「――騎士が剣と盾と信念を以って、民を守る時代は終わった!」
熟年した騎士団長は、複雑な面持ちを隠さずそう高らかに宣言をした。
その眼下には、この王国の最強であり、最初の槍であり、最後の懐刀である近衛騎士団の面々。彼らもまた、複雑な、どことなく重たい雰囲気で団長の言葉を静聴している。
王都に隣接して設けられている練兵場。そこに集められた精鋭騎士の姿は、数えられる程度しか存在していない。先日の『戦闘』で、悪魔との対決に一番槍として赴いた近衛騎士団は全滅した。命からがら逃げ延び伝令をした者も居たが、今も床に伏せっている。
数えで十数名。二十足らず。その惨状に騎士団長は悔しさをかみ締めながら、それでも成すべき事を成さねばならぬと言葉を続ける。
「此度の敵には、神官の祝福を受けた武具も、灼熱を巻き起こす魔法も通用しない!
敵の武器は、堕落――そう、我々の気高き魂ですら堕落させるその魔力に立ち向かうには、どんな重厚な武装よりも……どんな強大な魔力よりも必要な物がある!」
赤いマントを翻し、腰に提げた飾り気の無い、一振りの剣。団長が長年愛用し、相棒と名づけるに相応しい一本。
それを高らかに掲げ――地面へと、投げつけた。騎士達に動揺が走り、
「静まれぃ!」
一喝で再び静寂が訪れる。
「この剣は皆も知っての通り、私の誇りだ。諸君の動揺、私は嬉しく思う。
だが、我々には誇りよりも大切なものがある。それは何だ!?」
「民であります!」
誰がでもなく、誰かが即座にそう、震える声でそう答えた。
「そう、その通りだ! そして、今目の前の危機を乗り越え、その民を守る為に、私は覚悟の意味も込めてこの剣を投げ捨てた!
敵の情報は、諸君らも知っての通りだ。精鋭中の精鋭たる君達に、もしこの私と共に先の苦難を乗り越える覚悟があるならば――」
団長が最後まで言い切るよりも早く、何かが投げ捨てられる音が発された。それも、一つや二つではない。捨てられた何かがぶつかり合い、金属音も時折混じっている。
「――礼は言わん! だが、これだけは言っておこう!
鍛え抜かれた我らが肉体と魂があれば、必ずや神は我らに微笑むだろう!
そして――見事打ち勝った暁には、土産話を肴に葡萄酒を煽ろうではないか!」
オオオオオオオオオオ――。
怒声とも、歓声ともつかぬ声が巻き起こる。
それは、何が原因で出たものなのだろうか。
勝利への奮心か。悪魔への怒りか。
それとも――ただただ、恐怖を打ち消す為だったのか。
まだ近衛の中でも新米である青年シスには、自分の『それ』すら判別がつかなかった。
その日、王国の近衛騎士の多くは『悪魔』の討伐へと再び向かった。
『まだお前には、この任は辛い。王都に残り、万一に備えてくれ』
だが、黒髪の若き近衛騎士シスは、そう団長に諭された。もちろん反論したものの、団長の瞳を見て全てを悟った後は、もう何もいう事ができなかった。
「剣を振らない騎士……か」
王宮内にある小さな修練所。シスはそこで一人、修練をしていた。まだ二十歳前の彼が騎士団……それも精鋭である近衛に入団できた理由の一つに、剣術の腕前があった。
無論、それだけではない。戦乱の世界に生まれていれば、おそらく英雄の一人として歴史に名を連ねうるだけの様々な素養を秘めているだろう。その片鱗をいち早く感じた団長が、直々に彼を近衛に推薦したのである。
だが、此度の敵は、剣も魔法も通用しない。いや、もしかしたら通用はするのだろう。しかし、それを発揮する事が不可能に近い可能性が高い。
だからこそ、団長は――様々な予測を踏まえて、シスを残したのだ。
「でも、情報もマトモに無いのに向かうなんて無茶だ……」
シスの呟きも、もっともであった。敵は――『淫魔』と総称される悪魔。
誰が著したのかも分からない、古くかびた辞典が書庫の奥に眠っている。かろうじて生き残った近衛の情報とそれを照らし合わせた結果、此度の敵はそいつらだと判明した。
『類稀なる美貌を持ち、その愛と情の欲は神ですら容易く堕落さす。
汝が剣を持てば切っ先は定まらず、法を唱うれば最後まで綴る事難しき。
堕落を司るその魔に立ち向かうには、強き魂と――』
古代文字で綴られていたページは、そこで途切れていた。素振りをしながら、自分で読み解いたその文章を思い出し、欠けた最後のピースをシスは模索する。
「強き魂……これはきっと、堕落に負けないって事なんだろうな。でも、それだけじゃダメなんだ。きっとその後には、反撃をする為の『何か』が書かれていたはず」
そう。誘惑に耐えるだけでは、いつか崩れ落ちる。だからこそ、文章には続きがあったはずなのだ。シスは思いつく限り、様々なパーツを組み合わせ続けた。
――アテもなく海をさ迷うようなその不毛な作業に、没頭しはじめた頃の事である。
「シス様! 傷ついた騎士様が、ようやく意識を取り戻されました!」
よほど慌てて来たのだろう。メイド長が息切れしながらそう告げてきた。
「! 分かった、ありがとう。すぐに向かう!」
シスは頭の中の作業を隅に追いやり、俊足で駆け出した。
”奇跡の生還と貴重な情報”をもたらした近衛騎士は、王宮の一室で看護を受けていた。無論それは、常識的に考えればありえない事である。
だが、それほどまでに状況は重く見られていた。何しろ、常勝無敗を誇る近衛騎士の悉くが敗北し、生還者は一名のみ。その一名も、情報報告をした直後に倒れ、この二週間は目すら覚まさなかったのである。
