機関である、淫魔ハンターの養成学校。
 その中において起きた、一つの物語を綴ったものである。
 残念ながら綺麗な淫魔様にさんざん扱かれて奴隷にされてしまったり、吸い殺されてしまったりといった話は今回は存在しない。今回は。
 傲慢を服に着たようなロリで吸血鬼が、吸血座位をしながら「気持ちいいのかよ? なら死ねっ、死ね死ね死ねっ、そのまま気持ちよく死んでしまえ!」などと言って責め立ててくることもない。残念だ。
 それでも構わない、という酔狂な方であれば頁を開いて、この話を見ても構わないかもしれない。
 この酔狂な、お話を。








 養成学校の校内に用意された生徒用の寮、その一室。寝泊りと、わずかな私室としてのこぢんまりとした、その空間。色気もへったくれもないがどこか人を落ち着かせる若草色の壁はしかし、長年の傷みに剥げている部分が見受けられる。
 窓側にちょうど対象に配置された大きめのベッドと、同じように扉側に置かれた、使い込まれた机。片側はほとんど物が置かれておらず殺風景そのものであるが、その反対側はといえば雑誌やら何ともしれない道具、私物が乱雑に散らばっており、相対しているのは位置だけではないようである。部屋の情勢はちょうど中心から真っ二つを国境線にして、今まさに片方から乱雑という名の歩兵が侵略を進めんとしているところであった。
 その攻め込まれている側の方、簡素な机に一人の男が座ってうんうんと何ともつかない声で唸っていた。
 落ち着きを連想させる青い髪だが、やや大柄な体を揺すりながら、その青をがしがしと掻くその様子からは到底落ち着きは窺えない。
 右手に挟み込まれたペン先はどうやら思うように何かを描くことができず、しきりに左手で、何かを押し出すようにぐりぐりと頭の頂点を刺激している。机いっぱいに広げられた資料が、そんな彼を見つめるようにじっと佇んでいた。

「……あー」

 耐え切れず溜息をついた時、彼の耳にどたどたと喧しい音が聞こえてきた。それも加速度的な勢いで近付いてくる。
 彼が小さく、もう一度溜息をついてから右手を掴みなおすと、ほぼそれと同時に彼の横で勢いよく扉が開かれた。

「ただいまーっ!」
「はいはい、お帰り。あと五月蝿えからちょっと黙ってろ」

 ひどっ。そう呟くと、部屋に飛び込んできた――正確には帰ってきた青年、トールは大きなバッグを机の脇に投げると、彼の手元を肩越しに覗き込んだ。
 金髪碧眼で均整に整った顔は、二十歳前の彼に少年のような面影を残している。瞳の色とは対照的に、その様子は人懐こい犬を連想させるようだ。

「何やってるの……ああ、シア・リアの課題?」
「そういう事だ。苦戦してるんだよ、黙ってるのは無理だろうから適当に遊んできてくれ」

 左手を頭に当てて、ぐりぐりと彼は捻りまわして、右手のペンを走らせていく。まるでそうすれば正しい解答が頭から右手に絞り出されていくと言いたいかのようだった。
 ふーん、とトールは呟くとその場で背中を向けて、未だに開いていた扉を閉めると、脇に放り投げたバッグから何かを探し始める。

「お土産持ってきたのに」
「何ぃ?」

 さすがに興味を惹かれたのか、それともよほど予想外だったのか。思わず椅子を引いて座ったまま彼が振り返ると、トールは丁寧に包装された長方形のそれを持ってひらひらと揺らしていた。

「それは……」
「そう、欲しがってた奴だよね。ちょうど近くに寄ったから買ってきてあげようと思ってさ」
「欲しがってたのは俺じゃないけどな……で、くれるのか?」

 もちろん。そう言って朗らかに笑い、トールは右手でそれを差し出す。彼はそれをただ受け取るのをほんの少しだけ躊躇ったようだったが、すぐに手を伸ばしてそれを受け取った。滅多にないことなのだから、遠慮する必要もないだろうと。
 珍しいこともあるものだ、と思いながらも彼が感謝を口にしようとすると――

「……で、ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだけど――」
「断る」

 聞くが早いかてのひらの形は素早く、物を挟む卵型からあっさりと平面へ戻って贈り物を押し返した。無造作に懐に突っ返される形になったトールは慌てふためきながら後ろに一歩下がって受け止める。それを見届けないうちに彼はさっさと体を翻して机に向かい直し、ペンを持ち直す。後ろから聞こえる、何するんだよー、という声は一切無視である。
 しかしそれで簡単に諦めるような相手でもなかった。

「そんなつれないこと言わずに、話だけ聞いてくれたっていいじゃんか、な?」
「ご機嫌取りの土産を持ってきて何を頼もうってんだ。厄介事に決まってるだろ!」

 四角い形をした釣り餌を自分のベッドに投げ込むと、トールは背中を向けたままの彼に対して躊躇せずに絡みつく。やや細身ながらも余さず筋肉のついた体は強い力で絡みつくが、やられた方はたまったものではなかった。
 力任せに振りほどこうとするものの、座ったまま後ろから絡まれてはまともに押し返す事もできない。

「ほんと頼むよ、困ってるんだよ。友人を助けると思って」
「俺が知ったことか! 気持ち悪いんだよ、離せ!」

 椅子に座ったまま強引に肘を当てにいこうとするが、培われた機敏な動作で避けられる。つかず離れず、強引に押し返そうとする彼を流しては逆側にひっつき直す。テクニックの無駄遣いである。
(もしこんなところを見られたらどうなんだ……? いや、んな事はありえないが……あああ、もう!)

「わかった、分かったよ。聞いてやるからさっさとどけ!」
「さすが、話せる!」

 耐えられなくなった彼が諦めてそう叫ぶと、トールは上機嫌といった風に口笛を吹きながら離れる。純粋さは欠片もなく、かといってしてやったりという悪辣さはない、その顔。
 その顔に間髪入れず、椅子から立ち上がった彼の中指が弾かれる。
 すでに集中が切れていたのか、ろくに反応できなかったトールはその場で座り込み、額を抑えて呻く羽目になった。

「痛ったぁ〜〜っ……! 何するのさ……」
「これで騙された気になってやる。まったく、人の課題を何だと思ってやがるんだよ」

 そう言って彼は椅子の背もたれに両腕を乗せるようにして、机とは逆方向に座り直す。溜息をつきながら座った彼の体重で、椅子が僅かに軋んだ音をたてた。一方のトールは、目尻に涙を浮かべてはいるものの、本気で痛がっているような節はなかった。

「さっさと言えよ、ほら」
「はいはい……」

 むすっとした表情のまま顎を向ける彼に促されて、トールは人差し指を顎にあてる。そのまま僅かな間だけ黙り込むと、彼を見上げて口を開いた。

「今月って何月だと思う?」
「……10月」

 急に振られた予想外の質問に多少怪訝な顔をしながらも、思い出すように視線を上へ放ったあと、律儀にそう答えた。その答えにうんうん、と頷きながらトールは話を続ける。

「そうだよね。去年の今頃は本当に慌ただしかったよね」
「お前は至極いつも通りだったような気がするんだが……」

 そんなことないのになあ、とトールは不満げに呟くが、彼は腕を組み替えて胡散臭げにトールを見つめなおすだけだった。そもそもほとんどの時間を遊び呆けているトールは同室の彼にも当然そのように認識されており、その例外が一日増えようが印象は大して変わらないのである。
 むしろ『この時期になっても大して忙しそうでない』という事で、複雑な感情の的にすらなっていた。

「丁度この時期から実技の本番って感じだったからな。一年前は苦労したもんだ。……で?」
「そう、それだよ、それ!」

 彼が片手を振りながら話の先を促すと、懐かしそうに目を細めていたトールは急に表情を煌かせて手を叩きながら背を伸ばして彼を見つめる。そのまま飛び上がってくるのではないかと錯覚するような突然の勢いに、彼も思わず背を反らす。

「この時期になると行き詰る一年が出てくるんだ。そうそう悪い成績を取るわけにもいかないしね」

 わずかばかりの懐かしさを込めて彼は小さく、そうだな、と呟いた。
 入ったばかりの春学期に取れる講義と違って、秋学期ともなれば本格的な実技の演習、ひいては下級生対三年で毎年恒例の演習も執り行われる。後者はともかく前者においてはきっちり試験もあり、あまりに成績不振或いは素質に問題ありと看做された生徒は、進路変更や、悪ければ強制退去も検討される……という決まりになっている。

「で……つまり?」

 半ば呆れたように訊ねる彼とは対照的に、トールは人差し指をぴんと立てて、どこまでも嬉しそうに、こう言った。

「困った後輩を助けるのは、先輩の務めだよね?」

 そこまで聞いたところで、彼は盛大に溜息をつきながら顔を伏せてしまった。伏せざるを得なかった。
 いくら体面上は強制退去処分などが仄めかされているからといって、基本的に人材不足なこの世界では、そうは簡単に検討される事はないのである。基本的に滅多なことでは落伍者が出ることはない。一年次では最終的な進路先が実働部隊でない、開発その他などの人間もかなりの数が実技に参加しているわけで、そもそも難しくできる筈がないのだ。

「いや、手伝いをちょっと受けすぎちゃって。手伝って欲しくてさ……」
「お前って奴は……大体そんな助けなんて、必要ねえだろ、普通」

 結構な狭き門を越えた、いずれも劣らぬ猛者ばかり。なのにわざわざ後輩の手伝いをする……というのだから、何を言わんかや、である。

「……どうせほとんどは、この機会に仲良くしようっていう魂胆だろ」

 さすがに過ぎたという自覚はあるのか、頬を掻きながら苦笑いするトール。呆れとある種の諦念が混ざり、彼はこうべを振って一体どれくらいの人数に声を掛けたんだ、そう思った。多分来年になってもやるんだろうな、とも。

「いや、まあ……でも結構不安に思ってる子がいるのは本当だよ? それを取り除いてあげるのも、悪い事じゃないんじゃないかな」
「もっともらしい事を……」

 ふと我に返ったかのような至極真面目な言葉に、彼は頭を掻いてジト目を向ける。とは言うものの、さすがに彼もそれを正面から切って捨てられるほど薄情ではなかった。
 大小があるとはいえ、少なからず自分もそういった不安というものを感じていた一人であったのだから。
(……こいつがそれを感じてたのかは少し気にならなくもないが)

「何も一緒にやってくれっていうわけじゃないよ。一人別に見てくれればいいんだ、それ以外ならどうにか面倒見れるから」
「当ったり前だ、二人も三人もそんなもん押し付けられてたまるか」
「じゃあ、やってくれるの?」

 口調を荒げてそう答える彼に、声を弾ませ、顔を覗き込むようにしてトールはそう訊ねてくる。子犬を連想させるようなその仕草に、ぐ、と彼は一瞬言葉を詰まらせた。
 ほぼ自業自得とはいえ切実な問題である事だけは確かなようで、眼差しそのものは真剣だった……まったくもって損な話だ、と彼は心の中で吐き出した。

「わかったよ。こんな話はこれっきりだからな」
「ありがとう! 一応僕からもう伝えてあるんだけど……明後日の3時からは空いてるって言ってたよね?」
「あのな……お前、俺が引き受けるって前提か?」

 呆れっぱなしの彼の質問は、てへ、というただの笑顔で返された。

「まったく……次から自分で面倒見てくれよ。泣いても知らないぞ、本当」
「大丈夫だよ。案外シグルドは優しいからさ」

 いきなり話を持ってきた奴が、何を無責任な。そんなシグルドの毒にも、トールは大丈夫、大丈夫と言ってにこにこと笑っているばかりだった。
(まあ、いいか……。気分転換にはなるだろうし、人に教えるのは基礎の確認にもなって有意義だとか聞いた事がある……気がするし)
 そう思って、ほとんど無理矢理自分を納得させようとするシグルドであった。




 かくして、一つ二つと夜を越す。
 やたらと手際のいいトールの取り付けた約束に従って、シグルドは件の女子との待ち合わせ場所にいた。
 秋の涼しさを纏った風が、ゆるやかに流れていく。彼の体を撫ぜるようにして吹き抜けていくと、未だに目処がつかない課題で徐々に煙をあげつつあった頭も、多少なり爽やかになっていくようだった。

(しかし、つい押されて受けちまったが……どうなる事やら)

 柱に寄りかかるようにして、建物の入り口を覗き込む。講義も定時の終了時間に近付いているせいか、早めに終わった者達がちらほらと歩いている姿が窺えた。
 約束の女子とは、講義終わりに合流することになっている。特に課題以外にはすることがなかったシグルドは、待ち合わせに遅れない念の為か、それとも課題が終わらない焦りのためか、早めに部屋を出てきていた。
 右手を懐に突っ込んでかき回すと、紙を取り出す。風でひらひらと揺れる紙には、トール直筆の細めの筆跡で、簡潔極まりない情報が並んでいた。
 ティエ。
 そのうちの一つ。そして彼が今回、訓練に付き合うことになる女子の名前だった。
 しかしそれ以外に並んでるものといえば、どちらかといえば本人のプロフィールというより、トールと彼女の出会いとでも題した日記か、さもなければ詩といった有様だ。『僅かに気だるい雨上がりを歩いていると、ベンチで一人胸を抱えるように座っている彼女を見つけた。それはまるで小さな春風のようで――』こんな文が延々と紙の終わりまで続く。途中から段々文字が小さくなっていく様を見て、シグルドは頭が痛くなった。
(大人しそうではあるが……どうかな。願わくば手に負える奴である事を祈りたいが)
 記憶を手繰るように中空に視線を彷徨わせながら、9:1の割合で押し寄せる不安に息を吐いた。
 養成学校の入学条件には年齢、経歴の制限がほとんど設けられていない。身元の確認さえされれば、後はほとんど知識や実戦での能力といった実力しか問われない。一年から三年の実力は当然おおよそ階段状に並んではいるものの、それはあくまで『大体』である。
 入学試験が実力主義であり、養成学校が国営であり、飛び級が存在しない以上は入学者のある程度の実力の開きは抑えようがないのだ。実技においては上級生が喰われるような事態も特に珍しくはない。
 学年の差が少なければ、なおさら。

「あの……」

(……内容が内容だけに、さすがに実力派に声はかけてないと思うが……)
 シグルドは、お調子者の友人の笑顔を思い出す。……途端に心が薄闇を伴って曇りはじめていた。有り得る。
 有得ない話じゃないな、と彼は思った。一年の方の猛者も、この時期になれば上級生にちょっかいを出したがる者が増えるのだ。とはいえ、さすがにそれを人に押し付けるほど面倒な奴ではない……だろう。多分。
(一年の実力者、か。……ひょっとしてトールの奴、あいつにも声をかけてるんじゃ――)

「あ、あのっ……!」

 瞬間、眠りから覚めるかのようにふわふわと浮かんでいたシグルドの意識が引き戻された。
 控えめながらもはっきりと自己主張した声。それが自分のものに向けられたものだと気付くのにそう時間は掛からなかった。目の前に女子生徒がいるという事にも。
 そこにいながら遥か空の上を散歩していたシグルドの頭が慌てて動き出す。無意識に右手を握り締め、くしゃりと音がして紙が潰れた。
「悪い。……ティエさん、かな」
「あ、はい……そうです」
「トールからの伝え聞きなんだが、間違いはないかな?」

 はい、と彼女が答えると、それに追従するかのように黒い髪に結ばれた青いリボンが風になびいて揺れた。紺色のスカートと白のブラウス、おずおずと前に回した手。風になびくリボンだけが、控えめな彼女の中で自己主張しているかのようだった。
 お互いに立った状態だと、ティエはシグルドを見上げるような形になる。女性の中では小柄な方に位置するだろう、全体的に小ぶりな体つき。綺麗な流線型を描きながらも起伏は本人の態度と同じように控えめ気味で、滑らかな肌も相俟って可愛らしさと同時に陶器のような脆さを連想させた。
(見た目で判断するってのもどうかと思うが、しかし……)
「……まあ、一安心か」
「はい?」
「いや、こっちの話」
 小首を傾げて訊ねてくるティエを眺めると、とりあえずの懸念は外れたであろうことに安堵せざるを得ないシグルドなのだった。

