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タイトルなし 1-4

 すこし遅れた冬が、その遅れを取り戻そうとでもするかのように、町を覆っていた。灰
色の空、肌を刺すような冷風、そして薄汚れたみぞれ雪。敗北の屈辱を噛みしめるホリス
にとって、おあつらえ向きの風景といえた。
 新しい宿を探す体力も、気力もなかった。野宿をして凍え死んでもいいとさえ思った。
 倒れ込むようにして、場末の酒場に入った。サキュバス討伐事業の中心地であるこの町
の酒場は、どんな不況でも人がとぎれることはない。その酒場も、雪降る日の昼時である
にもかかわらず、二、三人の男女がアルコールを舐めながら雑談に興じていた。
 カウンターの前にどっかと腰を下ろし、エール酒(ビールのようなものを想像されたし)
を頼んだ。初老のマスターは、ホリスに一瞬だけ視線を送り、エール酒をなみなみと注い
だ木杯を置いた。
 アルコールで戦いの記憶を押し流そうと、ホリスは木杯に手をかけた。
「おい、ボウズ。景気の悪い顔してんなぁ。横、座るぞ」
 それは、女の声であった。荒くれた傭兵を彷彿とさせる乱暴な口調ではあるが、若々し
い艶のある蠱惑的な声色である。その声に、ホリスは聞き覚えがあった。
「教官……フェレイア教官ですか! お久しぶりです。覚えていますか、おれの顔」
 フェレイア、と聞けば、男の戦士候補生は震え上がった。戦士中央学校の鬼教官フェレ
イア、といえば戦士を志す男で知らないものはいない。授業の厳しさもさることながら、
教官随一の絶倫である彼女の実技教習を受けた生徒は、翌朝、太陽が黄色く見えると伝説
になっていた。褐色のきめ細かな肌と豊満な肢体は、外目には甘美だが、それを相手にす
る男子候補生たちにとっては、刃物よりも恐ろしい凶器であった。
 もっとも、どういうわけかホリスは彼女から気に入られていて、候補生時代には授業料
もままならない貧乏な彼に便宜を図ってくれたこともあった。

「おお、ホリスか。練習試合でケツの穴ひくつかせていたおまえが、戦士様になるとはな。
卒業以来、三年ぶりか」
「いいえ、教官。五年です」
 といって、ホリスは無理に笑った、つもりであったが、失敗していびつな表情を作って
しまった。感情を御しきれない自分がもどかしかった。
「どうしたんだ、ホリス。おまえらしくもない。いやに落ち込んでるじゃないか」
「いえ、なんでも、ありません。ちょっと、体調が優れないだけです」
 まさか、サキュバス相手に惨敗し、そのあげくに情けをかけられて逃がされたなどと、
恩師に言うことができようか。
「それよりも、教官はなんでこんなところにいるんです? 学校の仕事はないんですか」
 すると、フェレイアはちょっと困惑したような表情を見せ、
「いや、ははは。まあ、その、なんだ。長期休暇……というやつかな」
 年末も近いこの時期に、長期休暇とは変な話だ。もしかすると、ほかの教官や生徒との
あいだでいざこざがあって、左遷か、謹慎でもくらったのかもしれない。実力があるうえ、
歯に衣着せないフェレイアは、しょっちゅう教官や生徒と軋轢を起こしていた。
 とはいえ、ホリスにもその憶測を口に出さないだけの分別はあった。
 しばらくすると、フェレイアの手前に木杯が置かれた。エール酒だった。
「仕事の方はどうだ、ホリス。下級淫魔にヒィヒィ言わされてるんじゃないだろうな」
 にやにや笑いを浮かべながら、フェレイアは言った。思い当たることがあるだけに、下
手な返答はできない。一瞬、言葉に詰まってしまう。

「だ、大丈夫ですよ、教官。下半身のほうはだらしがないけど、手技の方は自信がありま
すから。ほら、卒業試験のペッティングも満点だったでしょう」
 どもりながらの返答。怪しんでくれと言うようなものだった。
「はっ、どうだか。カノンのやつに一分半で片づけられたのはどこのどいつだったかな」
 カノンとは、同学年の女性戦士候補生で、優秀者クラスをトップで卒業した天才だ。学
生対抗の練習試合で、運悪く彼女と当たったホリスは、試合開始からほどなくしてアヌス
に指を突き立てられ、あっという間に漏らしてしまったのだった。それ以来、「一分半の
ホリス」と不名誉なあだ名がついてしまった。
「あっ、あれは昔の話です。それに……彼女と僕とでは、器がちがいすぎます」
 思わず、うつむいてしまう。顔が紅潮していくのが、自分でもわかった。
「違わんさ。要は努力と、勝とうとする意志だ」
「でも、僕は……!」
 顔を上げ、ホリスは言った。
 脳裡に、昨晩の惨めな自分が蘇る。才能があれば、あんなことになるわけがないではな
いか。
「ふん。そういうところは、候補生時代から寸分も変わらんな」
 そういうと、おもむろに皮の袋を取り出し、酒場のマスターに投げてよこした。硬貨の
こすれあう音が、量感をともなってひびいた。
「マスター。すこし部屋を借りるぞ。このバカの根性をたたき直してやる」
 その声に応えて、マスターは部屋の鍵らしきものを取り出して渡した。フェレイアはそ
れを受け取ると、ぐいとホリスの腕をつかみ、酒場の奥へと引っ張っていった。

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