とにもかくにも『戦闘』の経験者である一名。その存在がいち早く復帰する必要性を王も感じ取り、異常なまでの手厚い看護という運びになったのだ。
だが――シスは、近衛騎士の寝込んでいるはずの一室から異様な雰囲気を感じていた。
「……」
知らぬ間に溜まっていた唾を飲む。ノックをしたが、返答はない。人の気配はする。
シスは魔法の才もあった。それだけに感知能力も高い。だからこそ、間違いなく部屋の中では異常が起こっている事を察知していた。
もしも今、この部屋の前に立っていたのがシスではなく、感受性にも鈍い者であったとしたならば。間違いなく、いち早く対面をする為にドアを開いていた事であろう。シスは深呼吸を挟み、左腰の剣の感触を確かめてから、押し込むようにドアを開いた。
「――へ?」
そして、時間が止まった。いや、実際にとまった訳ではない。シスの目の前の光景は、剣柄に手をかけた客人を前にしても、続いていたのだから。
まず、男女が一組。男は、見間違えようがない。生還した騎士である。そして女性は乱れた着衣から、彼の看護をしていた宮仕えの女性なのだろうとも分かった。
だが、シスには理解ができなかった。
「ききき、貴様ら……何をしているっ!」
予想外すぎる状況に、シスの声はパニック丸出し。
男は全裸だった。獣のような顔つきで、女性の控えめな胸にしゃぶりつき、唇を舐り上げ、病み上がりとは思えないほど激しく、腰を動かしている。
一方の女性も女性で、乱れた着衣を直す素振りも、男を押し返す様子もない。それどころか逆に、自分を組み伏せている男の背中に両手を回し、息も絶え絶えキスを迫る。
何をしているかなど、説明をするまでもない。そして二人とも、入ってきたシスの事など全く気にも留めていない。むしろ、自分が場違いなのではないか。そう錯覚させるほどであったが、ここは王宮の中。それもまだ日も高い時刻である。
「こ、ここ、ここをどこだと――」
二人を引き剥がす為、シスは歩を進めた。瞬間、真後ろからのただならぬ視線を感じ、振り向きざまに一閃を放った。だが、剣は風を斬る。
『あらら、やるわね。まさか、私に気付くほどの者が城に残っていただなんて』
おどけたような声が、再び真後ろから。剣を抜き放ったまま、
「……何者だ?」
振り返らずにそう問いかけた。くすくすと笑う声が聞こえる。瞬間、
「ふおっ!」
ずるり。ぞくっ、とシスは背筋が伸び上がり、情けない声をあげていた。
突然、右耳にぬるりとした感触。全体が熱いものに包まれ、穴の中が柔らかな感触で犯されてゆく。思わず取り落としそうになった剣を握り締め、後ろの『何か』を振り払う。
だが、再び宙を舞う剣。単純に避けられているのか、それとも何か魔法を――。
「そんな危ない物、振り回しちゃダメよ?」
今度の襲撃は、左耳だった。何をされていたのか、今度はハッキリと理解した。
艶やかな声が届いた直後、剣を握る腕に細く白い指が絡められる。右肩、足にもしなやかな肉体が絡みつき、振りほどこうとした時にはもう遅かった。
じゅるっ! 柔らかな感触の肉体が押し付けられ、左耳が強烈で、情熱的なキスを受ける。唾液と舌が鳴らす淫靡な音と、脳にまで入り込みかねない熱い舌の挿入。
女性経験など皆無なシスが剣を落とさなかった事は、まさしく奇跡であった。ようやく唇から開放された左耳は完全にふやけ、股間は興奮に素直で既に膨らんでいた。
「お、お前は――」
それでも、シスは堪えていた。何とか左を向いた眼前に、紅の瞳と唇が迫る。
「凄い精神力ね。これは……ご褒美かしら?」
言葉を紡ぎかけたシスの唇を唇で閉じ、肩に回していた腕をずらして頭を引き寄せる。
『ほら、もっと、可愛い顔を見せて……? ふふっ』
耳ではなく、脳に声が届く。紅の双眸の小悪魔的な視線に耐えかねて、シスは思わず瞳を閉じていた。だが、それが逆効果となる。余計に感覚が研ぎ澄まされ、唇だけでなく口内まで侵略にかかっていた口撃を、更に感じ取る事になってしまったのだ。
舌を押し返そうとすれば、逆に巻き付かれ、絡め取られる。
そこから逃げ出せば、無抵抗となった口内粘膜全てが犯される。
どんどん流し込まれる唾液は飲み下すしかないが、それも再現がない。
――どれほどの時間が経過したのだろう。
実際は数十秒と経過していないのだが、シスにはそれが数十分にも感じられた。ようやく拘束から開放される。お互いの唇が唾液でぬめり、シスは完全に呆けていた。
腰まで届く銀髪に、紅の瞳の女――いや、淫魔は唇を一舐めし、いやらしく微笑む。
「凄いわ……貴方。これでもまだ、剣を手放さないだなんて……」
その言葉で、シスが我に返った。チュニックの袖で唇をぬぐい、乱れた息もそのままに剣を構える。目の前に居る相手は、間違いなく件の淫魔。なぜここに居るのかも分からないが、それでも倒すべき敵に変わりはない。
だが、剣を振るおうにも、体が震えて動かなかった。踏み込もうにも、足が動かない。
「な……あ……?」
それだけでなく、口も回らなかった。それを見て、さもおかしそうに淫魔は微笑んだ。
「ふふっ、流石に剣は振り回せないみたいね。でも、気に入っちゃった」
そして、剣をかるく手でずらし、再びシスに密着する。香水とは違う芳香が、シスの鼻腔を突いた。凛とした美女の顔と吐息が、更に興奮を掻き立てる。
「本当はもうちょっと遊んであげたいんだけど……そろそろ、人が来ちゃうからね。お礼に、ちょっとした贈り物……」