「早速だけど、寮に一旦戻る? それともこのまま?」
「あ……荷物は大丈夫ですから、このままで……」
「了解。じゃあ二号館に行こうか」

 はい、という小さな返事を聞いてから、シグルドは踵だけ返した。一瞬だけ戸惑ったティエが歩き出すと、それに付き添うように自分自身も足を進め始める。

「……と、そういえば問い質すだけで自己紹介をしてなかったね。俺はシグルド」
「はい……その、知ってます」
「まあ、トールから聞いてるかな」

 そういえばそれもそうだな、と彼は苦笑いする……思い出すのはメモの切れ端。いくら適当なところがあるといっても、それぐらいは教えているか。それとも単純に女の子に優しいだけなのか。いずれにしても俺はそこまで特徴がないわけだし、トールに伝え聞いたのだろう。

「いえ、そういうわけではないんです」

 予想していた答えを否定されて、え? と彼は思わず間抜けな声をあげた。出会ってから初めてのシグルドの素に戻った声に、ティエは敏感にもびくりと反応して、横目でちらちらと彼の様子を窺う。

「……そんな有名でもないだろう、俺。何かやったかな」
「いえ、その……ですね」

 前振りのような言葉だったが、シグルドの方を向いたり逸らしたりする挙動不審な目の動きや、言い難そうにしている口元が、続きを語ろうとしていない事を如実に表していた。
 特に下級生の覚えがよくなるような事をやった記憶のないシグルドは、その様子に首を傾げた。……しかし、問い詰めても怖がらせるだけに終わりそうなのは明らかだ。わざわざこんな時に聞かなくてもいいだろ、とシグルドは判断した。
 疑問を抱きながらも、彼はとりあえずその話題を有耶無耶のまま打ち切る。

「試験そのものはいつからだったかな?」
「あ……二週間とちょっとです」
「やっぱり一年同士の実戦形式なのか?」
「いえ。今年は指定の教官と、という事だそうですけど……」
「試験結果は例年通り即日発表なの?」
「何もなければ、そうなるそうです」

 なるほどなと呟いて、シグルドは彼女の表情を窺う。
 説明する彼女の声は先細りで、彼にも隠しされた不安がありありと見てとれるのが分かった。少なくとも彼女は至極真面目に試験のことを考えているのだろう。……いきなり知らない人間とBF授業をする事になった不安かもしれない、という事もあるがあまり考えたくない。
 殺風景な建物の中に二人揃って足を踏み入れると、簡素な廊下を進んでいく。どこからともつかない人と人とのわずかな話し声と、足音だけが風の代わりに聞こえていた。
 同じような扉がいくつも立ち並ぶ中、シグルドとティエは一つの扉の前で立ち止まる。軽くノックをすると、改めて扉に向き直った。

「さて……こんなところでいいか」

 同意を得るように彼が視線を流すと、ティエは首をこっくりと上下させる。
 それを確認してから彼は扉脇のプレートを引っくり返し、すぐ下にある小さなホワイトボードに文字を書き込んでいった。2年シグルド=アーウィン、1年ティエ=ハイエル。15:10〜。
 書き込むのが終わると扉を開き、ティエから先に部屋の中へと入っていく。部屋に引っ込む前に少しだけ顔を外に出して、シグルドは誰もいない事を確認すると、そのまま鍵を閉めた。

「すぐ近くが空いてて、良かったですね」
「トールのこともあるから案外混んでるかと思ったけど、タイミングかな多分。ま、良かった良かった」

 部屋の中はある程度開けたスペースに、数人が乗れそうな大きなベッドが一つ鎮座している。色づいた壁が窓からの光を反射して、ほんのりピンク色に部屋を照らしていた。
 養成学校では基本的に私室でのBF行為は禁止されている。主に行為の後始末など様々な問題のためであるが、BF自体はある程度自由にできる場所がなくてはならない。
 二号館はそのために用意された生徒対生徒、1生徒対教師といった個人的なBFの用途に使用される専門の建物である。部屋を使用する際に使用を示すプレートを引っくり返すことと使用者、入室時間を明記しさえすれば、誰でも自由に使用することができる。部屋にはベッドと小さなシャワー室が標準で備え付けられていた。
 言うまでもなく防音である。

「ふう、と」

 一息ついて、シグルドはベッドの端に腰を下ろす。柔らかすぎず硬すぎず、最適なベッドが彼の体を押し返して上下に揺らし、受け止めた。
 ティエはといえば、彼が座っても、両手を下で組んで所在なさげに突っ立っているだけだった。彼が手でちょんちょんと促すようにベッドを軽く叩くと、両膝から正座するような形でようやくベッドの上に身を乗せる。無論、シグルドと体二個分ほど距離を離して。

「……緊張してる?」
「ぁっ、いえ、はい、いえ……」

 暫くの間、わたわたとおぼつかない言葉を彼女は繰り返していたが、やがて恥ずかしそうに赤面すると『……はい』と小さく答えた。背中に見える青いリボンもどこか申し訳なさそうだった。
 背中に湧き上がる痛痒感のようなものを感じながら、シグルドは思った。こりゃあ、強敵だなと。
(……もし狙ってやってるなら、ハンターとしても強敵なんだろうが)

「本番のためにやる事なんだ、そう緊張しなくていいさ。な?」
「は、はい。ありがとうございます」

 とはいえ、シグルドは多少ながらそれに安堵してもいた。彼自身もまた、普段のBF以上に緊張と不安を抱えていたのだ。あまりといえばあまりに一杯一杯な彼女を見ていると自然、肩の力が抜けている……それを考えると感謝してもいいくらいだった。

「さて、1対1戦だったか、な……まあ勝敗ははっきり関係ないとして、何か特別困ってる事とかあるかな?」
「特別というほどでは……ただ」

 そこで言葉を一旦切って、ティエはあまり良くない思い出を手繰り寄せるように目を伏せると、右手を抱え込むように胸に当てた。

「私、実戦形式の成績が総じて良くないんです。このままだと試験を通れるか、心配で……」

 そう話すティエはいかにも深刻そうで、心の底からの不安をにじませていた。
 その様子を見てシグルドは、この後輩に対してどうするかをしばらく考えていたが、特に心理専門家でも経験深いハンターでもない彼にはそう簡単に名案が思いつくはずもない。
(まあ、問題があったとしても自分では分かり難いだろうし、実際に試す方が早いか)
 結局、そう結論づけた。

「なら、まずは試してみようか。ちょっと待って」

 ティエを手で制してからベッドの中央に移動すると、シグルドは両手でズボンを下げ、部屋の隅に放り投げる。そのまま躊躇せずに下着も引っ下げた。
 年の頃にしてはやや大柄な、その体に見合うだけの筋肉質な下半身が露になると、ティエは僅かに顔を引いたが、すぐに興味を露にすると彼の体を覗き込んできた。両脚の間にある卑肉の塊は、未だ申し訳なさそうに頭を垂れている。

「どういう方法でもいいから、とりあえずやってみてくれるかな」
「あ……はい」

 さらに邪魔になりそうな上着だけを投げ捨てると、両腕を後ろに回しほとんどの体重を預けて、ティエを待ち構えるように仰向けになる。

「途中から俺も攻めに回るから、油断しないように。準備はいいかな?」
「えっと……、分かりました。よろしくお願いします、先輩」

 律儀にお辞儀をしてから、膝でにじり寄るようにしてティエは柔らかなベッドの上を近付いていく。
 失礼します。そう小さく呟いてから、彼女は髪をかきあげ、膝立ちのような体勢から上半身を倒して、おずおずと未だ萎えたそれに向けて顔を近づける。緊張を解きほぐすように吐いた彼女の生温い息と、これから行われることへの期待で、シグルドのソレがひくりと反応した。

「んっ……」

 軽く触れるように薄いピンク色の唇で口付けると、ほんのりとモノが唇と同じ桜色に染まる。
 ティエは肘をベッドにうずめて、手のひらで包み込むように支えると、さらに柔らかい唇を何度も押しつけた。軽く触れるように、つつと滑らせるように、時に軽く吸い付くように。
「く……ん」
「ん、ふ……ちゅ、ちゅ、ん」
 段々と頭頂部への刺激が集まる、その様子に合わせるようにして徐々にシグルドの体から、熱と硬さを帯びながら卑猥な肉の塊が反り返ってゆく。
 その様子に気を良くしたのか、いっそう彼女の奉仕は丁寧に、かつ激しさを増していく。支える必要を失って空いた右手が、付け根に浮き上がった筋に爪を立てるようにしてくりくりと刺激する。
 小さな舌先が側面に押し付けられ、そのぬるりとした感触にさらに肉塔は燃え上がっていく。張り詰めたその先から、ぷつりと透明な粘液が漏れ出した。

「はふ、ん……これ、おっきくて、すごいです……」

 食い入るように見つめながら、熱に浮かされたようにティエは微笑する。ほんのり紅く染まった顔には多少の羞恥も見られたが、それ以上に淫らなことへの興奮が占められている。
 ちろちろと、蛇のように蠢く舌の隙間から流れる吐息は、ますますもって熱がこもりつつあった。
 左手の指先で尖塔からこぼれだした粘液を掬い取り、慎重に、丁寧に、側面を滑らせて擦り付ける。ただ薄い皮の擦れ合う音だけがしていた部屋に、気付けば粘液質の音が混ざりつつあった。

「んっ……じゅるるっ、ん、ちゅ、く……」

 さらに顔を横に向けて竿の側面に唇を当て、笛を吹くかのようにしゃぶり始める。ティエはひくひくと筋を浮き上がらせて震える怒張に目をやると、わざわざ音を立てて粘液を啜り、唾液を混ぜて送り込む。
 その間も間断なく添えられた両手は動き続け、生き物のようにうごめいて、聳え立ったそれを優しく指で叩いていく。中身を外に誘導していくかのように。
 あらゆる行為に歓喜するかのように淫らな塔は硬さを増して粘液を噴出し、その硬さと勢いを以って口淫を行う彼女の手と唇を僅かに押し返す。それがまた彼女の淫らな行為を加速させ、行為を一層激しいものへと誘っていた。

「んん、じゅずっ、んっ、ふちゅ……っ」
「……」

 が。興奮してやまない様子、はち切れんばかりに膨れ上がったその逸物と対照的に、シグルドの表情はまるで数理方程式にぶち当たったときに黙考を始めた学生のような、至極冷静なものであった。
(……何だろう。何か、こう……来ないな)
 下半身をぬるりとした快感が覆うように這い回り、意思を持って暴れるが如くいきり立ったそれは熱を醸す。が、それと比例して彼の違和感は大きくなっていく。否応なく興奮する体にのりきれず、自分の中にあるもう一人の冷静な自分が状況を見つめる様は冷ややかですらあった。

「んっ、んっ、じゅる、ちゅ……じゅるるっ……!」
(技巧は悪くないんだが……悠長すぎるというか、呼吸が合ってないというか何というか)

 優しく、時に激しく奉仕してくるティエの技巧は彼にとっても油断できるものではなかったが、その刺激は悪い意味でシグルドの予想を裏切るものだった。
 萎んでいたモノはすっかり屹立しているが、彼の持つその白濁の塊を、奥から吹き上げさせるほどのものではない。焦らしというには素直すぎて、お粗末にすぎる児戯のようなものだ。
 彼がそう考えることにも気付かず、ティエはもはや反り返るほどにまでなったその肉の塊を一心に見つめ続けながら、彼女なりの技巧を尽くしていた。

(ん? そういえば……)

 その様子を見て、シグルドの頭の奥で、かちりと何かが嵌まっていた。何かを感じていながらも、はっきりとした答えを出すことができなかった……その違和感の正体。対人の成績が悪いと言った、彼女の。
 恐らくは、そういう事のはず。そう仮定して、彼は後ろにもたれていた体をわずかに起こし、おもむろに口を開いた。

「ティエ……ちゃん?」
「んぐっ、じゅぽっ、ん……っ、……はい?」
「攻めるぞ」

 えっ? そうティエが漏らした、間が抜けたような声にシグルドは一切取り合うことはなかった。
 蛙が飛び跳ねるかのように素早く上半身を起こすと、一次的な放心状態に陥っている彼女に手を伸ばす。未だ完全武装状態の乳房を、服の上から揉むとも擦るともつかぬ微妙な加減で触れる。
「ひゃんっ」
 ぼうっとしていた彼女はその刺激に思わず身を引いてしまう。彼が両脚に力をこめて後ろに体を引くと、それを慌てて追いかけるように前に出て、両手でしっかりと掴みなおそうとする。
 思わず前のめりになったところを逃さず、シグルドは左手を彼女の胸元へ忍ばせる。

「んっ……ふ」
「ひゃ、あっ、んっ……」

 ティエが再び屈みこむより早く、彼によってその唇が塞がれた。閉じようとするより一瞬先に舌が滑り込み、歯の根元をなぞって舐りまわす。手が蛇のように服の間を掻き分けて、隠された滑らかな肌に辿り着く。
 恍惚で一瞬ピントがぼやけた彼女の視線をシグルドは見逃さず、躊躇せずにあっさり口を離して、素早く回り込むように足を跳ねさせた。
 流れるような一連の動作。危機を感じて動こうとしたティエだったが時既に遅く、シグルドの両手ががっちりと彼女の腰を押さえ込み、抵抗する彼女の下着に指を這わせた。

「ぁ、んっ……」

 優しい刺激を繰り返しながら、秘部を隠す淡い水色のソレを手際よく剥ぎ取り、下に引っ張り出す。身を捩じらせて抵抗するティエを見ながら、湿らせた指で直接擦りあげると、体が震えて抵抗が弱くなる。
 その様子を見ながら、シグルドはほとんど確信に近いものを得ていた。

(やっぱり……か)

 彼女のことを表す言葉は、彼の中にもそれなりにあった。それは妙に恥じらいがあるという事であったり、単純に責めっ気が足りないという事であったり。
 何より、相手のことを確認していない。彼女は性技が始まってから、一度たりともシグルドの事をろくに見ていないのだ。

「ひゃ、んっ、あ、だめっ……」

 なるほどこれでは成績が悪くても仕方ないかもしれない。敏感な部分を擦りあげられ、とろとろと蜜を零しつつある陰部に、ほとんど習慣で顔を押しつけながらシグルドは思った。
 性技を行う人間が千差万別であるように、その方法にも様々な形がある。丁寧なもの乱暴なもの、大人しく激しく、優しく強く。しかしその根底として、いずれもどこか相手を支配するという事と無関係ではいられない。
 BFの世界にも稀にマゾと呼ばれるそれを基本行動にする類の強者はいるが、誰もかれも責めを受けながらも行為そのものの主導権、主体が自分にある事を望む典型的エゴマゾである。

「あっ、あっ、ああぁんっ……!」

 彼女には相手が見えていない。相手をどうかしてしまおうとする気概がない。戦意もない。
 例え何かしら劣情が燃え上がったとしても、我慢しようと思えば多分いくらでも我慢できてしまうだろう。シグルドは素直にそう思った。

「ふ、や、こんな、あっ……せんぱ、やめっ……!」

 原因は大体分かった。とはいえどうしたものか、彼には簡単には思いつくことができなかった。そもそも自分自身にとっては無縁と言ってもいい問題である。
 そも相手が望むことを汲み取る力に欠けている彼女のそれは、奉仕としてもかなりお粗末だ。相手に意識をやる事を、ひいては責める……ということを教えなければならない。
(ならないが……)
 出来るだろうか?
 これからの事を考えると、急くような思いが喉の奥から競りあがってくるようで、彼は思わず舌打ちした。実際には出来ないので、無意識に目の前のぐっしょりと濡れそぼった秘裂を舌でかき回した。

「きゃふっ……ぁっ……ぁっ……」

 無理矢理持ち上げられるような格好になった尻から快感を叩き込まれて、すでに快感に悶えてふにゃふにゃになっていたティエが堪えるように目を瞑りながらびくんびくんと震えていたが、特に彼の目には留まらなかった。
 あいつなら果たしてどうするんだろうな、と似たようなことをやっているであろう自分の友人に思いを馳せる。或いは今頃教えるどころか完全に一緒になって楽しんでいるかもしれないが……。
 と同時に、教示する役とは思えないほど情けない自分自身を、中にいるもう一人の自分がせせら笑っていた。思わず手に力が入ってしまうほど。
(……俺がドツボに嵌っても仕方ないな。とにかく、やってみるしか――)

「ひゃ、んんんんっ……!」
「……ッ?! うおっ……!」

 そう考えていたシグルドは、不意に顔に浴びた粘液に意識を取り戻すことになった。目の前から飛び込んでくるそれが、思わず吸ってしまった息に混ざって喉にはりつく。
 思わず顔を顰めて、その場で押し流すように、吐き捨てるように二度、三度と唾液をベッドの脇に浴びせかけた。
 ……思考の波に攫われて、ほとんどが習慣に従って動いていた彼が自分の状況を理解したのは、自分のすぐ前で何ともいえない気だるさが混じった吐息と、弛緩した肉体をベッドに沈ませているティエを確認してからだった。