言うが早いか、シスの額に静かに口付けをしてくる。だが、先ほどまでとは違う。ねっとりと尾を引くようなものではなく、まるでおごそかな聖女の洗礼のようなキス。
何事か呟いてから、淫魔はシスから静かに離れた。
「私の名前はハイネス。淫魔だから……貴方の敵かしら? ああ、貴方のお名前は、さっきので十分感じ取ったから言わなくてもいいわ。それじゃ――また、会いましょ」
そして、まるで友人か何かに告げるかのような軽さで、ハイネスと名乗った淫魔は消えた。転移魔法を使ったのだとシスは瞬時に理解したが、全身が急激に重くなる。
剣を軸に堪えようとしたが、耐え切れずに横から倒れこみ、けだるさに身を任せた。
――最後に、部屋に入り込んできた誰かが大騒ぎをしていた、ような声が聞こえた。
目が覚めた時、シスは近衛騎士達の為に設けられた仮眠室に寝かされていた。
「……確か――」
記憶を思い起こす。王宮の一室での出来事。そしてあの淫魔。ハイネスという女。
ついでに、された事までも。寝起きにその記憶は刺激が強かった。
シス自身、ああいったタイプに絡まれた事など経験がなく、自己嫌悪に陥りつつも興奮だけは抑える事ができなかった。自分の股間を見て、大きく溜息をつく。
「一体、何が目的で……」
だが、それを恥じている場合ではない。剣が当たりもせず、不本意ながら一方的に弄ばれた。そして、高度魔術である転移魔法を易々と行使する。おそらく、シスの望む形での真っ向勝負をしていたとしても、勝ち目は薄かっただろう。
それほどまでに相手は強力で――何の策も持たず向かった近衛騎士団が敗北する事は、今のシスにとっては容易い予測である。そう、こんな所で寝ている場合ではない!
立ち上がったシスは軽く服装を整え、礼式用の甲冑すらつける時間を惜しんで走った。向かう先はひとつ、この国を治める賢王の間である。
「待たれよ! いくら近衛騎士殿と言えど、そのような格好では――」
部屋の前に到着したシスは、言うまでも無く屈強な衛兵に止められる。例え、儀礼用の装備一式をしていたとしても、易々と入室が許される訳でもない。だと言うのに、今のシスの格好は、鍛錬した時のままのチュニックとズボンという普段着状態なのだ。
だが、その制止を振り切って、シスは王の間へと飛び込んだ。
豪華ではないが質素でもない広い一室には、国の首脳と言える面々が勢ぞろいをしていた。死地への遠征に赴いた騎士団長を除いて、であるが。
「無礼者が、今は会議中であるぞ! しかもそのような服装で!」
王の横に控えていた初老の男性。王の右腕でもある大臣が、一喝する。シスは跪き、
「どのような処罰であろうと覚悟しております! ですが、一刻も早く報告しなければならぬ事。どうか私に、説明の時間を!」
そう、強く答えた。その場に居た大半の者は、礼装もしていないシスの事を蔑んだ目で見下していた。頭を下げたままのシスは、このまま牢屋行きすら覚悟をする。
「ふむ――話を聞こう。頭を上げるがいい、シス」
だが、賢王その人の言葉で、ふっとプレッシャーが消えた。
「王よ、このような真似を許す事は……」
渋い顔をする大臣を、王は手で制した。まだ王は歳若く、破天荒な面もある。それを承知した上でも、無意味な例外を残すべきではない。
「分かっているよ。だが、今は知恵や情報が必要だ。そして、そこのシスはあの騎士団長のガロが推薦した男だ。いたずらにこのような真似をするとは思えんさ」
そう諭され、仕方ないと渋い顔のまま大臣は黙った。賢王は顎でシスに促す。
「先刻、私はこの城の中で、淫魔――と名乗る女と遭遇しました」
ふむ、と王は頷く。
「そうであろうな。生還した騎士が目覚めたと聞いて向かえば、剣を抜いたまま失神しているお前と、何かが憑いたかのようにメイドを犯す騎士。私とてあのような状況に遭遇すれば、その程度の想像はつく。それで?」
「はっ……実際に戦闘――いえ、戦闘とも呼べない惨めなものではありますが、それを経験した上で取り急ぎ。早急に、討伐遠征に向かった騎士団を呼び戻す必要があるかと。このままでは、先日の二の舞になります」
ざわっ。一瞬だけ動揺が走ったが、すぐにそれは消える。賢王が次を促したからだ。
「強い精神と反撃の一手さえあれば戦える。私はそう考えておりましたが、決してそうではありません。奴らは姿を消し、そして転移魔法を容易く操る程の魔力の持ち主。そのような強敵に、無策でぶつかるのは不利と進言いたします」
そこまで告げて、再びシスは膝を突いた。ざわざわと言葉が飛び交い始める。髪と同じ緑毛の眉を顰めていた賢王だったが、がたりと玉座から立ち上がる。
「そうか……我々も今、その事で会議を開いていたのだ。お前のその身を賭した報告、確かにその覚悟に見合うものであった。何しろ、唯一の生還者は、女狂いの狂人と化していてな。本来ならば話を聞きたかったのだが、そうもいかなかったのだ」
女狂い。シスはその言葉に、同意せざるをえなかった。
少なくとも、マトモではない。分別を弁えた近衛騎士……いや人間であれば、絶対にしないであろう行いをしていたのだから。
「不本意だが、野放しにすれば他のメイドにも何かがあるかもしれん。話を聞けるほど落ち着くまでは、牢に入れておくしかなかろうよ。
……さて、シスよ。騎士団にはすぐ伝令を飛ばそう。お前は下がり、体を休める事だ」
シスはその言葉に、仰々しく礼をして王の間を後にした。
その夜。シスは仮眠室で考え事をしていた。どれも最終的には、淫魔に帰結する。
――突然に現れた奴らは何者なのだ?