「あー」
「……先輩、ひどいです……」
「……ごめん」

 恨みがましい視線を向けるティエに、シグルドはとりあえず謝るしかなかった。

「すまん。つい、頭が他の事で手一杯になっててさ」
「それ、フォローになってません……」

 ひたすら謝るしかなかった。



 さすがの彼女もしばらくは拗ねたような表情を見せていたが、真剣に謝る彼の姿もあって、じきに表情は柔らかくなっていった。
 とはいえ、まだその顔色は暗いままだ。部屋に入ってきた時と同じように。抱えている問題も同じまま。

「それで、その……先輩」
「と……そうだな。とりあえず、君が懸念するところは良くわかった」

 ……気がする。そんな最後の言葉を息と一緒に無理矢理飲み込んで、シグルドは彼女に向き直る。本番もない行為だったが、既に彼女の肌には珠のような汗が浮かんで、崩した足元には染みが作られつつあった。
 極力自身の不安な先行きを悟られないように注意を払いながら、彼はゆっくりと話しをする。

「……ティエ……ちゃんって、アンナベル先生の講義で絡まれなかった?」
「そ、それは……そうです」

 どうして? 困惑したようにそう訊ねてくるティエに抱いたのは、やはりという感想だった。
 アンナベル。養成学校の中でも幅広い講義を担当する女性で、準エースクラスのハンターでもあった彼女が下級生で主に開いているのは、淫語にまつわる講義であった。とにかくガンガン突き進む性格で淫語を喋り、そして喋らせる。
 彼女が著した『使える淫語300選』はその筋では大変有名だ。本人が、淫魔から直接聞いたのも入ってて実用性抜群だ! と堂々と喋って厳重注意を喰らったという逸話もあった。かなり強引な性格でもあるので講義の内容を気に入らない者も多いが、概ね最後は知識の引き出しを得て何事もなく講義は終わる。
(そういえば、あいつもかなり毛嫌いしてたが……)
 果たしてシグルドの想像通り、好戦的でガチガチの実戦派であるアンナベルはティエの欠点が目についてたびたび絡んでいた。もっともそれは彼女なりの心配であるのだが。

「……とにかく、俺にできる限りのことはやらせてもらうから。今日はよろしく頼む」
「はい、どうかよろしくお願いします」

 ティエはそう言って深くお辞儀した。その様子は慎みに溢れていて好感が持てるものだったが、これからの事を考えるとシグルドは同時に一抹の不安を感じてしまう。

「と、それじゃ早速……」

 ともかく改めて始めよう、彼がそう思って一旦立ち上がろうとしたところで、何か言いたげにもごもごと動いている彼女の口に気付いた。

「どうかした?」
「えっと、その……先輩、言いにくそうですよね」
「え?」

 間の抜けたようなシグルドの声。彼女は乱れた着衣の上から胸に手をあてて、相変わらず控えめに、上目遣いで彼を見上げていた。

「私、呼び捨てでも構いませんから」

 あちゃあ、と参ったようにシグルドが頭を掻く。彼女はそれを見て、ほんの少しだけ可笑しそうに微笑んでいた。

「……正直言うと慣れなくて困ってたんだ。そう言ってもらえると助かるかな」
「どうぞ。何なら、もっと砕いてくださっても」
「それは、さすがにやめておくよ」

 苦笑しながらそう言って、シグルドは恥ずかしさを誤魔化すように一層頭を掻いた。いずれ言葉遣いも勉強しなきゃならないな、と思いつつ。
 しばらくの間そうした後、仕切りなおすかのように右手で自分の腿を叩く。ぱーんといい音がして、シグルドにはっきりとした意識と、ティエの注意を惹き付けた。

「さて……ティエ、改めて始めよう。準備はいいか?」
「はい」
「それじゃ、まずはな……」

 お互いにそれぞれの不安を抱えながらも、二人の個人授業は進んでいく。部屋の上側、窓から入る午後の光が二人の様子を照らしていた。



「はっ、ふぅっ、はぁっ……」

 くたりと、全身の力を失ってしまったかのように仰向けで不規則に息を繰り返すのはティエだった。服は既に脱がされて、あちこちにゼラチン質のそれがへばりついているのが見受けられる。彼女を柔軟に押し返しているベッドの上は、さらに最初の頃とは比べ物にならなかったが。

「ふーっ……、っぷぅ」

 疲労が見える彼女と違って、ベッドの上に座り込むシグルドは、未だ天井におったてているその杭と同様に余力を余しているようだった。一定の深さで、自身を落ち着けるかのように深呼吸を繰り返す。
 第三者が見たらなんともいえない光景だな、と彼は思った。同時にそんな事を考えた自分を殴りたくもなったが。
「大丈夫かな? ティエ」
「は、はぃ……」
 休憩を時折挟んではいたものの、さすがにその顔には疲れが隠せなくなっていた。とにかくこの辺りで休憩にしよう、そう思ってシグルドは窓の外でも眺めようと視線を上にやる。
 差していた日は彼の気付かないうちにすっかり弱まり、空は茜色を通り越して、夕暮れの闇が押し寄せようとしていた。

「……暗い?」

 本当に今気がついたというように、シグルドは周りを見渡す。すでに部屋の中はぼんやりと薄闇が端の方から押し寄せようとしているところだった。視線をずらして、時計を見つめる。短針と長針はどちらも真下を通り過ぎていた。
 シグルドの額にひやりとした汗が流れる。どんだけ時間を忘れてたんだ、俺は?

「もうこんな時間だったのか……!」
「え、と……六時四十分、ですね」

 反応するようにのろのろと起き上がり、イった直後の特有の気だるげさがこもった声で、彼女が情報を読み上げる。

「悪い、付き合わせすぎてるね」
「そんな……付き合ってもらってるのは、私のほうです。それに、まだやれますし」
「けど、もうお腹も空いてるだろう」
「そんなこと――」

 ありません。そう言おうとした彼女の言葉は、他でもない自身の腹部から聞こえてきた催促で中断させられた。
 赤面して俯く彼女に、シグルドから思わず押し殺した笑い声が漏れる。ますます恐縮するティエは、そんな事はないのに体が縮んでしまっているようだった。
 しかし、笑ってばかりはいられない。

「とにかく夜になってしまうし、これ以上続けるわけにはいかないな。……」

 しかし……である。恥ずかしそうに俯く彼女を見下ろしながら、シグルドは思案していた。
 ……色々なことはやった。それこそ彼は知識の引き出しを漁って、何が合っているのかを考えながら着せ替えのように様々な行為に及んだのだ。自分から手本を見せるように出来るだけ丁寧に責めてみた事もある。技術を駆使して情欲にこれでもかというほど火をつけた後、求め合う事を狙ってみた事も。或いはに責める事、相手への意識をよりストレートに求めてみた事もあった(怯えられた)。

「えと、先輩」
「……ん」

 結果はといえば、彼が時間を忘れるほどのものである。推して知るべしだ。
 最後まで相手に対して決定的なところに踏み込めないその姿勢は変わらないまま。こうなると指導とかそれ以前に俺の魅力とかそういうものが足りないせいじゃないのか? とシグルドが心の中で切なくなる場面すらあった。

「今日はありがとうございました。……私に足りないもの、少しは分かった気がします。頑張ってみますから」

 決してティエが不真面目だったわけではないのは疲労を見ても明らかで、それだけにシグルドは心苦しかった。この部屋に入ってきた時と何も変化していない不安を隠す健気さにも、気遣わせている自分の不甲斐なさにも。
 このまま別れれば、彼女はそれを引きずったまま試験に臨むことになるのだろう。それを見過ごすことが出来るのだろうか?

「……こんな時間まで引っ張ったお詫びってわけじゃないけど、提案があるんだ」
「はい……?」

 断じて否である。少なくとも彼は、そう思った。

「試験は二週間後だったかな。それまで時間があれば、俺に付き合わせてもらえないか」

 え、とティエから思わず困惑の表情と共に、喉の奥からの声が漏れる。

「もちろん、無理にとは言わないけど」
「そんなこと……でも、大丈夫なんですか?」

 眉根を寄せて見上げる彼女の視線を受けて、部屋に置いてきた課題が、ちらりとシグルドの脳裏の片隅を掠めた。他の講義の課題も出るだろうし、この時期はそれなりに忙しい。
 ……とはいえ、それで引っ込める事も彼には考えられなかった。忙しくても時間は作るものだ、そう頭の片隅を圧縮させて言葉を続ける。

「上手くできなくてこっちが申し訳ないぐらいなんだ。乗りかかった船でもあるし、手伝わせてもらえないかな」

 その提案に、ティエは視線をうろうろさせて受けかねていた様子だった。乗り気でないわけでなく、むしろ心配は逆の方向にあるようで、彼を様子を窺うようにしてちらちらと視線を動かす。
 多少の居心地の悪さを感じながらも動揺を表に出さずに構えるシグルドが、凄いお節介を焼いてるな……と今更ながら羞恥を感じ始めた頃、彼女はようやく口を開いた。

「先輩がよければ……お願いします」
「もちろん!」

 空気に耐えかねていたシグルドから出た声は予想外に大きくなってしまい、丸い目をして驚くティエを見て、また別の恥ずかしさが彼を襲った。
 誤魔化すように頬を掻く彼に、彼女はくすくすと笑って、無自覚に張っていた肩を下ろした。

「……本当は、少し不安だったんです。どうすればいいのか、何を頼ればいいかも……よくわからなくて」

 そうやって不安を吐露する彼女の表情は、少なくとも日が明るかった頃よりは柔らかくなっていただろう。

「また、一段と気が楽になりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」

 頼れるかどうかは分からないけどな――気が付けばそう茶化しそうになる自分を、シグルドはとりあえず飲み込んでおいた。上級生の格好をつけるのも、そう楽ではないらしい。
 心の内で苦笑しながら、シグルドは外へ足を投げ出し、勢いよく立ち上がった。

「……さて、話も済んだところでちゃっちゃと片付けようか。遅くなるとまずい、あとの話は歩きながらにしよう」
「あ、はい」

 まだ疲れの残る体は、透明感のある粘液がてらてらとぬめって、僅かな光を照り返していた。。それを揺すってティエがベッドの外に降り立つと、シグルドは重ねられたシーツに手をかけて、手早くそれらを捲っていく。

「先にシャワーは使っていいよ。片付けは済ませておくから、どうぞ」
「え、でも……私が」
「俺も後で入るんだから、早く早く。入ってきな」

 彼が急かすようにシャワー室を指差すと、一瞬躊躇いながらも『それではお先に』と彼女は分厚い木製の扉をくぐっていった。
 あちこちに愛液やらが染み込み、すっかり荒れ模様のシーツを力技で引っ張って両腕で抱え込んでから、シグルドは盛大にため息をつく。もう一度視線を上に上げれば、先程よりも確実に夜が迫りつつある。
 目をしばたかせながら、なんとも俺も考え無しだな、とシグルドは思った。慣れないことをするのも大変だとずっと思っていたはずなのに。或いは、彼女も案外試験では無難にこなすのだろうか。ひょっとしたら自分は余計なことをしたのだろうか、そんな考えも心に薄くまとわりついている。ここにはいない友人の姿が頭に浮かんだ。
 思うようにいかない自分の心に苛立ちながら、丸め込んだシーツを部屋の隅の排出口に投げ込んだ。これじゃ人の戦意がないとかどうとか言えやしない。

「全く……落ち着けよ、俺」

 彼女の不安は本物だ。それを放っておくことはできそうもなかった。
 それなら、それを解消するのを手伝ってやるのに何の問題があろうか、いやない。

「……よし」

 自分の体の中の空気を入れ換えるように、右の拳と左の掌をぶつけて息を吐く。
 時限は二週間と少し。できるだけ早く済めばいいが、とにかくまずは内容と、訓練するための時間を決めなくてはならない。
 シグルドが記憶を総動員させて頭の中の予定表を組み替える作業は、ティエが扉の影から頭だけを自己主張させて呼びかけるまで続いていた。





 かくして、なんとも押し付けがましい友人の一声をきっかけにして、一組の男女は実技試験に向けて何度も訓練を繰り返すことになる。
 時には彼女の情欲に火をつけてみようとさんざんに煽ってみせたり。

「熱いかな?」
「えーと……その、ちょっと」
「じゃあ、もっといってみようか。ティエに動いてもらうのはその後かな……ん。じゅる、ちゅ、ん、はむっ……」
「ひ、ぁ、ああぁっ……気持ちよくて、だめ、だめっ!」

 時にはオーソドックスにお互いの性器を責め合ってみたり。

「ん、ん、むぶ、えれろんっ、んんんっ……」
「ひ、あ、ん、ちゅうう、れろ……っ」
「……(だめだ……このままだとイけん)」

 時には多少アブノーマルに。

「ひぅっ、あぁああっ、あっ、ちから、はいらな……」
「……やりすぎたかな。こういう風にお尻を弄られると、しばらく力が入りにくいから無理しない」
「は、はふぃ……」
「相手が淫魔なら力技で抜けちゃっても大丈夫だけど、人間相手は機を見てね。下手すると筋を傷付けるから」

 時には予備知識を仕入れて、別の方法からアプローチを仕掛けてみたり。

「あ、あの……先輩、本当に大丈夫なんですか……?」
「まあ、そのためにわざわざこんな格好してるわけだし……自分で加減しながら、やってみて」
「は……はいっ。それでは……!」

 ばちこーん!

「いってぇええ?!」
「ご……ごめんなさい、ごめんなさい……! 思ったより良くしなって……あっ、ごめんなさ、血がっ……! あ、あぁぁ……っ!」
「お、落ち着いて。そこまで痛くないから、落ち着いて……落ち着いて……」

 冷や汗を流してまで痛みを堪えたりと、なかなかの忍耐強さを発揮することになったシグルドであったが、残念ながら彼が鍛えられたところで意味がない。
 様々な角度で攻め入りながらも、二人の向かう先はいつでも行き詰っていて、解決の兆しは見えなかった。





 こじんまりとした寮の一室、その空間。面倒だと思いながらもその重石を捨てられない、そんな事の始まりとなったその場所で、やはりその日と同じように、青い髪の持ち主は唸っていた。
 ――以前より遥かに不機嫌で、より眉間に皺を寄せてはいたが。
 掻き毟るかのように時々右手でその青い髪を弄り、悩まされる頭から絞り出されるような声は、時間が経つごとに徐々に声が低く、大きくなっていく。本人を見なければ、野犬の唸り声か何かと勘違いしてしまいそうになるのは、そう遠くない出来事だろう。
 シグルドは、悩んでいた。

「ぬう……」

 『訓練』と称された実技試験への備えは、すでに初めての日から一週間と三日を経過していた。残りは一週間もない。
 当初は訓練の日は二人で予定を合わせて、まあ合う日にでも……と考えていた彼だったが、ティエはその控えめな性格ゆえに決まった予定があまり埋まっていないのか、それとも彼の予想以上に試験が不安だったのか、思った以上の……というよりほとんどの日が空いていると伝えてきた。
 半ばそれに付き合うような形で、シグルドもかなり強引に予定を空けて訓練に臨んでいる。課題などというものは内職全開である。とある教官に見つかってしまい、かなり嗜虐的かつ性的な意味で搾られた事もあるが、ほとんど堪えなかったので教官の方がやがて諦めたような次第であった。

「どうするか……」

 それでいてなお、シグルドの悩みは軽くなる事を知らず、むしろ日に日に肥大していくばかりであった。想像するより遥かに根が深いのか、それとも二人の相性が悪いのか。お互いを知る部分は増えていっても、問題は一向に解決しない。そして刻一刻と近付いていく期限。
 脳裏を掠めていくのは、柔い日差しの中でほんのりと微笑する後輩の顔。焦りを見せないように心がけてはいるものの、彼女の、その心からでない笑顔は悟られているも同然だった。元より彼はそういう芸が得意ではない。コトの最中ならともかく、付き合いが多くなれば細かなところで見破られてしまうのは当然といえた。
 その表情が、慰められているようで、シグルドにはたまらなく悔しく、情けなかった。もっとも、それが一層彼女のそれを掻きたてるのだが。

「……いっそもうちょっと深い部分のSMとか……いやちげーよ、そうじゃねーよ俺?!」

 前例があるようなものでもなく、考えても名案などというものがそうそう浮かんでくるはずもなく。彼の苦悩は終わりそうにもない。
 いいかげん煙でも見えてきそうなほど彼の頭が焦げ付き始めたところで、唸り声が響く部屋の中に、勢いよく扉が開く音と共に唐突に乱入者が現れた。

「ただいまー!」
「……」

 乱入者というよりは帰還者だったが、部屋の中にいるたった一人の人間からすれば闖入者も同然だった。顔を伏せたまま睨むシグルドはそれはそれは飢えた野犬が外敵兼獲物を見つけたかのように凄みがあるものだった。

「あれ、どうかしたの?」

 もっとも、相手が相手だけにそこまで意味はなかったが。きょとん、とした平穏そのものな顔で応対されて、毒気を抜かれた彼はため息をつかざるを得なかった。

「……はぁ。何でもねえよ」
「うん? そう。あーそうだ、今度の水曜日、ハンター協会への訪問あるよね。シグルド、何持ってく?」
「あ゛ぁ? ……ああ、それか」

 まるで今気付いたかのように、シグルドは気のない返事をする。実際、まるで考えの内に入れていなかったのだが。

「それパスするわ」
「えぇー?!」

 即答である。
 素っ気無く言ったシグルドに、トールは驚きを隠せない様子で目を見開いた。まるで信じられないものを見たような表情をされ、まったくもって失礼なヤツだ、とシグルドは思う。

「本気で言ってるの? 確かに参加は自由だけど、ほとんど全員参加みたいなもんじゃん!」
「そうだな……」
「第一、シグルドだって楽しみにしてなかった? 何かあったの?」

 どちらも事実だった。
 自由参加を謳ってはいるものの、その重要視のされ方は尋常ではないし、やはり本物の組織を間近に見れるという事でシグルドも楽しみにしてはいた。
 ……つい一週間と少しほど前までは。

「……『かわいいかわいい』後輩のことがあるんだよ」
「え?」

 あまりにも大げさに驚くトールに内心苛立ちつつあったシグルドは、皮肉を込めてそう告げる。
 もっともそれには、やはり気付かなかった様子だったが。

「ひょっとして、まだ訓練を続けてたの?」

 一瞬遅れて理解したようで、トールは明らかに不可解だという表情を滲ませていた。
 そんな様子のトールに、シグルドの内心の苛々は本人にとっても理解できないほど、湧き上がるように募っていった。或いは、その言葉は常日頃からシグルドが自分自身に問いかけていたものだったかもしれない。

「……放っとけないだろーがよ」
「そんなに手こずってるの?」
「いや、手こずるっていうか……」

 訊ねられて、シグルドは言葉に詰まった。少なからず自責の念にかられているだけに、ティエの方に問題があるかのような言い草は躊躇われたのである。
 しばらくの間、何かを言いかけてはやめるように口をもごもごとさせていたが、結局嘆くように首を振って、ぼそりと呟いた。

「あの子、どうやってここの試験を実際に通ったんだよ……」
「あー……ほら、二、三年前に大々的な交戦があったじゃん。玄関広げてるんじゃないかな……最低ラインで技術と筆記とか」
「ぐぐ……」

 顔も覚えていない試験官に向かって、得体の知れない怒りを募らせる。尤もそうでなければティエそのものに出会えていなかったのはシグルド自身分かっていることで、その感情は理不尽なものでしかないのだが……。
 歯をぎりぎりと噛み締めて表情を険しくする彼に、さすがにトールも心配になったのか口を少し尖らせるようにして声をかける……が。

「……付き合いがいいのは構わないけど、ほどほどにしたら? はまりすぎて自分の事を見失うのは良くないよ」

 ぶちっ。
 何かゴムのような、紐のような、得体の知れないものが切れるような音がした……気がした。それは確かに幻聴のようなものだったが、なかったといえるようなものでもなかった。
 怪訝な顔をするトールの目の前で体格のいい体が、ぎしりという椅子の軋みと共に、幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。振り返った彼の目は、その奥に光を窺い知ることができなかった。

「え? ちょっと、え? 何? シグルド? え?」

 一歩、一歩と近付いていくシグルドが顔を上げると、その面にはぎらぎらとした瞳と壮絶な笑みを浮かべていた。蛇に睨まれた蛙のように、トールは顔を引き攣らせて後退する。
 どん、と肩が壁にぶつかった。
 吊り上げていた口の端を一瞬で素面に戻し、シグルドは両腕を伸ばして――

「元はお前が持ってきたことだろうが、人事みたいに言ってんじゃねええええぇぇぇぇッ!!」
「いだっ、ちょっとやめ、やめっやめっやめようよ!」

 ほとんど無理矢理引っつかむようにして、シグルドの腕がトールをとらえる。本来避けられぬでもない動きであっただろうが、今のトールには無理な話だった。

「あっ、ちょっ、やめっ、拡がる拡がるやばいって! 拡張るうううぅぅぅっ!」

 何かを引っつかんで叩きつける音と、連続したもみ合うような激しい音、そして布を引き裂くような悲鳴が響き渡った。



 悲鳴が止み、次いで部屋を貫通するような激しい音も鳴り止むと、全てが終わった部屋では金髪の男が横たわっていた。
 体を抱くようにして倒れているトールは心なしか涙目になっているようで、その様子を見てシグルドはとりあえずの溜飲を下げた。ざまあ。

「うう……もうお婿にいけない……」

 はン、と鼻で笑うと、シグルドは足元に横たわる枯れはてた朽木のような生き物を見下ろし、両手を乾いた音をたてて打ち払った。心なしか、その顔は先程に比べて余計なものが削げ落ちたようにすっきりとしている。
 満足したように頷くと、立ち上がった時に放り出していた椅子に、一際大きな軋む音と共に勢いよく腰を下ろした。

「あー、すっきりした」
「……ひどいなぁ」

 床のそれを尻目に、シグルドは肘を立てて一息つく。思う存分に鬱憤を晴らしたせいか、熱して凝り固まっていた思考は急速に風が吹き込みはじめ、本来の柔軟な思考を取り戻し始めていた。

「……そうだ、資料とかないのかよ。あの子の映像記録」
「記録?」
「いくら苦手だからって、避けて通れない公開の実戦形式もあるだろ。学年の交流戦もそうだし」

 シグルドはよくよく考えると、そも普段の彼女というものをほとんど知らないことに気が付いた。友人の評価と、付き合っている訓練の中での事ぐらいなのだ。
 むろん単純に参考資料としても欲しかったが、それ以前にティエのシグルドに対する遠慮は上級生に対するものも多分に含まれていて、ひょっとすると普段の彼女はもう少し違う様相なのだろうかという疑問を持ったのである。
 ……ほとんど希望に近かったが。

「お前、一年にも知り合い結構いるんだろ? 一人ぐらいはいないのかよ、個人的に撮ってるやつ」
「そう言われても、普通そんなもの記録として撮ったりしないよ。それに……」
「それに?」
「……何でもない」

 一瞬言葉が詰まると同時に作られたトールの困り顔が、次にはバツの悪そうな顔に摩り替わっていた。誤魔化すように頭を掻くが、その挙動だけでシグルドにはトールが何を言おうとしたのか分かった。
 分かってしまった。
(……記録するほどの試合にはならない、か)
 他人の試合を個人的に記録しようとすることがそもそも稀なのだ。その理由となるといえば、よっぽどの好カードか、一芸に特化した奴が参考目的に撮られるか、知り合いと話の種にするか……。
 いずれにしても件の彼女がその的になる事はないだろう。

「ちっ……そーかいそーかい、分かったよ」

 舌打ちすると、シグルドは肘をついたまま何気なく視線をうつした。鉄製の扉の上にかけられた時計は、こちこちと無表情に動き続けている……十一時過ぎ。
 実にもっともな理由で納得もしたが、頭の奥を引っ掻くようなむずがゆい不快感は止めようがない。記憶の中のティエが、不安を隠して、だからこそ余計に脆くみえる彼女の姿が視界に重なって、シグルドの中で複雑にいくつもの感情が入り混じって吹き荒れていた。
 ……なるほど友人の言う通り、入れ込みすぎているのかもしれないなと、とうに手を離したシグルドの冷静な思考は確かに感じていた。

「……正直やりたくなかった気がするが、こうなりゃ俺も奥の手だ」
「奥の手って?」

 横たわってはいるものの、いつの間にか既にけろりとした様子のトールに訊ねられると、シグルドは僅かに苦い表情を見せた。彼にとっても避けたかったことなのである。
 或いは今まで比較的思いつきやすい映像記録というものに手をつけなかったのは、無意識にこういう展開になる事を避けていたからかもしれない。

「映像記録には、アテがあるんだ。正確にはツテかな、まあ正直どうかと思わなくもないけどな……」

 扉を睨むようにして立ち上がった彼の口が動くたびに、どんどんその勢いが小さくなっていくようだった……。





 その十分後、とある扉が叩かれた。
 歳月に悩まされるようにあちこちに傷やへこみが見られたが、あちこちが磨かれていてまだ鈍い光を返しており、過ごしてきたそれを考えればかなりまともな部類である。少なくとも周囲にある扉に比べれば。それなりの頻度で手入れをされているのだろう。

「はいはーい」

 その扉を叩いて程なく、様子を窺うようにゆっくりと扉が開かれた。
 隙間から覗くのは眼鏡をかけた、理知的な雰囲気漂わせる男――青年だった。

「……ええっと、どちら様で?」

 彼は一瞬シグルドを確認して目を丸くするが、すぐに客に向かって応対する態度に戻っていた。
 シグルドは「失礼」と前置きして、自らの用件を伝える。

「二年のシグルドだ。多分こちらにいると思うんだが、いたら一年のリディアを呼んでもらいたいんだが」
「リディアさんを……? ああ、なるほど! 分かりました」

 訝しげな顔をする青年だったが、しばらく眉を顰めていたかと思うと急に納得したように大きく頷き、後ろ手で扉を閉めながら部屋の中へ戻っていった。
 急に表情と態度が変わるその様子に、なんとなく置いてけぼりにされてしまって不思議に思うシグルドだったが、まあ昼時だしそんなものかもしれないな、と自分の中で完結させる。
 何がそんなものかは知らないが。
 まあとりあえず待ってる間に財布の確認でもしておこうとシグルドが懐に手を伸ばした時、それを許さず、勢いよく目の前の扉が開かれていた。思わず面食らうシグルドの目の前で、目的の人物はどこか顔をほころばせていた。

「お兄様、呼びましたか?」

 古いながらも丁寧に扱われる、その扉の横に白いプレートが貼り付けてある。本来所有者を示す名前の代わりに、そこには縦書きの丁寧な字で、その扉の中が何に使われているのかを示す言葉が書かれていた。
 映像研究部と。




 
 陽光を反射して煌くような光を見せる長い金髪。整った顔立ちは歳の頃の割に可愛らしさというより美しさに傾倒していて、窓から差し込む光が彼女を照らしている様は、讃歌しているかのようだった。
 ……惜しむらくは彼女がもう少しゆとりを持っている様子だったならば、もっと映えていたのかもしれない。

「……なぁあ? リディア」
「何ですか、『シグルドさん』」

 明らかな棘のある声。とげとげである。半眼で睨みつけるかのような彼女の表情は、目の前の人間に対して頑なな拒絶の意思を五割増しで伝えている。
 加えてこの呼び方。
 シグルドが彼女と少し話をして、近くの学食で二人で何か食べようと誘ってみたら――これである。ため息をついて、目の前で強い強い拒否を見せる彼女をどうしたものかと、シグルドは所在なさげにフォークで皿の縁をつついた。

「お前、それはないだろ……機嫌直そうぜ? 飯もまずくなるし」
「知りませんわ。今の私はお兄様の妹ではなく、映像研究部一年のリディアですから」

 取り付く島もない、ひどい有様である。人の心が目に見える形であらわれるなら、今の彼女の頭からはさぞ噴火寸前の溶岩の塊がうねっているのだろう。その服装も相俟って、シグルドには錠が掛かっているように見えたが。
 背後全体を覆うような白い外套、さらにロングブーツ。彼女が肌をさらしているのは手首から先と首の上ぐらいのもので、およそBFを志すものとしては驚くほど色気がない格好だった。
 その様子はどちらかといえば、戦場で颯爽と現れる戦乙女か、さもなければ指揮を執る姫騎士といった方がしっくりくるだろう。
 しかし彼女は日常のほとんどがこの格好である。この時期だけでなく、夏も生地が全体的に薄くなるだけで全く代わり映えしない。その様子は他者を簡単に寄せ付けないという意思を現しているかのようだった。

「……その辺については後で、まあじっくり話すとしてだ。用件についてはどうなんだ?」
「どうもこうもありませんわ。知らないわけではないでしょう? ……映像部の記録は一般生徒に公開できないのが暗黙の了解だと」

 シグルドのアテは、これだった。
 養成学校には気晴らしとコミュニケーションを兼ねて同好活動が結構認められており、映像部もそのうちの一つである。別段その範囲はBFに留まらないのだが、やはり題材としては多く、各学年に散らばる部員によって大半の記録が保管されている。……大抵の人が興味ないような試合であっても。

「けど、決まりごとじゃないよな」
「……それはそうですが」

 かなり無理のある相談である事をシグルドは承知しているし、そのうえ相手は機嫌が悪い、とはいえ今から機嫌を取りにいっては遅い。形勢不利である。
 しかし今さら簡単に引き下がるようなこともできなかった。

「だいたい、同じ学校の人間に見せて問題が起こるわけがねえんだ。色々面倒だから推奨してないってだけなんだろ?」
「シグルドさん。言うまでもないと思いますけれど、例外を認めるわけにはいきませんの」

 食い下がるシグルドに、言い聞かせるように説明するリディア。言葉だけを捉えれば優美に受け流しているように聞こえなくもなかったが、半眼でシグルドを睨みつける様を見ればそれとはかけ離れているのは明らかだった。

「そこを何とか、って頼んでるんだろ。別に夜のお供に使うわけでもなし」
「当たり前ですわ。……とにかく、どんな屁理屈を捏ねようが、部の資産は渡せませんわ」
「そこを何とか!」
「駄目」
「もう一声!」
「しつこいですわ! 大体……」

 ぽんぽんと積むように言葉を並べ立てるシグルドに、とうとうリディアの語気も強まった。目つきがいっそう鋭くなり、彼女も気付かないうちに、木製のテーブルに服が触れそうなくらいに体が前に寄る。

「大体なんです、それで! それで、私が記録を取ってくればいいと、そう仰るのですか!」

 彼女の右手に収まっていたフォークが、くるくると手の中で回った後、テーブルの上に乗っていた肉の塊にぐしゃりと刺さった。ジューシーな肉汁が勢いよく噴出してテーブルを汚したが、特に気を払う素振りも見せない。

「たった一週間と少し付き合っただけの後輩のために、お兄様は私の立場が悪くなっても構わないと?!」

 憎々しげに右手を動かすその動作は、意識的かそうでないかもわからない彼女の意思を伝えて、中身を掻き回すかのようにフォークが肉の塊を抉り、そのたびにぐじゅぐじゅと肉汁が、血のように噴き出していた。周りの人間には少なくともそう錯覚するぐらい、彼女の様子は鬼気迫っていた。
 呼称は戻り、語気が強くなって感情は荒れ、視界はどんどん狭くなっていく様子を見ながら、シグルドはどう反応したものかと考えていた。それなりに圧倒されてはいるが平静を保てているのは、ひとえに彼が兄だからである。
 眉をつりあげて彼女が怒ったと思えば次には俯き、ああそうですかと嘆くように大げさに首を振って感情を現す。

「あーあーなんて薄情なお兄様! 愛しい愛しい妹より、ちょっと知り合っただけの後輩の方が大事だと仰る! そもそも私だって同じように試験だというのにかわいい妹の心配の一つもせずに他人の心配事で私を呼び出しますかそうですかお兄様は妹を何だと思っていらっしゃるの?!」
「いや、お前さっき自分で今は妹じゃないって言ったよな……?」

 激しさを増す彼女に耐え切れず、思わず突っ込んでしまったシグルドが慌てて自分の口を塞いだが、時既に遅かった。
 憎々しげに肉を抉るフォークも、金髪を振り乱すような頭の動きも、何もかも一瞬動作が停止する。リディアは俯いていた顔をあげていく。徐々に、徐々に、徐々に。


「お兄様……?」


 喉の奥から搾り上げるような声が、一字一句を不自然なほどはっきりと読み上げていく。例えるならそれは谷底深くの地獄からエコーを伴って響いてくる怨念のような声。シグルドは、背筋が凍りついていく感覚を味わうことになった。
 リディアの右手を離れたフォークが皿に横たわって、耳障りな金属音が小さく響く。