間違いなく強い。誘惑とか堕落とか、淫魔としての特色を取り除いたとしても、かなり手を焼く相手である事だけは間違いない。ならばなぜ、今まで現れなかったのか?
――勝てるのか?
……自信がない。自分だけは違うと思っていたが、あのハイネスという淫魔には、剣がかすりもしなかった。そして、当たっていれば勝てたかどうかも、定かではない。
――ならば、どうする?
分からない。シスはそこまで考えてから考えることをやめて、眠りにつこうとした。
キィ……。静かに、木製のドアがきしむ。シスは目覚めていない振りをしつつ、暗闇の中、手探りで枕元に置いてある自分の剣を探し当てた。
既に夜も遅く、近衛騎士は今、この城に自分を含めて数名しか居ない。自分以外の騎士は、近衛の中でも団長と同格の『王騎士』である。王と共にあり、王の剣と盾となる騎士として最高の名誉を持つ者。彼らは王宮の中の、王の間に近い部屋で暮らしている。
ならば――ここに入って来るものは、疑うべきだろう。金目のものこそないが、それでも置いてある装備の数々は、それなりに高価なものである。そして今、この部屋はかなり手薄であり、賊が侵入するにはうってつけであった。
足音を立てていないつもりなのだろう。だが闇の中、研ぎ澄まされた感覚はかすかな足音すら逃さない。何者かは一直線に、シスの横たわるベッドへと向かってきている。
「――何者だっ!」
薄手の布を吹き飛ばすように捲くり上げ、間髪居れずに抜き放った刃を向けた。その先に居たのは――まだ記憶に新しい。騎士と交わっていた、あのメイドである。
「あ、え……と、その……」
狼狽するメイド。それもそうだろう。何しろ、殺されかねない勢いで剣を向けられているのだ。シスはようやくそれに気付き、剣を収める。
「……申し訳ない。状況が状況だけに、気が立っていたもので。それで、このようなお時間に、何か用件でしょうか。急ぎでないなら、明日にしてほしいのですが。
それに――このような時間に、まだ若いキミがここを訪れるのは感心しない」
そう口早に告げると、急にメイドはシスへ抱きついてきた。艶やかな栗色の髪と仄かに香る表現しがたい良い匂いが、心臓の鼓動を早める。
「ななな、何を――」
狼狽するシスをメイドは体重をかけて押し倒した。ぎしり、と質の悪いベッドが二人分の体重できしんで沈む。胸元に抱きつかれたまま、シスは状況が飲み込めず慌てる。
「シス様……」
潤んだ瞳で見上げられ、更にシスの鼓動は加速した。清楚な表情と可憐なその唇に名を呼ばれ、わずかにはだけた襟元の色っぽさに生唾を飲む。
ぎしり。メイドは身動きが取れないシスの唇に迫る。
「ひゃん!」
思わず押しのけようとしてしまっていた手が、最高……いや、最悪な場所に触れる。豊かではないものの、服の上からでも独特な柔らかさがよく分かる部位に触れていた。
メイドは一瞬だけ驚いたものの、すぐに淫らな笑みを浮かべた。そして一旦、シスの上から離れた。立ち上がって意味ありげな視線を送り、
「服の上からでなくても……いいのですよ?」
半分近く外れていたエプロンドレスのボタン。その残りを外し、自ら引き下ろす。
僅かな月明かりの下に白い肌が露になり、シスはその胸から視線を外す事ができない。
――綺麗だ。
先ほどまでのパニックと凛々しい態度はどこへやら。彼は素直にそう、思っていた。
同時に、いまだ茶色いぼけたドレスに隠されている下半身。それも見てみたい、という欲望が沸き起こる。
「シス様。私だけでは不公平ですよ?」
小悪魔のような笑み。それはシスの思惑を理解した上で、じらしたようでもあった。
「あ……そ、そうだね」
まだ幼さの残る黒髪の青年は、素直に頷いていた。有事に備える為につけていた、短刀や魔法石が入った腰のベルトとダブレットを脱ぎ捨てると、頑強な肉体が姿を現した。
その容姿に、ほう、とメイドは熱を帯びた溜息をつく。
「素敵ですわ……では、こちらは私がお手伝い致しましょう」
言いながら、メイドはベッドに座り込む体勢となっていたシスの前でかがみこむ。その動きは予想外に早く、ズボンを脱がされると気付いた時には、もう脱がされていた。
全て脱がされ、露になるのはこの先の期待からくる興奮。その象徴であり、立派に主張する男性器を見て、メイドは頬を染めながら唇を歪めていた。
白い指がペニスを軽く握り締めると、それだけでシスは軽い反応を見せてしまう。瞑ってしまった目を見開くと、淫靡に微笑む彼女と視線が交差した。
――遊ばれている?
期待と不安の入り混じった表情を隠す事はできなかった。彼の表情にメイドはにんまりと笑い、勃起したそれに小さな唇を近づけてゆく。
「あ……はぁっ!」
それが苦痛であれば、声を上げる事もなかっただろう。まだ刺激を受けた事のない、それも一際敏感な先端部。そこを軽く舐め上げられ、初めて味わう甘美な電撃に、シスは抗う術を備えていなかった。
だが、余韻にひたる暇すら与えては貰えない。二度三度と舐め上げ唾液をなすりつけ、時にはわざと垂らし添えた手をシェイクする。その動作の一つ一つで、シスは痙攣する。
ぬちゅっ、ぬちゅっ。粘着質な音が静かな部屋に響く。眼下で広がる淫らな光景と、自らを見つめる興奮した様子のメイドの瞳。そこからシスは目を離す事ができない。
完全に勃起したペニスが唾液でぬめった光を帯びる頃には、既に息が上がっていた。自分の体液とシスの体液が入り混じった右手を一舐めする仕草に、ペニスは更に反応する。
「も、もう……」
直接的ではあるが、どこかもどかしい愛撫。シスの頭からは既に、場所や状況などの事はすっかり頭から抜け落ちていた。あるのはただ、この快楽の苦痛からの開放だけ。
清楚。最初にそう感じた印象ごと払拭するかのような、彼女の舌なめずり。彼はその仕草にどこか見覚えがあったものの、考え事のできない状態で気付く事はなかった。
「それでは……失礼致します」
にこりと微笑み、メイドはペニスを飲み込むように、口に含んだ。熱い粘膜と、その中で敏感な部分を這い回る独立した生物のような舌。シスは声もなく仰け反ってしまう。
――す、凄い。こ、こんな事があったなんて――。
シスは女性経験が皆無である。幼い頃に騎士団長のガロに拾われ、騎士としての礼節、作法や剣術、そして魔術。そういった知識は散々叩き込まれたが、まだ成人したばかりであり、鍛錬に人生を費やしてきた彼が女性と関わる機会などあるはずも無かった。
そんな彼が初めて経験した感覚は、おぞましささえ覚えるほど甘美であった。知識にはあったものの、そんなものすら吹き飛ぶ快楽。そして、清潔を心がけてはいるが、鍛錬で汚れた体を厭わずに口に局部を含む。それが更なる興奮を掻き立てる。
緩慢な動作であった口腔での愛撫は、次第に強さを増してゆく。
一息に喉奥まで飲み込んだかと思えば、ゆるゆると唇で表面をなぞりあげ、裏筋を舌が突付き、舐め上げる。カリ首に唇が差し掛かると締め上げ、鈴口を舌先で刺激。
一介のメイドが行うには、あまりにも手馴れた動き。だが、強烈な快楽が突き抜ける度にシスはびくりと震え上がり、その違和感に気付く事はない。
頭が動くと同時にさらりと揺れる髪が、シスの太ももに軽い刺激を与える。それすらも微弱な快感となり、ついにシスは限界を迎え――。
びゅるっ!
「んっ!」
青年の全身は強張り、女性は口内に放たれる青臭い体液を静かに受け止める。初めこそ驚いて声を上げてしまったが、それでも受け止め損ねる事はなかった。
二度、三度と痙攣は続き、ようやくそれが止まる。どさりとシスが倒れこむと、
「シスひゃま? ごらんくだひゃい」
メイドはそう、舌の回らない声で告げてくる。ようやく欲求が快楽、それもとてつもない快楽によって満たされ、満足感のまま眠りにつきたかったシスが再び起き上がる。
そして、我が目を疑った。シスの放った精液を、メイドは口内に溜め込んだままであったのだ。しかもそれを、見せ付けるようにして大口を開けている。
――汚い、早く出すんだ。
そう告げようとしたが、シスの口は動かなかった。いや、本来なら動いたのだが、ある種の予想がそれを言うなと止めていたのだ。
そして彼の予想通り、メイドはその欲望の具現化したような塊を、舌で弄ぶ。赤い粘膜と、黄ばんだ欲望が絡み合う。その光景はとてつもなく刺激的で、目を離せなかった。
「――ふふっ、美味しゅう御座いました」
シスのその獣じみた視線を楽しみながら、彼女はついに飲み干し、笑う。唇の端に垂れていた精液を指で掬い、名残惜しそうに、丹念に舐め上げる。
既にペニスは、欲望のままに再び反りあがっていた。唾液でまみれたその肉棒は、次なる快楽を期待してぴくぴくと震えている。
『――あら、このまま快楽に流されて、いいのかしら?』
メイドがついにエプロンドレスを全て脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿でベッドに上がる。可愛らしい顔も、控えめな胸も、白い肌も、抱きしめたら折れそうな華奢な体も、全てが今のシスにとってはこの上なく愛しく、欲望の対象となっていた。
『――どうするの? このまま彼女とシちゃうのかしら? ふふっ』
ぎしり、ぎしりと音を立てながらメイドがシスに迫る。既に股間からは、白ばんだ粘液が溢れんばかりに零れ落ちていた。太ももはおろか、ベッドにまで滴っている。
『――この程度で落ちちゃったのかしら。残念ねぇ』
「うるさいな……」
「……シス様?」
シスが自分でそう呟いた事は、メイドが心配そう――いや、獲物を見る目で声をかけて来た事で、ようやく気がついた。
そこで、はたと思いなおす。自分は何をやっているのか、と。
『あ、待ちなさい? ここで暴れても、貴方に良い事はないわよ?』
剣を手に取る。その動作に出る前に、脳内に声が響いていた。声の主はハッキリと分かる。シス自身を先ほど手玉に取った、あの淫魔ハイネスの声だ。
だが、彼女の言うとおりであった。剣を手にとってどうする。
メイドを斬るか?