「……踏み潰しますわよ?」

 下半身にどこか冷たい感触を受けてシグルドが見下ろしてみれば、彼女のブーツがテーブル越しに伸びてきた足に従って下半身に押し当てられていた。革製のそれが、なぜか妙に無機質な切っ先のように錯覚させられる。
 顔を上げたリディアの表情は、それはそれは美しい笑顔だった。模範的な笑顔といって差し支えあるまい。ただその笑顔は、シグルドにとって今の状況では抜き身の刃と同義に見えた。
 えも言えぬ威圧感に冷や汗を流すシグルドの生命線。それを握り潰すように、ゆっくりゆっくりとブーツの爪先が落ちてくる――

「リディア」
「……冗談ですわ」

 下半身に当てられた彼女という刃の切っ先が離れていくと、次の瞬間には押し潰すような威圧感は消えていた。笑顔はすぐに素面に戻って、彼女は小さくため息をつく。まるで何もなかったかのように、ぴいぴいという小鳥の鳴き声と共に安穏とした空気が流れる。
 リディアは横たわっていたフォークを持ち直そうとするが、その首はひん曲がっていた。脇に除けて、二本目のフォークを右手に収める。
(まったく、肝が冷えた……冗談だったんだろうが、怒ってるのは本当だな)
 安堵のため息をつく。危機から逃れた反動か、ぼんやりとした思考でシグルドは髪を整える妹の姿を眺めていた。
 魅力を至上とするハンター及びハンター候補生の中で、色気とかけ離れたいでたちをしながら優秀でしられる妹。着脱のギャップが云々と言うが、要するに彼女はそれだけの確かな実力があるのだろう。手がかからなくなったもんだと彼は思う。
 むしろ、もう追い越される心配をせねばなるまい。あるいはその心配も既に的外れに可能性もなくはないが。

「悪かったよ、謝る」

 いずれにしても、独り立ちした妹である。その妹にさすがに調子のいい頼みごとをしすぎたな、とシグルドは自省した。
 妹に無理を言って迷惑をかけようとした、兄としての自分をとりあえず殴り倒したくなる衝動にかられながら頭を下げる。

「無理を言った俺が悪かった。……こんな事でお前に面倒押し付けるなんて、俺もどうかしてた。ごめん」

 言葉を返さずに黙々と話を聞いているリディアの眉が、一瞬何かに反応するようにぴくりと動く。それが何を意味するかはシグルドには分からなかったが、とりあえず話は聞いてくれているようだと安堵した。

「付きあわせて悪いな、代金は俺が持っとくから。……大丈夫だと思うが、お前も試験頑張れよ」

 今は何を言っても仕方がない。一旦時間が経ったら今回の埋め合わせはきちんとしてやろう、とシグルドは心に決めた。
 熱くなっていた迂闊な自分を呪いながら、これ以上いても不機嫌にするだけだろうと席を立とうとする、が。
 ごほん、と目の前からわざとらしい大きな咳が聞こえて、思わず彼はリディアを見つめ直した。

「お兄様」

 彼女は兄を小さな声でそう呼ぶと、懐に入っていた左手を取り出して、シグルドの目の前で掲げてみせる。頭に疑問符を浮かべたシグルドが、それが何なのか理解する前に彼女はそれを指で弾いた。
 テーブルを滑るそれを、反射的にシグルドは手で受け取る。何も書かれていない透明なケースと、中身は。

「……これは?」
「お兄様がお望みのものですわ」
「は?」

 緊張が解けてしまい、思わずシグルドは間抜けな声を出してしまった。
 フォークを手放し、両肘をついて手を組むリディアの表情は憎らしいほどに澄ましていたが、不肖の兄には多少なりともその変化を窺うことが出来た。
(……ちょっと焦ってる?)
 望みのもの。それはつまり、先程まで問題になっていた後輩の記録ということになるわけで――

「いや、いいのか?」
「……映像部では」

 まだ若干気が抜けているシグルドの質問に直接答えずに、リディアは言葉を紡ぎ始める。

「撮り逃しなどを防ぐ為に同じ試合を複数で撮る事も多いようなのですわ。特に一年にさせる場合はね。そして最も出来がいいものを保管する」

 静止している彼女の中で、組んだ手の指だけが、そわそわと落ち着きなく移動を繰り返していた。

「それはその保管されなかったものを、何かの足しになるかと個人的に譲り受けたものですわ。私の物を個人的に譲り渡すだけですから、誰にも文句は言わせませんわ」

 傍から見ると随分な理屈を躊躇いなく言い切って、リディアは冷や水が入ったコップに口をつけた。
 返事を待つかのように送られる視線に気付いて、シグルドはハッとしてようやく気の抜けた状態から立ち直った。ケースを右手で摘みあげ、口元を綻ばせる。

「いや、本当に助かった。ありがとうな、リディア」

 シグルドの心からの謝辞を聞くと、コップから口を離した彼女はつんとそっぽを向くことで返事をした。
 その様子がおかしくて、シグルドは口の端をますますつりあげてしまうと、むすっとしたリディアに抗議するような視線を送られてしまった。止めなかったけれど。

「けど、持ってたなら最初から言ってくれればいーのによ」
「……たまに釘を刺しておくぐらいが、お兄様にはちょうどいいのです」

 相変わらずつんけんした態度でそう話す彼女に、違いないとシグルドは返した。親しき仲にも礼儀ありと言うし、いっそう妹に感謝せねばなるまい。
 一瞬言葉に詰まったリディアは何か別のことも伝えようとしていたような気がしたが、シグルドにはその全てを推し量ることはできなかった。

「とにかく、良かった。……これ、いつのだ?」
「先月」
「なら、ほとんど最新だな」

 彼にとっては最高といってもいい資料である。大事に腰のポシェットに仕舞いこんで、感触を確かめるように手で優しく叩いた。

「重ね重ね、ありがとよ。迷惑かけたな」
「そう思うなら、後輩だけでなく偶にはかわいい妹の訓練にも付き合って欲しいのですけれどね」
「お前ぐらいなら、もっと上の奴の方が訓練になるだろーよ……そういや、お前はトールに声を掛けられてないのか?」
「丁重にお断りいたしましたわ」

 丁重に、とわざわざ強調するリディアの声色からは、鬱陶しくてたまらないとった感想がありありと滲み出ていた。
 鼻を鳴らしてそっぽを向く妹のつんとした態度から、恐らくは辛辣な言葉をぶつけられただろう友人を想像して、シグルドは苦笑する。

「……んな、邪険にするものでもあるまいにな」
「とにかく。私は、お兄様に頼んでいるのですわ」

 本気だか冗談だか分からない、リディアの答えは困らせようとする意地の悪い質問なのだろうか、それとも単純に兄妹がたまには恋しくなっただけなのだろうか。後者なら少なからず嬉しいが、と考えながらシグルドは苦笑した。
 いずれにしても彼に『かわいい妹』の頼みを断るような選択肢は元より有得ないのである。

「ま、それでチャラにしてくれるならいくらでも。今はダメだけどな」
「言われずとも分かっていますわ。まあ、万事上手くいく事を祈っています……お兄様もご自分の事をお忘れなきよう」
「分かってる」

 凛々しく、真摯な表情だった最後の言葉は本心からの心配だったのだろう。それに応えてから、さてと腰を浮かせようとするシグルドの頭に、唐突にあることが通り過ぎていった。

「……そういえば、お前が記録を持ってたのは偶然として。話をしてから部室に帰ってないよな? 何で俺がティエのを欲しがってたって分かったんだ?」

 話はこれまでだと思っていた為に、急に腰を落ち着けた兄に怪訝な顔をしていたリディアがその言葉に対して見せた反応といえば――盛大なため息であった。

「何を言うかと思えば……お兄様、自分の行いを思い返すべきですわ」
「自分の行い……?」

 はて、何かしただろうか。身の覚えのない言葉にシグルドはまったく見当がつかず、無意味に体をまさぐりながら視線を空へやった。

「お兄様、最近は講義終わりになるとティエさんと毎日のように連れ立って、二号館に行くでしょう?」
「そりゃ、そうだ」

 まるで思い至らない彼に、一度は綺麗に収まっていたはずのリディアの核が再燃し始める。苛々とされているのは目に見えていたが、とはいえシグルドは本当に思いつかないのでどうしようもない。
 せめて抑えてくれるようにと、手で制止する程度で精一杯であった。なんとも滑稽なその様子にさすがのリディアも気勢を殺がれ、代わりに諦念が入り込んでいた。

「そんな事をしたら噂になるに決まっているでしょう、お兄様は……。二人してそういうところに鈍感すぎますわ!」

 あぁーあ。
 本当に、まったく、まるで、全然、微塵もそんな考えにシグルドは及んだことがなかった。故にそんな気の抜けた声が出てしまったのも、仕方ないと言えるだろうか。

「ほんっとうに疎いですわね、我がお兄様は……」
「言われるまで全然気付かなかった。そうか、そういう風に見えてたのか」

 そう言われてみれば彼にも思い当る節がなくもなかった。ほとんど毎日のように会っているのと、時間惜しさも相俟って最初の二、三日を覗いてほとんど直接教室から連れ回していたのだ。そして何となく居心地が悪いとしか説明のしようがない、教室から降り注ぐ数え切れない視線。
 リディアの指摘通り、シグルドもティエもことこういう問題に対しては疎かったせいもあった。

「……やっぱ、ちゃんと待ち合わせ場所を決めた方がいいか?」
「知りませんわ。ご勝手にどうぞ」

 再び素っ気なくなってしまったリディアに苦笑いして、気を遣うことも少しは覚えたほうがいいなと、とりあえず心の中でシグルドは思った。
 そして今度こそ、その腰を上げる。

「それじゃ、俺は先に行くぞ。今日はさんきゅ、助かったぜ」
「……私も思い出したことがありますから、少し待っていただけません?」

 なんだ? そうシグルドが応える間もなくリディアの右手が、その延長線のように延びた銀色のフォークが、対面の彼の皿の中身を指し示していた。
 じと目でシグルドを見上げる彼女は今までのどの彼女とも違う表情を見せていて、立ち上がった彼の額にひとすじ汗が流れ落ちた。

「ピーマンも食べてください」
「じゃあな、リディア! 達者でな!」

 彼はかわいい妹の命令を受け付けず、踵を返した。問答無用である。

「ちょっと、お兄様! 好き嫌いはやめなさいとあれほど――お兄様っ! ああもう!」

 その艶やかな髪を振り乱して叫ぶ妹を無視して、シグルドは逃げるように早足でその場を後にした。テーブルを叩きつける音と共に、二本目のフォークが犠牲になってしまったがそんな事は彼の知ったことではない。
 置いていかれた彼女はといえばその日はずっと機嫌が悪かったそうで、主に同級生二、三人がその足で色々なものを踏み躙られる羽目になったそうである。
 南無。





 ……しかしながら。
 しかしながら、そう簡単に事が上手くいくこともなかった。
 映像の内容は彼の微かな期待を裏切り、優勢状態から戸惑っているうちに逆転負けを喫する、複数責めの環に入っているのにおどおどとして責められず乗り遅れる、そもそも責め手が見つけられないなど、かえって暗い影を落とす内容ばかりであった。
 あるいはそれを浮き彫りにすることで問題の解決を計るのが彼の考えであったが、素人考えでは上手くいくはずもない。
 そも彼は結局、それがどこからくる問題であるのかをはっきりと理解することが出来ないでいたのだ。

「……ご、ごめ――」
「謝らないで」
「でも……」
「謝らないで欲しい」

 ――そうされるだけ、無力な自分が惨めになる。

「そうしなきゃならないのは、俺の方なんだからね」

 結局やることといえば技能の復習を脇に置きながら、まるで化石を掘り当てるかのように、ひたすら原因にあたるまで色々な方法を試行する事しか、シグルドには出来なかった。
 方法を探しながらも見つけることができず、結局神頼みのようにそんな行為を繰り返すしかない。当たることを祈る、偶然を。
 しかし、そんな方法が往々にして成功するはずがないのが世の常である。
 結局何の後押しできる材料も見つけることができず、彼女は試験のその日を迎えることとなった。
 大抵の人間にはちょっとしたイベントで、彼女にとっては一大事であるその日を、何の用意も持たぬまま。






 その日は、快晴だった。
 季節が季節だけに寒い時期が続いていたが、陽が差したその日は思い出したように暖かくなり、まるで当日を祝福しているかのようだった。
 そんな陽気に似合わない一人の女子生徒が、鞄を抱えながらざわざわという喧騒が辺りを包み込む中で歩いていた。
 試験終わりの抑うつしたものが消える事によって見られる、特有のはじけた空気の中で、彼女の足取りはどこまでも重く、伏せた表情からは憂いがありありと見て取れる。
(わたし……)
 人が通り過ぎるたびに、彼女はびくりと反応して、両腕が抱え込んでいる荷物を強く強く抱き締める。
 その行為は母親が子供を守る行為に似ていて、そのじつ似ていなかった。彼女が覆い隠そうとしているものは、他ならない彼女自身のものだったのだから。
 足元はおぼつかず、気をやると何処か誰も知らない場所へ向かってしまいそうだった。いっそ向かってしまいたかった。
(でも……)
 それだけはしてはいけない事なんだ、と彼女はふらふらと不安定によろめく自分の心をなんとか抑えこむ。抱え込んだものを見せてなくてはならないのは、私の義務なんだ。
 自分を落ち着けるように二、三回息をつき、とにかく前を向こうと、どこか虚ろな瞳に光を湛えてどうにかこうにか決心して顔を上げる、が――

「せんぱーい」
「おめでとう、―――」

 ――吹っ飛んだ。
 顔を上げた彼女の視界に入ったのは、廊下の一角を占領するようにして群れている集団。中心にいるのは眩しい金髪と碧眼を持った青年で、それを囲むように、かなり年齢がまばらな多数の女子生徒と、混ざって男子もいる。
 しばしば中央にいる金髪の彼に周りの女子生徒がお礼をし、それに対しておめでとうと祝福をする金髪の彼、といったような様子だった。

(……ぁ)

 その光景を見ただけで、彼女の微かな決心は跡形もなく吹っ飛んだ。
 激しい焦燥感にかられて、すぐ脇にあった通路へ隠れるように飛び込む。
 たったそれだけの事だというのに、彼女が手を小さな胸にあてると、もう張り裂けんばかりに早鐘をかき鳴らしていた。壁にぴたりと身を寄せて目を伏せる彼女に、彼らの声が届いてくる。いやでも。
 一度逃げ込んでしまうと、きっかけを失った彼女はその場に出ていくことが出来そうもなかった。そもそも出ていったところで、何を話すというのだろう? 何を話せというのだろう?