それこそ正に、愚の骨頂。シスは騎士団を追われるか、民を斬った罪で処刑される。
ならば、脅して追い返すか?
いや、それも無理だろう。何しろ、か弱いメイドを剣で脅して、無理やり行為に及んだなどと説明してメイド長にでも泣き付かれれば、自分の不利は否めない。
『彼女は、淫魔に取り付かれているのよ。あ、私が憑いている訳じゃないからね?』
不可解な声が脳に響く。だが、そうこうしている間にも、メイドは迫っていた。このまま先ほどのように誘惑され押し倒されれば、シスは間違いなく堕ちる。
自分でそう理解してしまえるのが、情けなかった。
――この状況を打破するには、どうすればいい?
シスは、一縷の望みに全てを託し、敵であるハイネスにそう念じた。
『簡単よ。彼女を愛してあげなさい。心の傷に、淫魔が取り付いているの。彼女を心から満足させてあげれば、取り付いた淫魔は居場所を失い、彼女は元に戻るわ』
愛す? 何の面識もなかった彼女を? どうやって?
様々な疑念が浮かぶが、手段などほとんど思いつかない。
『何も思いつかないなら、交尾でもしてあげなさいよ。ああ、さっきみたいに一方的に犯されるんじゃなくって、ちゃんとした交尾よ。愛し合う、って事』
呆れた様子の声。見てたのか……とシスが思う間もなく、メイドは既に眼前。
――ええい、もうどうにでもなれ!
シスはメイドに先手を打たれる前に、彼女を強く抱きしめた。心臓の鼓動が重なる。
そして、肩に手をあて、真っ直ぐに見つめた。
「キミの……名前は?」
瞳をそらさず、ゆっくり、しっかりとそう問いかける。メイドはしばし顔を赤らめ、
「アニー……です」
そう、静かに答えた。月夜の静寂が、一時だけ場を支配する。
シスは肩に回した手を狭め、アニーを手元に引き寄せる。そして口付けを交わした。
深く、甘いキス。昼間、ハイネスに受けた強烈な愛撫を思い出し、それをゆったりとしたペースで再現する。
侵入させた舌は、舌の歓迎を受ける。確かに相手は淫魔のような技巧を持っているが、ハイネス程ではなかった。どちらが主導権を握るでもなく、お互いに全てを絡めあい、唇を離した瞬間には唾液のアーチが結ばれていた。
『――やるじゃない。でも、ここからは私が手伝ってあげるわ』
ハイネスの声。何をすべきか、それを自然とシスは理解していた。
自らの膝上にアニーを乗せて抱きしめ、静かに押し倒す。
「あっ――」
そして、控えめの白丘に手を伸ばした。首筋や胸元に軽いキスを繰り返しながら、シスの唇は胸元に到着する。左手で柔らかな感触を味わいながら、空いている左胸に吸い付いて、赤い実を甘噛み。びくり、とアニーの体が反応した。
強すぎたのだろうか。今度はできる限り優しく、先ほどまでのようなキスを続ける。そして、時折混ぜる甘噛み。左手は胸を揉み、軽く乳首をつまみ、そして揉む。
「う――」
だが、アニーも一方的に愛撫をされているだけではなかった。直立したままのペニスが柔らかな感触に包まれる。そのまま両手でしごかれ、シスは呻いてしまった。
『ほら、動じないの。愛し合うんだから、この位は当たり前。むしろいい傾向よ。淫魔の意識を押し込めて、今は彼女自身が、貴方を悦ばせようとしてくれているの』
確かに、先ほどのような強烈な愛撫ではなかった。むしろ、心地よい。精液を搾り取るのではなく、確かにどこか『愛情』のようなものがある、そんな気がした。
シスは胸への愛撫を続けたまま、左手が下へと降りてゆく。まだシス自身、本でしか見た事のない、秘密の花園。だが、ハイネスの誘導もあってか、躊躇することはなかった。
「ひゃんっ!」
だが、性急すぎた。アニーは顔を赤らめたまま、むっと膨れた様子でシスを見つめる。
――か、可愛い。
『なーに惚気てんのよ! ほら、ちゃんと謝りなさい! 女の子はデリケートなの!』
「あ、ご……ごめん。その……ちゃんと、してもいいかな?」
自分でも、意図が伝わったと分かりにくい言葉だとすぐに分かった。だが、アニーはしばらくしてから頷き、シスのペニスから手を離す。そして、下へと降りてゆくシスを、期待と恥ずかしさの入り混じった表情で見送っていた。
――う、うわぁ。なんていうか、生き物……って感じ。
『……当たり前でしょ? 人間なんだから』
先ほどまでの愛撫がそれなりに功を奏していたのか、分泌された粘液で淫靡に輝き、呼吸をするかのような動きを見せていた。だが、聞いていたような、鼻につく独特の匂いは全く感じられない。これも、淫魔のせいなのだろうか。
指を一本、突き入れる。ぐちゅっ、と口よりも熱く感じられる粘膜が、指を盛大に歓迎していた。その感触に、シスはこの上なく興奮をする。
『ちょっと貴方。興奮に身を任せれば、ここまでの事が台無しなんだからね』
このまま、突き入れたい。そして、昼に見た光景のように、腰を一心不乱に振りたい。
その欲望を押し留めたのは、冷静なハイネスの声である。シスはアニーの膣が十分に濡れている事を確認すると、顔を上げた。そこには、顔を真っ赤にした彼女の姿がある。
「アニー……入れるよ?」
数秒の沈黙の後、彼女はこくりと頷いた。まるで生娘のような恥ずかしさを隠さないそれは、芝居なのだろうか。どこか冷静にそうシスは思っていたが、
『ほら、女の子を待たせないのっ!』
ゆっくりと、できる限り興奮を抑えて、優しく彼女の脚を押し倒す。間近に迫るのは、アニーの顔。いくよ、と呟きシスはじっくりと挿入した。
思わず声を上げそうになる感触。口とはまた違う、ねっとりとした熱さ。手と口の愛撫よりも激しさはないが、それでもシスにとっては未体験の快楽である。
涙ぐんだ瞳が目についた。シスは、自分からアニーにキスを迫る。彼女は応じた。
浅いキスをしたまま、腰をゆっくりと動かし始める。粘膜にペニスが擦れる度、彼女が快楽に嬌声を上げる。そして、締まる膣により、シスもまた強烈な快感を受ける。
それでもシスは、必死に堪えた。今すぐにでも、精液を出したい。出して、この愛しい女性を汚したい。欲望に流れれば、それはすぐにでも実現できただろう。
「アニー……」
月明かり。自らの下で喘ぐ女性に呼びかける。潤んだ瞳がシスを見つめる。
「シス様……私、もう……」
息も絶え絶えに、そう告げてきた。そして、ぎゅっと抱きしめてくる。密着した感触はとても柔らかく、彼女は守るべき人なのだ。彼を支えていたのは、その一念が強かった。
欲望に流れれば、彼女は救えないだろう。だからこそ、今なお続くこの淫靡なぬかるみが与える、強くゆるやかな快楽に耐えたのだ。
強く抱きしめられ、強く抱きしめ。シスは一気に腰を振る速度を速めた。嬌声が速く高まり、ベッドの音もそれに応じて激しくなってゆく。
そして、全てがはじけた。
「あっ、あっ、あ――!!」
一際大きな嬌声。熱い精液が体内に溢れる感触がトドメとなり、彼女は達した。シスもそれは同じことで、まるで全身全てを放ってしまったかのような虚脱。そして同時に、満たされた感覚を味わっていた。
――直後、彼女の全身から、桃色の煙のような気が発される。
それは中空で集まり、次第に人型をとってゆく。満足げに失神したアニーを静かにベッドに寝かせ、シスは立ち上がり剣を手に取る。が、腰から下がぷるぷると震えていた。
それが収まるよりも早く桃色の煙は完全に人型となり、桃色の髪の少女が姿を現した。いや、少女なのは見た目だけで、彼女も淫魔だろう。
「やるわね、アンタ。まさか一度堕ちてから、立ち直るなんて。人間にしては見直してあげるけど――生かして置く理由は無いわよね?」
言うが早いか、淫魔はシスに飛びかかり、両手を押さえ込む。その唇は、舌は、裸の肉体は、アニーの比ではない。魅了も堕落も堪えたが、眼前に迫る顔を止める手はない。
「――そうかもしれないわね。でも、残念。死ぬのは、貴方よ?」
万事休す。そう覚悟を決めた時、先ほどまで脳に響いていた声が、真上から聞こえてきた。シスだけでなく、桃色の淫魔も上を向く。
そこには――微笑を浮かべるハイネスが居た。淫魔はそれを見て、
「な、き……貴様は!?」
驚愕した表情を浮かべたが、既に遅かった。その背後にハイネスが回りこみ、慣れた手つきで淫魔の全身を愛撫する。間近で見ていたはずのシスにすら分からない早業だった。
「あ、あ、あああああ!」
絶頂した淫魔が、再び煙と化した。それは窓から逃げ出そうとしたが、ハイネスが全て吸い込んでしまう。彼女はその煙を吸い込んだあと、面白くもなさそうな表情を見せる。
「ふう……たいした淫魔じゃないわね。魔力も並ってとこかしら」
肩をすくめながら彼女が地面に降り立った。シスは剣を構えようとして、やめた。
「……ハイネス。キミは一体、何者なんだ。淫魔と名乗ったにも関わらず、まるで俺を助けたかのように思える」
命を救われた。それが淫魔とは言え、そんな相手に剣を向けられるほど、シスは割り切れる騎士ではなかった。それを見て、嬉しそうにハイネスが笑う。
「ふふ。私は淫魔。貴方達にとって私は敵でしょうけれど、私が敵かどうかを決めるのは貴方。そういう事。分かるかしら?」
まるで謎かけのような言葉であった。だが、シスはすぐに口を開く。
「淫魔も一枚岩ではない、という事か?」
その回答に、ハイネスは再び、楽しそうな笑みを浮かべる。
「そうかも、ね。ふふ。ただの気まぐれ、かもしれないしね?」
答えになっていない答えを受けてシスは大きく溜息をついた。
それを見てまた、彼女は笑っていた。
翌日。アニーは、昨晩のことなどすっかり忘れていた。
無論、昨晩のこととは、シスとの一晩の逢瀬である。
狂人と化した騎士に犯された――正しくは、淫魔に憑かれた騎士がアニーを犯し、彼女に乗り移ったのだろう――記憶は残っていたが、それによる心の傷はすっかりと癒えた様で、元気に働いていた。