「しかし、やっぱり緊張するものですね。こんなこと入学試験で慣れっこだと思ってましたけど」
「まあ、そうだね。でも終わってみればこんなものだろう?」
「そうですね」

 とにかく彼女はその場から逃げ出したかったのに、けれども足は意思に反して、地面に縫い付けられたように動こうとはしなかった。
 せめて聞こえてくる音を防ぎたくて、耳を両手で塞ぎたかったけれど、何故だか塞ぐことはできなかった。
 両腕が荷物を抱き締めることで精一杯だから、ということに彼女が気付くことはついぞない。

「お、トール先輩、来てたんですか。ありがとーございました」
「おめでとう」

 彼らの謝儀と祝福のやりとりには、あまり切実さというものがなく、儀礼的な、形式のようなものが強い感は否めなかった。そしてそれがまた、彼女をいっそう強く苛んだ。
 彼らにとっては、廊下の角から様子を窺うこともできず、立ち尽くすしかない彼女の抱えるものは、その程度の軽い意味しか持たないのだ。
 それがどうしようもなく苦しくて、この二週間を思い出すとなおさら苦しくて、彼女は荷物ごと自分を強く抱くように震える両腕の中のものが、透明な音を立ててひび割れていくのを感じた。悪気ではないことが分かっていても、締め付けられるように体が痛む。周りの空間が縮小していくかのような錯覚をおぼえ、彼女は息苦しさに胸を上下させる。
 もう、ここにはいられない。

「―――」

 耳の奥に届く、角からの声を無視して彼女は床を蹴って体を翻す。先程まで凍りついたようだった足が、彼女の衝動に突き動かされるようにして奔る。
 何処というあてはなかったが、この場から逃げられればどこでも良かった。今にも決壊しそうな自分を誤魔化せれば、走るのでも跳ぶのでも何でもよかった。
 見えないものを振り切るように走る彼女は、ろくに前を見ていなかった。

「あっ、」

 だから走り出してすぐ、何かにぶつかるまで全く気が付かなかった。ほとんど気遣いなしでぶつかったそれは壁にしては柔らかく、『ぐっ』という低音を出して彼女を跳ね返した。
「ごめんなさい――」
 あまりの気の動転ぶりに痛みどころではない彼女は、無意識に謝罪の言葉を口にしながら、すぐに走り出そうと顔を上げて――その動きを停止した。




 ほとんど後輩の事が、この二週間の最重要懸念事項だった。
 結果を報告しようと後に時間を取ってはあったものの、それを考えればシグルドが待ちきれず、直接やってくるのは当然といっても問題はないだろう。
 タイミングを逃して会えなくても、まあ構わないだろう。トールがどうなったかも見てみたいし――そんな思いでやってきたシグルドを迎えたのは、前も見ずに走ってきてぶつかる後輩だった。
 減速なしでぶつかり、思わずもんどり打って倒れかねないところではあったが、そこはシグルドの反応が勝った。

「……」

 ティエとシグルドはお互いの姿をはっきりと確認して、しばし何も言葉を発することができずにいた。正確にはシグルドは何か言葉をかけようとしたのだが、思わず飲み込んでしまった。
 それほど目の前の彼女の様子は尋常ではなかった。胸元の荷物を抱え込む彼女はいつも以上に小さく見える。黒い眼がふるふると揺れて、口は声にならない声を発していた。
 その様子でシグルドは、訊ねるまでもなく自分達の結果を察した。
 そして、ティエは限界だった。

「あ、あ……」

 限界ぎりぎりだったそれが、意図しない最後の一押しを受けて耐えられなくなる。茫然自失といった風の彼女は、俯いて今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
 いや、実際崩れた。
「……っ!」
 後輩の様子に呆けていたシグルドだったが、すぐにその様子を察して我に返ると、周りの人間から衝立になるように彼女のすぐ前に立って肩を支える。
「せん、ぱ、い」
 掠れた声でそれだけ言うティエに、仔細は分からずとも何が起ころうとしているかをシグルドは察することができた。震える彼女の肩を支えるように優しく叩きながら、耳元に囁く。

「……ここではまずい。がんばってくれ」

 かくん、と彼女の頭が動く。
 それが肯定である確証はなかったが、そうもたもたしてはいられない。シグルドが一歩踏み出すと、それに合わせるようにして、弱々しいながらもティエの右足も動いた。
 そのまま壁際のティエを隠すようにして、シグルドは同じペースで歩く。辺りを歩く学生達は怪訝な顔をしていたが気にしてはいられない。それより彼女は大丈夫だろうか。焦燥感にかられて早足になりたがるそれを、シグルドはどうにか抑えこむ。
 ティエが急ごうとして、もたつく足に合わせて階段を上っていく。
 扉を開くと、真っ青な空の下に出た。
(むかつく天気だ……)
 あるいは普段であれば気持ちいいものだったかもしれなかったが、開けた空とさんさんと照る陽は皮肉を言われているようで無性にシグルドは腹が立った。景色を楽しむ暇はない。
 つかず離れずで歩いていたティエから一歩退いてさりげなく距離を取り、大丈夫かとシグルドは問おうとして、口を噤んだ。

「せん、ぱ、私、私っ」

 彼女はすでに、目尻に涙をためていた。黒い瞳はいよいよ不安定に揺れを激しくして、持ち主の心のうちを伝えてくる。
 シグルドは意識せず喉を鳴らす。

「私、頼る人いなくて、どうすればいいのか分からなくて、不安で」

 ぴったりと閉じた右の瞼から、涙が零れ落ちてくる。そこで初めて荷物から手を離して、ティエは右手で目元を拭い、擦る。一本で荷物を抱える左手が震えているのは、その重さのせいだけだろうか。

「それで、トール先輩に声をかけてもらって、嬉しくて、それで先輩にも会えて、色々っ、色々っ……でも、私っ……」

 一旦堰をきった、溢れるものは止まりようがなかった。
 溢れ出す涙と一緒に不安を吐露するその様子は、シグルドが初めて見た、彼女のはっきりとした感情の発露だったかもれない。
 眉根を寄せるシグルドは、その様子を見ているのがたまらなく辛くなった。なにより彼女が今もっとも怯えているのは、恐らくシグルドに対してであろうから。

「ごめん、なさっ、こんな、おかしいですよね私……わたしっ」
「もういい!」

 咄嗟の行動だった。
 身体の内側から突き動かされるようにのびたシグルドの腕が、ティエの頭を包み込むようにして後頭部の手をあてる。
 彼女の身体は、驚きに竦んだように震えたが、一拍おいて縋りつくように目の前の胸板に額を押しつけていた。左手で抑えていた荷が音を立てて地面に落ち、その中から二つ折りの紙がはらりと地面に投げ出された。
 不合格。

「わたし、わたし……あんなに、あんなに」
「もういい……もういいから……もう」
「ごめんなさい、せんぱ、い……私、ごめんなさい」

 我慢する必要はない。
 額を通じて伝わる暖かな体温と、強い鼓動に後押しされるようにして閉じた瞼から流れ出すそれは一滴一滴から一筋へと変化していく。
 ところどころに言葉にならず吐き出す息と嗚咽が混じり、服に染み込んだ涙と一緒に彼の心の臓を打ち据える。

「無理すんな」
「あんなに、あんなに良くしてもらったのに……っ私っ……!」

 右手で彼女の後頭部を優しく撫でながら、顔をおっつけてくる彼女の顔が見えないことにほんの少しだけシグルドは安堵した。……想像するだけでも苦しいのに、その顔を直接見てしまえば、らしくもない表情をしてしまいそうだ。

「謝る必要なんてねえんだよ。だから、もう……いいんだ」
「……っ、……っ」
「頑張ってんのは一番よく知ってる。だから……大丈夫。大丈夫だから……な?」

 それは何に対しての保証だったのだろう。しがみつく後輩の手に逆らわず、シグルドはあやすように囁き続ける。か細い背中を震わせる彼女に。
(こんな事にしないために、今までやってきたんじゃねえのかよ……俺は)
 本当に自分はそれを分かっていたのだろうか。分かろうとしていたのだろうか、ともすればあげてしまいそうな声を噛み殺して泣く、彼女の初めての激情を受け止めたシグルドに、多くの感情が波を伴って押し寄せた。

「でもっ……」
「まだ終わったわけじゃない。……ティエはいい子なんだから、大丈夫だろ」
「で……も」
「俺がいる。だから、今は気にするな」

 まぶたを閉じて、今までひたすらに泣いていたティエの目が見開かれる。咀嚼するかのように口をもごもごと動かし、数拍の間の後に再びまぶたを閉じると、その隙間からひときわ大きな粒が、涙の道に沿って流れていった。
 その様子を、彼女を抱えるようにして上から見ているシグルドには窺い知ることができなかった。

「……っぁ、あっ」

 声にならない声ですすり泣く彼女を慰める手は、不思議とぎこちなさがなかった。ティエをほとんど抱き締めるような格好のシグルドは、少しだけ遠くに思いを馳せる。
(そういえば、ずっと昔に似たような事をしたような気がするな……)
 膝をついて、止まらない泣き声をあげ続ける少女。陽を照り返す金髪も幾分かしょぼくれているようで、足元には大事にしていた本の亡骸と、僅かな服の切れ端、そして彼女が作ったであろう、花の冠が無残に散っていた。
 たった一人の名前を呼んで慟哭し続ける彼女に、成り行きこそ違うものの、取った行動はほとんど同じだった。
 違うのは、その時は犯人が三日後になって半殺しの憂き目にあったことくらいか。
(思えば昔はリディアも、大人しい以上にか弱かったな……変われば変わるもんだ)
 それなら目の前の頼りなく、か弱く、だからこそ放っておけない後輩も、いずれは妹のように……まあ、きつくはならないとしても、しっかりするようになるのだろうか?

「せん、ぱい……せんぱい……せんぱい……っ」
「ティエ、俺はここにいるから……な?」
「……っ! あり、が……っ」

 どうだとしても、出来る限りの事をしてやろう。ティエを慰め続けながら、シグルドはいっそう決意を固めた。
 空気を読まない太陽の下、誰も来ない屋上で顔を埋めて泣く後輩とそれに付き合う先輩の姿は、それからしばらくのあいだ続いていた。



 やがてティエの挙動も小刻みになり、だんだんと落ち着いていくと、シグルドはやんわりと腕から彼女を解放していた。もっとも彼女はそれに気付かなかったのか、しばらくの間は相変わらず顔を押し付けたままだったが。
 陽も傾かないほどのわずかな時間だったが、二人にとっては随分長い時間だったように感じられていた。
 顔を離したティエは、すっかり跡が残った目元を手で拭う。その瞳は赤く充血していたが、どこか清々しかった。彼女との距離が妙に近く感じられて、BFの時とはまた違う奇妙な感覚に、シグルドは今頃になって少しばかり恥ずかしさをおぼえる。
 それを隠すように、懐からいくらか折り目がついたハンカチを引っ張り出した。

「ほら、これを使うといい」
「……ぁ。ありがとう、ございます」

 手渡しされたそれをティエは受け取って、丁寧に目元を、そして伝った跡を辿って顎まで拭い始める。
 先程までずいぶん震えていた手は、もうすっかりおさまっていた。

「……落ち着いたかな?」
「はい。……ご迷惑おかけしました」
「気にしない、って言ってるのに」
「これは失敗しちゃったのじゃなくて、先輩が胸を貸してくれた分ですよ」

 ちょんちょん、と目元を拭っている最中の左目を閉じながら、彼女は微笑んでいた。
 改めてシグルドは安堵のため息をつく。咄嗟の行動だっただけに、余計怯えさせるようなことがあればどうしたものかと思っていた彼としては一安心だ。
 洗ってお返ししますと、丁寧にハンカチを折り畳んでから落としてしまっていた荷物を拾い上げる彼女は、シグルドの心配を杞憂と思わせるほど、しっかりとその細い二本足で立っていた。

「これ……」
「ん?」

 荷物から飛び出してしまっていた、二つ折りの紙。ほとんど無風状態のおかげで辛うじて四角い分け目に引っ掛かっていたそれを、ティエは拾い上げてハンカチの代わりに手渡した。

「もう、言うまでもなくなっちゃいましたけど……」

 苦笑するティエは、もう既に言葉よりはその紙に固執してはいないようだった。
 シグルドは僅かに折り目がずれたその紙を開く。評価した監督者の名前、相手をした教官の名前、ティエの名前。その右の欄に淀みない筆跡で不合格、そして後日再試験を知らせる旨。

「これには書いてないけど」

 分かってはいても、その不合格という文字はシグルドは心臓の鼓動を一際跳ね上げずにはいられない。とはいえ、気にしすぎても仕方ない。
 目を瞑ってきちんと紙を折り直す。

「再試験っていうのは、知らされているのかな?」
「一緒に別の紙がくっついてたんです。再来週の月曜から水曜まで、夕方に別室を使うそうで」

 その言葉にシグルドは眉を顰める。実戦形式の試験といえども普段は一人一戦が普通だ。

「……三日も使うのか?」
「落ちたものは丁寧に……じゃない……でしょうか。一日一戦だそうですけど」
「ティエに聞いてもなんだったな。気にしないで」
 自信なくぽつりぽつりと述べる彼女を、シグルドは手で制する。
「……それと、今度は同学年の人が相手だそうですけど」
「同学年って、一年の?」
「はい」

 顎に手をあてたシグルドは呟いた。なるほどな。
(三日ごとに、経験がほぼ同じの違う相手をあてて三戦。丁寧に反応を見たいって事なのか? しかし、まあ、随分)
 慎重である。この様子なら恐らく監督者も熟達した者が選ばれるのは想像に難くない。ザルどころか、まさにショベルで全部掬い上げようという勢いだ。
 逆をいえばここで引っ掛かれば、何がしかの強制的な手が働くであろうことは間違いないのだが。
「ふーむ」
 しかし同学年。下手をすればティエにとっては教者よりやり難い相手かもしれないと、シグルドは心を曇らせる。彼女は周りに確かな劣等感を持っているだろうからだった。BFにおいては、そもそもそんな事に左右されては勝負以前の問題ではあるが。
 考え込んでいたシグルドがふと視線をやると、拳を重ね合わせて見上げるように覗き込むティエの姿に気付く。
 お預けをくらった犬のように、何も言うことはなく、しかし次の一声を待ち望むようにその瞳を向けていた。シグルドは一旦思考を打ち切って、その瞳に向き合う。彼女は言うだけの事を言った。彼も考える前に、ひとまずそれを言おうと決めた。

「もちろん、ティエがよければ俺は訓練に付き合いたいんだけど」
「……はい! どうかよろしくお願いします」

 返事を待つ不安を幾分か含んだ瞳から、弾んだ声の彼女への変化は極めて劇的で――少なくともシグルドにとっては――彼は面食らった。

「お、元気だね?」
「はい。もうやるだけですから……次は、きっと」
 胸の中で彼女の両手は、固く固く握りこまれていた。
「そうか。……俺も色々と手を伸ばしてみるよ。なに、その意気なら次は受かるさ」

 ほとんど口から出たでまかせのような保証だったが、案外デタラメではないかもしれないとシグルドは思った。少し泣いたことで吹っ切れたのだろうか、不安を隠しているようには見えない。
 彼は気合いを入れ直すように、両手を腰にあてて、こころもち狭くなっていた足の間隔を広げた。それだけで随分彼は大きくなったように見える。

「さて、とすると……再来週までの予定はどうするかな?」
「えっと……今までと同じ感じだと思いますけど、詳しい事は分かりませんから。今夜でも渡しにいきますね」
「ああ。俺も自分の予定をまとめておくから、よろしくね」

 そうは答えるものの、彼はまともな私事の予定など入れるつもりはまるでないのだが。そんな彼を知ってか知らずか、ティエは顔を綻ばせることで返事をした。
 会話が一区切りしてゆるゆると撫ぜるような風が流れていく。と、綻んでいた彼女は表情を戻して、何かを躊躇うようにもじもじと内股を合わせはじめる。 
 シグルドは何か話があるのだろうと察したものの、自分から訊ねる事はしなかった。

「……その、先輩」
「何かな?」

 胸の前に合わせていた両手は、気が付けば腰のあたりで下向きに組まれている。もっともその視線だけは、シグルドをしっかり捉えてはいたが。

「そのことで早速なんですけど、お願いがあるんです」

 燦々と輝く太陽の日差しが差し込んで、彼女の黒い瞳は湖に落ちた硝子のような煌きを放っていた。




「さて、まあ……こんな格好になってしまってから聞くのも何だけど」
「はい」
「本当にやるのかい?」
「はい」

 こくり、と頷くティエの瞳には確かな意思の表れがあった。

「今日は色々あって疲れてるんじゃないかと思うし、そんな急かなくてもいいと思うけど」

 ベッドの上に腰掛けながら頬を掻くシグルド。二人はすでに一糸まとわない状態ではあるものの、彼は未だに多少ながら困惑しているようにも見える。
 開いた両足でハの字を描くように地面に座っているティエは、泣き腫らした跡を未だに残しながら、その黒い瞳でシグルドを見上げていた。

「別に、焦っているわけではないんです。……早く上手くなりたいとは思いますけど」

 彼女が提案したのは非常に単純なことで、今からでも訓練に付き合ってはくれまいか、という内容のものだった。むろんシグルドには断る理由はない。
 ないが、さんざん泣いた後だけに彼女が無理をしているのではないかと、そうシグルドが眉を顰めて彼女を見つめるのも当然のことではある。

「でも、今日でしかできない事も、私にはある気がするんです」

 シグルドの猜疑心に反して、彼女の口調は明るいものの、それ自体は至極落ち着いていた。感情が昂ぶった反動ってものなんだろうかとシグルドは考えるが、明確な答えが出ることはない。
 その黒々とした珠を覗き込みながら暫しの間シグルドは迷っていたようだったが、やがて息をついて後ろ手に体重を預ける。

「……本当に大丈夫なんだな?」
「はい。私は今、やってみたいんです」

 念を押すように言葉を繰り返すティエの気をそれ以上無理に殺ぐような真似をする理由は、シグルドは持っていなかった。
 やる気十分の彼女を見下ろして、さて何を、と頭を回す。

「じゃあ、えっと――」
「私に」

 その思考が始まったのと、ティエが動くのはほぼ同時だった。
 座り込んでいた彼女が僅かな時間もかからず、たたんでいた足を伸ばして跳びつくようにシグルドの身体に体重をぶつけた。衝突というには優しく、もたれるというには勢いがある。
 意識を他にやり始めたばかりのシグルドは、ろくな反応もできずに、ただそれをぼうっと見つめているだけだった。

「――私に、やらせてください」

 体重を圧しかけられてあえなく倒れたシグルドの上半身が、柔らかいベッドに埋まる。それを追いかけるように、ぴったりとティエも身体を寄せてきた。
 視線は戻ったものの、未だ混乱したシグルドが目の前の状況を理解するには数拍を要し、その数拍の間に事態はまた動く。

「……ん」

 ようやくことを理解した彼の目の前で、彼女の唇から濡れた赤みが飛び出している。彼の鍛え上げられた肩をやんわりと抑えるように両手をあてると、赤みがかったそれが垂直に彼の身体に落ちていく。

「ん、ちゅ……」

 ぴちゃり、と唾液が塗れたそれが触れる感覚に、シグルドの聞こえるか聞こえないか程度の声が、息と一緒に漏れていった。思わず身体を反転させかけるが、胸の上から彼を覗き込むティエの視線がそれを押し留めた。
 ちょうど胸の真ん中あたりに舌を落とした彼女は、そのまま舌を飲み込むように顔を近づけて口付けた。
 わずかな筋の隆起がある体の表面、それに一回、二回、三回。

「ちゅ、る……ん、ふ……ぇん、ぱい」

 彼の名前を呼ぶ彼女は、何を望んだのだろうか。シグルドは自然と反撃を窺うかのようにベッドに拍子を刻んでいた右手の動きを止めた。
 都合数回口付けると、彼女は顔をゆっくりと離していく……舌だけは接着したように胸に残したまま。
 そして動かす。舌を筆に見立てるように、ゆっくりと、丁寧にシグルドの体の上を、ティエの頭が縦横していく。
 シグルドの、ベッドから落ちていた膝の下。その上の腿の部分。彼に真っ直ぐ乗っかるような体勢だったティエが、誤って押し潰さないように気を使いながら、さりげなく下半身を横にずらした。

「ん、ん〜……ひゅ、んふ……は、あ」
「これは……」

 なおもゆっくりと、体の上を泳ぐその舌に追従して、彼女の右手が動く。抑えつけていた手を肘に代え、折り畳むようにシグルドの上へ。
 ぽっかりと空いた口から、舌を伝って落ちてくる雫。ティエの漏れるような吐息に吹かれて揺れるそれを、持ってきた手の指が塗りこめるように動き出す。あくまで直接的といえる快感はなかったが、シグルドにとっては何とも、もどかしい。
 右手同様いつの間にか離されていた左手は、そろりそろりと指で忍び足をするかのように降りていく。体のあちこちをもどかしい感覚が巡って、降りていくそれに期待せずにはいられない。

「あつい……これ、あつ……んっ」
「く……」

 本人も気付かないうちに、下半身のそれは地面に落ちた膝下とは反対に、滾った凶器の片鱗を見せつつあった。視線を向けずに左手でゆっくりと握りこんでいくティエは、自分でも制御できない熱に震え、一際大きな水滴が彼女の舌に導かれて零れ落ちる。
 それは熱の伝染、いや回転。滾った彼の熱がティエを熱で浮かし、悩ましい吐息を引き出させ、それがまたシグルドの情を煽っている。

「ふぇん、ぱい……っ興奮、して、くれてますか」
「ティエ……お前、何だ? 大丈夫か?」

 うろたえる気持ちが顕れるように、自分と相手とどちらにでもなく、シグルドはそう訊ねた。明らかに様子が変わっている……そう、どちらも。
 彼女は元から、それなりに技量は巧みだ。しかし今、シグルドの炎に吹き込むように煽る情欲の風は以前はなかったものだ。ひょっとすればBFを行う者は誰しも持っているかもしれなかったが、それが分かるなら元より彼女の教練に苦戦はしなかった。
 それに浮かされている自分が、ほんの少しだけ彼には歯痒い。
 そしてそれ以上に、狼狽している。

「してくれてますよね……?」
「むう……」
「お願いです、答えてください……ん、ん」

 動揺著しくうまく言葉が浮かんでこないシグルドの沈黙に焦れたのか、ティエはさらに赴くままに動き出す。心なしか赤みを増したように見えるその筆が、稜線を滑らかになぞっていく。肋骨からわき腹を――そして方向転換して、今まで触れていなかった、その場所へと。
 熱さを確かめるように触っていた左手はしばらく蠢いていたが、やがて最適な位置を見つけたかのように、指でしっかりと握りこんだ。ぴたりと、逃がさないという意思を込めるかのように握りこむ。

「は、ふ……答えてほしいんです、先輩。だから、私……。は、ぁ」

 ティエの熱がこもった吐息がシグルドの肌を撫ぜるのと同時に、彼女はわずかに頬を染める。回答を得られなかった事に対してか、ほんの少し寂しそうな顔をして――すぐに、かつてないほど真剣な表情になった。

「……答えてもらいますね」
「っ……!」

 言うが早いか、彼女は涎の零れている唇で、構わず目の前のものにむしゃぶりついた。今までさんざん舌を動かしておきながら、そこだけは侵すことのなかった、胸の頂点に。
 筆のようにちょんと下ろすのではなく、舌の根ごと押し付けるかというほどに顔を近づけて、構わず熱い唾液を塗りたくっていく。

「ティエ……くっ、お前……」

 それと同時に乳首に訪れる、未だ快感とも何とも形容しがたい強い感覚に思わず一瞬体が浮きそうになる。無意識に、ほぼ自由になっている右手を伸ばしかけた。伸びた右手が彼女を掴む虚像を、彼は見た気がした。
 彼女の行為を、修練ということで甘んじて受けていた自分の体が、何故だか分からないが、無性にじりじりと動きたがっているのをシグルドは感じていた。

「じゅ、る……んむっ、ふ、ちゅ、じゅるっ……」

 浮きかけた体を遮った別の理由が、下半身から伝わってきた本物の快感だった。
 しっかり握り込んであった彼女の左手が、巨幹を上下していく。てのひらも含めて擦りあげるように、時に五本の指先で撫で回すように。甘い感覚に絆されるように、ひくと震えて、幹の頂点から透明な樹液がこぼれていく。

「んっ……は、私も、気持ちいいです……」

 ティエの控えめな胸は潰れるほどなかったが、擦り合わせられる小さな頂点がしっかりと存在を主張していた。
 体をじりじりと動かす彼女は、自身もそれで快感を得ているかのように時折熱い吐息を漏らし、とろんとした瞳をしていたが、その奥の光はあくまで目の前で堪える一人の男を見据えたままだった。
 とろとろに融けるように興奮の度合いを増していくティエが、体をむず痒そうにくねらせると、擦れ合う表面積が増していく。それでいながら、責めはだんだんと昇りゆく。彼の表情を窺いながら、的確にタイミングを測って左手と舌で快感の波を創り上げる。

「ティエ……なんだか、凄く……いいぞ」
「嬉しひ……んっ」

 自身でも、靄が掛かったようにはっきりしない理由で堪えていたその言葉をシグルドが漏らすと、ティエは口周りにぬめった照り返しを見せながら、恍惚混じりに喜んだ。
(あ、ぁ……わたし、おかしいのに凄い……。あついのに、いつもよりずっと頭良くて、おかしい……)
 昂ぶる自身を感じる。だというのに、その昂ぶりに比例するようにして、丸みを帯びた鉄が槍の穂先のように研ぎ澄まされていくのを、小さな後輩は感じていた。はっきりと視える先輩の、僅かな変化の表情に対応するように体を動かすと、すぐに本物と違う、ぶれた幻覚のような先輩が先読みのように変化して、その後それを証明するように本物のそれが変化をする。その不思議な感覚はまるで予知のようで、ティエは心躍った。

「もっと、きもちよく……んっ、じゅる、るるっ」

 乳首をころころと舌で転がし、吸い込むように音を立てる。初めはくすぐったさがかなりの割合で混じっていたそれも、下半身の手の動きに習合して、それ自体が快感をもたらしつつあった。
 それでも未だ無様に悶えることなく、抵抗なしで受けきっているのは流石といってもいいだろう。『イこうにもイけない。イきたくてもイけないんじゃなくて』と彼がいつか心の中で評した彼女の技は、確実に彼を追い詰めてはいたが。

「もっと、もっと……」

 僅かながらも、変化を隠し切れないその表情に後押しされるように、ティエもさらに動いた。
 シグルドの下半身に添っていた彼女の左手が、奥の側に移動し始める。手が這うように、ベッドから飛び出した足の方へと手が回りこんでいく。

「く、なかなか……ん……っ、……んん?」

 快感に持ち応えていたシグルドは、ぴちゃぴちゃと犬が水を飲むような緩やかな舌の動きにどこか安堵してしまい、彼女の左手に気付くのが少し遅れた。
 ようやく目的の場所に辿りついた彼女の左手は、たっぷりと粘液で塗れた人差し指をそこに差し向ける。
 下半身、ベッドに沈み込むように隠れていた、彼の秘所に。ずぶりと、指が差し込まれて――


「ぐえ゛っ?!」


 ――形容しがたい、異音が聞こえた。
 音というよりは悲鳴なのだが、悲鳴というにはあまりにもそれはトーンが低すぎた。蛙が潰されたようだ、と表現するのが間違いではないと思うほど。

「……え? その、……え?」

 あんまり酷いその声に、熱に浮かされるようになっていたティエもハッとして我にかえり上半身を起こすが、何が起こったのかは分からず呆然としていた。
 ……目の前には、今の今まで奉仕を受けていたシグルドの体。腕を硬直させたまま全身がびくんびくんと震えていたが、それが快感あるいはそれに準ずるものでないのは明らかだった。
 右手はギブアップを示すように、手首だけ使って柔らかいベッドを叩いている。

「ごっ、ごめんなさい!」

 ほとんど反射的に、ティエは不浄の穴に突き刺していた人差し指を抜いた。ぐっ、と低い声をあげて、シグルドの右腕が力尽きる。
 その本体はといえば、歴戦のハンターが淫女王と決戦を繰り広げたかのように荒い息をついて、まだ全身がぴくぴくと痙攣していた。

「き……きいたぜ、今のは……」
「せ、先輩。すいません」

 絞り出すような、なんとも情けない声。
 深呼吸を繰り返す彼を心配そうに見下ろしながら、迷うように視線をあちこちさせた後、ティエはおずおずと口を開いた。

「その、ひょっとして先輩。……お尻の方って、まだ」
「まあ、ありえないよな普通は……多分まあ、そう、想像通り」

 途切れ途切れに声を絞り出すシグルドの答えは、ティエの推測を確かに保証するものだった。
 そう。シグルドは自身のアナルを深く弄られた経験が皆無に等しいのだ。大抵の場合は考えるまでもなくこの世界では必ずと言っていいほど経験を持つのだが、何の因果なのかシグルドにはそんな経験は巡ってこなかった。彼自身誰かに責め方を教唆することなどティエが初めてであるし、極めて攻撃型である彼はアナル責めを得意とする相手を触れさせる事なく沈めている。そして責めを得意とする強者と試合を繰り返す機会は運命のいたずらか、訪れなかった。
 触れられていないだけに責めに詳しくない者は快感どころか苦痛を呼びこむのが精々なので、余計にBFにおいて弄ろうとする人間は減り、それが拍車をかけている。
 彼の問題を地球上で最もよく知り得ている人間は、よりによって不浄門に触れるのが大嫌いなため論外であった。(どうして私がそんな場所に……汚らわしい。お兄様なら特別に足の指を挿れてあげてもいいですけれど)

「ご、ごめんなさい。知らなくて、その」
「……いや、気にしないで。まあ、とりあえずそういうわけだから、今は触るのは勘弁して欲しい」
「は、はい……えっと……」

 気まずい。
 絡みつくように盛り上がり、吹き上がっていた情欲が今、圧倒的放水を受けて鎮火に向かいつつある。二人の間に流れるなんとも冷たい空気と、自分の体の熱が徐々に引きつつあるのを悟ってティエはおろおろと視線を彷徨わせた。一方のシグルドも『続きをよろしく』などとも簡単に言えず、何ともいえない表情であった。役に立たない。

「えっと……ん……」

 ティエとしても、そういった状況は理解している。時間をかければかけるほど、致命的になりかねないことも。
 少しの間視線を彷徨わせていた彼女だったが――冷え込んでいく空気に気圧されるようにして、考えのまとまらぬまま行動に移っていた。

「……っ?! む、うっ……!」
「ん、ちゅ……はぁ、ふぇふ、ちゅ、ちゅ、ん……っ」

 起こした上半身を再び倒れこむようにして、ほとんど頭が空っぽのまま、赴くままにシグルドの唇に吸い付く。そのまま熱を求めるように、自然とティエの舌が飛び込んだ。
 本人も意識の外であるそれが功を奏したのか、ほとんど無防備だった口内に思わぬ舌の動きが差し込まれて、シグルドは露骨に狼狽する。そこに思考が追いついたティエが、今度は意思を以って口内を舐り上げていく。逆に後追いを余儀なくされたシグルドの、自らの口内を這い回る生暖かい感触に翻弄されて、初めて表情が快感に突き崩される。
 その表情は、深く口付けるティエの眼にはっきりと映し出されていた。
(あ、先輩の顔……なんだか、すごぃ……)
 たっぷり口内を味わってから、名残惜しくも息が続かずに彼女は唇を離す。どちらともつかない唾液が、糸を引くようにシグルドの仄暗い口内を飲み込まれていった。

「はぁ、はっ……。積極的だな、ティエは。珍しく」
「はふ……今日は自分から、お願いしましたから。……必ず、最後まで……」
「そりゃ、いい心がけだことで……っ!」

 肛門に見事クリティカルヒットを決めて以来お留守になっていたティエの左手が、再び逸物へと伸びる。冷えかけた空気は深い深い接吻の熱に中てられて、俄かに昂ぶりを取り戻していた。
 その竿に塗れた、時間を置いて冷えかけている粘液を熱で溶かすように、再びふきこぼれた先走りを指に絡めて擦りあげる。
 シグルドの股間で強力に黒光りする逸物が、はちきれんばかりに熱く滾り、血管を浮き立たせて急速に成長しつつあった。

「また、いっぱい……」

 それぞれの指を繊細に動かして刺激し、時々きゅっと握りこむように、さらに環を作って下から上へと押し上げるかのように。
 シグルドは一度引いたはずの熱が十重二重に帯を巻いて打ち寄せる快感に、体という土壌が徐々に侵食されていく錯覚を感じた。その上半身を、さらにかりかりと刺激するものがあった。

「こっちも……ん、ちゅる、じゅるるっ……ちゅ」

 中断する前と同じように、舌は再び執拗に胸の頂点を付け狙う。ぴんとそそり立っているそれを唾液で汚していると、何とも反対側が寂しそうに思えたティエが右手を反対側へと伸ばしたのだ。
 かりかりと爪で優しく引っ掻くように、時に上から押し込む。それに夢中になりながらも、反応を察するティエの器官は全力以上で律動する。

「く、いいぞっ……」
「んっ、じゅる、ん……ぴんて尖って、あつくて……ふぅ、んっ」

 下半身と左右対称に並んだ上半身の箇所のどれもが、シンクロしたティエの性技に快感を与えられて加速度的に上りつめていく。
 時折意図的に各拍子をずらされて、それが駆け足で追いつくように速度を上げてまた並ぶ。またずれる。シグルドの反応を確かめながら的確に行われるそれは飽きさせない。耐えきれない。

「ティエ……そろそろ、くる……っ!」
「はふ、ん……じゅる、んっ」

 口をぱっくりと開けて、体の中のそれを追い出すように熱い息を吐き出す彼の言葉に、彼女は敏感に反応する。左手で優しく、しっかりと、屹立するそれを握り込んでピッチを上げていく。
 びくびくとこれまでにない絶頂を迎える前触れを見せる下半身の予兆を受けて、しかし彼女の関心する場所はシグルドの予想とは別の方向へと向かっていた。

「ん、ふ……ん」

 潤んだ、漆黒の輝きを湛えるその瞳が、荒い息をつくシグルドの表情を捉えて離さない。離れられない。ティエにも今までと比べても最も強く、シグルドが感じられているだろう事が確信できた。だからこそ、もっと上りつめたい。
 思い返すのは、先刻のこと。まだほとんど時間が経っていないのもあるが、ティエの脳裏に焼き付けられて消えることのない、あの表情。
(そうだ……また見てみたい、また……)
 自身の秘所から、腿を伝うように溢れんばかりの興奮の証が流れていくのを感じ取りながら、我慢するシグルドの様子を密に窺う彼女の眼は、蕩けながらもその時確かに狩人のような鋭さを持っていた。
(もう一度、さっきみたいにすれば……きっと大丈夫。喜んで、先輩)
 そして、動く。目の前にあった乳首を舐めながら、左手の手首を利かせて弧を描くように一際強い快感を引き出していく。絶頂へと昂ぶらせるその快感を受け取って目を瞬かせたが、ティエの目的はむろん他にもあった。
 快感に解かれるように一瞬意識が放られた隙を逃さず、ティエは上半身を跳ねさせ、柔らかい唇を押し付けた。