元々、アニーはシスに恋愛感情を抱いていた訳ではない。ただ、淫魔が誘惑するには手ごろな相手であっただけのこと。淫魔の記憶を失えば、シスへの感情も忘れるのだ。
騎士に対する不安と、恐れ。自分なりの『優しさ』が、それを癒した。出来事を忘れられた事は少しだけ悲しかったが、そう思うことで彼は少しだけ救われていた。
そして今、シスは王の間へと向かっていた。
――騎士に淫魔を忍ばせ、伝令として戻した。性悪女の考えそうなことよ。
装飾の施された、近衛騎士専用のプレートメイル。礼装用と戦闘用を兼ねたその身支度で歩きながら、昨晩のハイネスが去り際に告げた言葉を思い出していた。
淫魔は、一枚岩ではない。ハイネスが自分に協力する理由は分からないが、意味深なその言葉は、彼女の自分を助けた行動は、それを暗に示していた。
『私は貴方にマーキングをした。だから、貴方の場所ならどこであろうと飛んでいける。それに、念話もできる。便利でしょ?』
便利でも、困るのだが。何しろ、思考が筒抜けな状態なのかもしれないのだ。
『あら、大丈夫よ。私だって、四六時中、貴方の事を見てる暇なんて無いもの。
……ああでも、やっぱり暇だから、ずっと見てるかもね? ふふっ』
――やっぱり筒抜けじゃないか!
憤りたくなる思いを抑えて、王の間の前にシスは立っていた。
衛兵達が横へ退き、シスは一礼をして踏み込む。
そこには王が鎮座し、側近の数名が護衛のように周囲に立っていた。
「お呼びでございますか、賢王」
一礼をした後で跪き、そう問いかける。
「――顔を上げてくれ。これは大事な話なのだ。そこに座るといい」
……? シスは言われるままに顔をあげ、立ち上がった。そして、王の側近が用意した椅子に腰をかける。予想外の事だった。
すぐに会話が始まるかと思ったが、賢王は渋い顔をしたまま切り出そうとしない。何事かと不安がよぎるシス。ようやく口を開いた賢王によって、会話が始まる。
「昨日、お前の上申通り、私は一番の早馬で伝令を出した。
だが――騎士団は、見つからなかった」
その言葉を、シスは理解できなかった。ほんの一日前に出た騎士団が、その半日足らず後に出た早馬で見つからないなんてバカな事が、あるはずなど無いからだ。
疑問を口に出そうとしたが、それよりも前に再び王が口を開く。
「そして、もう一つ。早馬に乗せた伝令も、戻ってこなかった」
「……それは、どういう意味でしょうか」
伝令が戻らなければ、騎士団の安否が分かるはずなどない。その疑問を説明する気力もない様子で、王は一枚の手紙をシスの前に出した。
『これは、我々淫魔の手紙である。
今すぐ王の目の前に出ても良いのだが、それでは風情が無い。
我々はこの大地と、国が気に入った。
故に、全てを堕落させ、我々の楽園にする。
賢き王、と名乗る者よ。
我らに屈せず、抗って見せよ。
それこそが、我らの甘美な喜びなのだから――』
読み上げるシスの手は、震えていた。
「おそらく伝令も、魔の手に落ちたのだろう。……近衛騎士団も、騎士団長のガロもな。
これから我々は、対策を練らねばならぬ。近衛騎士の数少ない生き残りであるシス。お前はこの事実を口外せず、我々に協力をして欲しい――頼めるだろうか?」
賢王は、静かにそう問いかけた。命令をすれば、済む話である。だがそれをしなかったと言う事は、おそらく……対抗する手段が未だ、実質的に見つかっていないのだろう。
何をさせるにしても、この先、この国に居れば淫魔の手に落ちる可能性が高い。もしもシスが拒否をすれば、それを理由に賢王は騎士位を剥奪し、彼を自由の身とする。
聡明なシスは王の考えをそこまで見抜いた上で、答えた。
「協力いたします。騎士は剣と盾と信念で、民を守る者。私はそう、義父……いえ、騎士団長のガロに教えられました。ならば、私が成すべき事は、逃げ出す事ではありません」
真っ直ぐ、王を見つめ返して答えた。王は僅かに顔をしかめたが、瞳に覚悟が宿る。
「よし。その覚悟、無駄にはしない。私としたことが、弱気になっていたようだ。シス、お前には追って、特別な任務を与えるだろう。それまで、十分に英気を養ってくれ」
シスはそう告げられ、王室を後にした。
『……大変な事になっているみたいね?』
消えたままなのか、遠くからの念話なのか。ハイネスの声が脳に響く。
――それでも、やるしかない。
『ふふ。貴方のそういう所が、私って気に入っちゃったのよね』
――ハイネス。お前は、俺の……。
『言ったでしょう? 私が敵か味方かは、貴方が決めて、と』
その言葉に、シスは思わず笑っていた。
――ああ、そうだったな。
姿は見えないが、ハイネスも笑ったような気がしていた。
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