「んむっ?! ん、ぐ、んっ……!」
「はふ、ん……ちゅる、ちゅ、れろ」

 ひゅうひゅうと熱を吐くように呼吸を繰り返していたシグルドは、突然その換気口を塞がれて目を見開く。
 気圧されるように実行された先のキスとは違い、最初から意思を持った、より情熱的な口付け。
 呼吸に喘ぐ彼の唇を強引に塞いで、ティエは舌を絡めていく。激しく動く口内に舌を這わせ、空気を求めて暴れる舌を舐め取りながら、自身の空気を送り込む。呼吸をさせている自身と彼を自覚すると、ティエは説明できないほどの途方もない陶酔感で満たされた。
(ぁ……先輩、すごい顔で受けてくれてる……もっと、しないと)
 その思考は少しばかり的を外していたのだが、彼女が気付くことはない。

「ちゅ、ん、ふ、れろおっ、ぴちゅ、ん……っ」

 口内への奉仕と連携するように、左手も円弧を描き、環を作り、尿道を刺激して一気にその時へと導いていく。声もあげられない状態にシグルドはたまらず喘ぐしかない。
 修練なのだからと我慢はするが、ほとんど反射の行動は抑えられず自然とティエの柔らかい舌から逃れるように後頭部を退いてしまうが、違いの唇が離れるより早くティエが追いかける。右手が後頭部に添えられると、追いかけた勢いで余計に口付けが深くなる。
 お互いの涎が口の端から零れるのも構わず、空気を奪い、与えるように沈んでいくティエの体は、むしろそれによって汚れていくのを望んでいるかのようだった。

「んっ……ん、むぐ……っ!」
「はぁふ、ぴちゅるんむ、んんんんっ」

 既に熱く蕩けるティエの体が、さらに貪欲に融解を求めて激しさを増しながらシグルドに全身ごと擦り寄る。秘所からひとりでに流れる愛液が足を伝って白いベッドを汚し、シグルドの足にも絡みつく。
 ぞろりと生えた歯を、舌を舐めあげながら、ティエの左手が急ピッチで上下し、一往復ごとにカリ首が引っ掛かって、許容量を超える快感が流し込まれる!

「んっ、ぐっ、んむうっ〜〜〜っ!!」

 どくん、どくん……と脈動しながら、反り返った逸物が、真っ白な快感の証を吹き上げる。ほとんど同時に、ティエの手のひらがその出口の近くに翳された。
 びゅうびゅうと根元から送り出されていくそれが、彼女の左手にぶつかってへばりつく。最初の方に吹き上げたそれのいくらかが手の甲にもぶつかる。
 ここまで耐え抜いていたシグルドだったが、さすがに耐え切れず、今まで拒んでいた精液を一気に放出した。
(んん……あっつい……先輩)
 たった今目の前の人が見せた絶頂する瞬間の表情を思い返しながら、ティエは左手を咀嚼するように蠢かす。ぐじゅぐじゅと男の証が絡みつくそれが、いやらしい。
 その熱い精を感じていると、絶頂する時に見せたシグルドの表情を、その時に感じた自身の、言葉にならない昂ぶりが蘇ってくるようで、少しのあいだ夢中でそれを捏ね回していた。

「んっ……」

 余韻を残すように、どろりと網膜が溶けたような目でしばらく舌を動かしていたティエがやがて頭を離していく。
 シグルドの舌を絡めながら出てきた彼女のそれは、今生の別れを惜しむように彼の舌を撫で上げた後、ようやくシグルドを自由にした。

「……け、ふっ、ぷはぁっ」

 一方のシグルドは軽く咳をした後、ようやくまともに機能するようになった給気口から思いっきり息を吸い込んだ。
 精液を吐き出し終えて、一旦臨戦態勢から休戦状態へと移行する彼自身に合わせて、熱を追い出すように深呼吸を繰り返していた。

「えと……先輩?」

 精液をたっぷりと浴びた掌を握り込んだまま、ティエが上半身を起こす。熱に酔った様だった彼女も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
 重ねていた体を横にずらして、深呼吸をするシグルドを覗き込む後輩。
 その後輩に受身制限があったとはいえ、さんざ感じさせられて、最後は蕩けるような口付けの中で声も出せずにイかされた、その事実。それをはっきりと認識して、シグルドに沸きあがってきた感情は――

「何だ、凄くいいじゃねえか!」

 ――歓喜。
 シグルドが前触れもなく上半身を跳ね上げると、驚いたティエが思わず体半分ほど身を引いた。

「ああ悪い、驚かせたな……かな。いや、でも何ていうかいつもとは、随分違ったな。良い意味で」
「ありがとうございます」

 ぽりぽりと頭を掻きながらとっかえつっかえ言葉を繋ぐシグルドに、ティエは苦笑する。
 左手を開いてみれば、かたまりかけた精がたっぷりと残されていた。

「……なんだか、初めてまともにイかせられた気がします」
「そんな事はないけれど」
「でも、そんな気がするんです」

 そう言って嬉しそうに顔を綻ばせるティエにつられるようにして、シグルドも笑った。
(何だか、今日は様子が違っていたからなぁ。そう言うのも無理はない)
 これ以上手こずるなら方法は選んでいられないと、シグルドは誰か他の得手な人間を巻き込むことも視野に入れていた。
 とはいえ彼自身、ここまで面倒を見てきた彼女をそうそう他の誰かに見させたくないという、意地や親心のようなものが混じった奇妙な独占欲があって、それだけに今日のことは嬉しい誤算である。
(落ちたことで、何か吹っ切れたかな。一日で元に戻ってるなんて事がなきゃいいが……)

「これからも、よろしくお願いします」
「ん、よろしく」

(まあ、何とかなりそうだ)
 もはや、心なしとはいえないほど雰囲気が明るくなった彼女の言葉を受けて、シグルドは安堵する。一時はどうなるかと思ったものの、今日ぐらいの調子を維持できればまず問題はない。
 ぐぐっと大きく腕を伸ばして、シグルドは一際大きなのびをする。視線を上にやってガラス越しに外を覗くと、まだ十二分に明るい陽が目に入ってきて、思わず目を細める。
 その様子を、綻んだ表情から、さらにほわっとした微笑に変えて、ティエが横から見つめていた。

「ん〜っ……はぁ。いい天気だなぁ」
「……」

 結局のところ何かというと、シグルドにとってティエというのは後輩であり、不甲斐ない教官役である事を実感させられる存在であり、苦労する教え子である。
 泣き出してしまった彼女を放っておけずに抱き締めてしまったことも、シグルドにとっては純粋な心配からの行動に過ぎない。
 何より彼には、過去にそのような経験が一度ならずあった。その時もやはりシグルドにとっては護らなければならない相手で、心配で心配でたまらない存在だった。そのくらい面倒を見るのは彼にとっては割と当然の事なのだ。だからこそ、彼女の変化にごく素直に歓喜することもできる。
 だから、シグルドは気付けなかった。
 無意識に自らの左手を、それに溜まった精液を舐め取る舌。真横から彼を、どこか呆けたようにぼんやりと見つめる、潤んだ瞳。

(はふ。せん、ぱい……)

 彼はその日、確かにその手でトリガーを引いたのだ。
 二人分の体重が動いたことで乱れがみられるシーツ。とろとろと零れる蜜が、誰にも気づかれることなく、新たな染みを作っていった……。





 一夜が過ぎた。
 約束どおり夜に現れた彼女の持ってきた予定表に手早く書き込み、おおよその予定立ては終わらせていた。もっとも昨日の彼女が夢でなければ、そんなに慌てて予定を入れる必要はなかったかもしれない。言葉にはしづらいものの、それぐらいの変化だった。
 まあ、それはそれだ。とりあえず一つ疑問を解消しよう。講義が終わって人がばらばらと流れ始めるその中で、俺は教壇の横に近付く。
 教壇に立っているその人に話しかけようと俺が口を開きかけると、満面の笑みを勢いよくこちらに向けて、先手を打つように彼女は言った。

「ダメー♪」
「まだ何も言ってないんですが。先生」
「そう言われてもなぁ」

 だから何も言ってないってのに。
 ……大人も大人、今年で○○歳だというのに下手すりゃ俺が軽く抱え上げられるくらいのの背格好の女性。顔は中性的な可愛らしさを持っている上に、赤いジャケットにズボンといった出で立ちのせいで、一見して男女の区別がつかないこの先生は、名前をリィルといった。
 果たして一見で男女を判別できる奴がいるんだろうか。ハンター同士による体重別公式大会準決勝で、さんざん性技を受けて錯乱した相手が言い放った『ついていたと思ったらいなかった』という台詞はあまりにも有名だ。

「ほら、仮にも生徒と先生だしね?」
「はあ」
「そういう事は、まだ早いんじゃないかなぁ〜ってボクは思うわけだ」

 きゃっ、と両手を頬にあてて恥ずかしそうに身を捩らせる様は、下手に可愛らしいぶんだけ余計に頭が痛くなる。さっさと帰りたいがそういうわけにもいかない。
 いつもの事ながら、誰に対してもテンションがおかしいこの先生は出来ることなら関わり合いになりたくはない。通り過ぎていく生徒達の奇異なものを見るような目は珍しいことじゃないが、俺にも向けられているとなれば話は別だ。

「だから、せめて君が卒業して、立派なAランクになってから声をかけてネ?」
「何気理想高いですよね、先生」
「高いよ高いよー、ボクを誰だと思ってるわけ?」

 さしずめフルメタルトリックスターか。

「……まあ、先生の不振な婚活状況は放っておいてですね」
「ひどぉいっ」

 昼ご飯の時間が減ってしまうのはあまり我慢できないし、ぶぅぶぅと文句を垂れるのは無視。

「聞きたいことは他にあるんですよ」
「ダメ」
「まだ何も言ってないんですけど」

 二つ目のダメだしをした先生の顔は、さっきのようなおどけた態度とは打って変わって、ずいぶん神妙な顔をしていた。なんとなく先が予想できてしまった気がするが、俺は一度目と同じ言葉をぶつける。

「一年の試験状況の事でしょ? ダメ」

 予想通りの答え。さすがにこの辺の事は先生らしく、まともには取り合おうとしない雰囲気がひしひしと伝わってくる。
 ……リィル先生が一年の実技試験の準備、採点諸々に関わっているのは調べ済みである。

「よく分かりましたね」
「そりゃ、最近噂になってるもんね。それをしてティエちゃんが……おっとっと。まぁとにかく、そのぐらいは分かるよ。それに」
「それに?」
「君は入れ込みやすいからねぇ」

 ため息をつきながらジト目で見上げてくるその様子に、俺は思わず頬を掻いて誤魔化すしかなかった。俺自身あまりそうは思っていなかったんだが……あっさりと見透かされて、なるほどぐうの音も出ない。
 ……が、恐らく勘違いされていることはある。

「俺は別に試験の内容をとか、採点の内容とか、そういう事を聞きたいわけじゃないんですけど。口利きでもないですよ」
「……むー、じゃあ何なのかな」

 第一内容を聞いたところでどうする事もできまい。彼女に伝えるなんて事は、律儀な正確を考えれば有得ない選択である。
 まあそもそも、そんな狡い真似は天地が許しても俺自身が許さん。俺が聞きたいのは別に試験を有利に進めるようなものではない。強いていえば興味か。

「三日の日程なんて、慎重でしょう。試験に落ちたのは他にもそこそこいるんですか?」

 俺の質問に暫くのあいだ先生は唸りながら首を傾げているようだったが、やがて顎に手をあてて、まあいいかと呟いた。それでいいのか。まあ助かるが。

「そりゃあ、ねえ」

 予想通りだが……。

「……落ちた奴らは、全員彼女のような?」
「うんにゃ、それはないよね」

 先生は顎にあてた手を離して、人差し指をぴんと立てながら片目を瞑る。思い出すように左目が時々宙を彷徨っては止まってを繰り返していた。

「出席状況が悪いとか、試験自体を真面目に受けてない……っていうかすっぽかした奴もいるしね。全く、男はボク直々に去勢してやりたいよ」
「女は?」
「孕ませる」

 ……駄目だろ、この先生。代えろよ誰か。頼むよ。
 ともかく、まともな方法で当たって砕け散ったのはティエぐらいって事か。予想の範疇ではあるが、確信を持つと改めて少しショックだな。俺が受けてどうするって感じだが。

「……ねえ、シグルド君」
「はい?」

 考え事をしていたら、自然に顔が逸れてたらしい。妙に落ち着いた声がする方を向くと、普段のおかしなテンションが鳴りを潜めた無表情な先生の顔があった。

「正直な話、彼女は大丈夫なの?」
「……」
「心配なんだよね、これ。私達も講義の中でちょくちょく手は打ってるんだけど、ほら……センセイだからね」

 そこまで言って、目の前の女性は言葉を切った。切られた言葉は、直前の単語から、続きを推測する事は簡単だった。距離って問題は時に大変面倒で、そんな面倒な苦労を大人になると余計にしょいこまなきゃならないのかと思うと今からでも少しうんざりする。
 そういう事に悩むのだから、先生達もまた、小さな後輩を心底心配しているんだろう。ティエは自分が思うよりずっと愛されてる事を自覚すべきだな。
 心の動きを押し隠すようなリィル先生の表情に、自然と昨日のことを思い出す。

「多分、そこまでは心配しなくても大丈夫ですよ」
「……信じていいのかよくないのか、微妙な事を言うね」

 苦笑するしかなかった。
 彼女はよく泣いていた。……俺の思い過ごしでなければ、恐らく再試験はそれほど恐れるものでもないだろう。思うだけだから保証はできず、うっかり『多分』なんて言葉が出たが。
 まあ、彼女の前でなければ少しぐらい曖昧な言葉を使っても構わないだろう。

「あと一日あれば、はっきり確かめられるんですけどね」
「何が?」
「いえ、こちらの話」

 果たして彼女のあれは、昨日だけの突然変異のようなものなのだろうか。まさに暗雲に一筋の光明が降り注いだようだっただけに、これで気のせいだったりしたら精神的に厳しい。
 ……もっとも、相手をしていた俺が彼女の変化の理由を上手く言葉で表せないわけで、こんな事を考えるのはおかしいかもしれないが。分かっている事は彼女がずいぶん性技に、そして淫らになる事に積極的であるぐらいか。

「……分かった。大丈夫そうで安心したよ」

 表情に、何か出ていたんだろうか。
 さっきまで無表情だった先生の顔は、満面……とはいかないまでも、四分の三面くらいの笑みに変化していた。書類をまとめて机でとんとん、と揃えはじめる。

「あんまりそう言われるのも、却って心配になりそうですが」
「あははは、大丈夫大丈夫。任せたから精一杯やりなよ」

 そう言ってばんばんと俺の肩を両腕で叩くと、じゃあねと手を振って踵を返し、先生は教室の出口に向かっていった。身長が低い先生が俺の肩を叩くのは、無理をしているようでちょっと微笑ましい。というか笑える。言わないが。
 聞くことは聞いたわけだし、俺も行こう。踵を返して、もうほとんど人がいなくなっていた教室を後にする。
 昨日の快晴は長くは続かず、廊下はひんやりとした空気に包まれていた。まぁそれでも、この冬風が吹き始める季節を考えれば随分とマシな方だ。
 時間に余裕があるとはいえ腹も減った。さっさと友人共と合流して、飯を食うとしよう。
 遅れて勝手に食って勝手に帰っていたなどという最悪の事態は勘弁願いたい。予防策として連絡をしようと懐に手を突っ込んで、空振りする右腕。

「――ぱい」

 ……ん? 何処に突っ込んだっけか?
 慣れない事をしてると、いつもちゃんと仕舞ってるものさえ見失うんだろうか。ああ……いや、あった。

「あの、先輩」

 小さい声だったが、多くの人間は何故か振り向かなければならない気持ちにさせられるだろう、意思の通った強い声。
 その大勢の例に漏れず振り向いた俺の目の前には、左手にバッグを提げて、こちらを見上げてくる女の子。艶のある黒い髪の上で揺れる青いリボン、少しだけ不安が入り混じったような、奥が見えない黒い瞳。

「……ティエ?」
長すぎて弾かれたので後編に続きます。

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