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背徳の薔薇 淫人

 レイは監禁されている大部屋で、バスケットボールを手に運動していた。
 時計がないので監禁されてからどれほどの時が流れたのかは分からないが、淫魔ディアネイラに吹き込まれた淫気によって人体を汚染され、四六時中、悶々として身体が火照るようになってしまった。
 それからは、我慢できなくなるほどの火照りが訪れそうになると、激しく動いて鎮めるようになったのである。
 自分で処理しないのは、処理してしまうとディアネイラの相手をするときに、身体がもたず死ぬ思いをするからだった。
 レイは想像で二名の敵選手を作り上げ、ピボットの練習をしていた。
 敵選手はボールを奪おうと手を出してくる。レイは軸足として使う左足をずらさずに右足を素早く動かして体の向きを変え、躱す。軸足をずらしてしまうと反則を取られるので注意しなければならない。
 胸の前で持っているボールへもう一名の選手が仕掛けてくると、レイは腕を上下左右に動かして取られまいとした。だがこれ以上はボールを奪取されると判断し、コンクリートの壁を味方選手に見立て、パスを出した。
 ボールが壁に当たるとワンバウンドしてパスを返してくる。それを取ろうと手を出したが、汗で滑って取り損ねてしまった。
 ボールはレイの背後を転々とし、大部屋の隅に設置されている、シングルクッション仕様のキングサイズベッドに当たり、止まった。
「ふぃ〜、疲れた……」
 レイは独り言を呟くと、運動を終了してその場のコンクリート床に坐った。
 着衣を許されていないので全裸の少年は、全身汗だくになっていた。裸でも寒くないよう空調設定されているため、運動すると室内の温度では暑くなり、発汗が多くなるのだ。
 濡れた茶色の髪の毛を掻き上げると、運動後のけだるく、それでいて爽快な感触を味わった。
 荒れた呼吸を整えながら室内を見渡した。この牢屋に連れて来られたときにはトイレしかなかったが、バスケットボールとベッド、黒塗りの木製テーブル一脚、テーブルと同色同製の背もたれ椅子二脚、水差し、ガラスのコップ一個が増えている。本棚がないので、ベッド脇の床にはバスケットの参考書が置いてあった。ほかは、なにもない。
 汗が引き始めると火照りも鎮火していったので、レイの試みは成功した。
「やっぱタオル欲しい。あとパンツ。ブラブラしてると動きにくいんだよな」
 愚痴を零しながらレイは立ち上がり、テーブルへと向かった。テーブルにある水差しを取ると、ガラスのコップに水を淹れて一気に飲み干した。涸渇した喉に清涼を与えると、生き返った気分になる。
 空になったコップをテーブルに置くと同時に、重厚な鉄扉が開かれ、ディアネイラが料理を乗せた食事カートを押しながら入室してきた。
 食事の時間のようだ。おおよその時間が分かる事柄で、レイは今は昼かと思うと、テーブルにある水差しとコップを両手に持ち、そのまま床に置いた。
 ディアネイラは日に一食、昼に食事を摂る。その際にレイにも与えられるのだ。そして夜は彼女の相手である。
「せっかく火照りを鎮めたのに……」
 レイは入室してきたディアネイラの格好を見ると落胆し、大人しく椅子に座った。
 淫魔はレース編みの紫のネグリジェと黒のショーツ、血の色のようなハイヒールしか身につけていなかった。ネグリジェの作りがとても薄いので肉体がはっきりと見えている。
 彼女がカートを押して歩くたびに円錐形の豊かな乳房が弾力豊かに弾み、毛先のあたりを黒のリボンで結わいている白金色の髪の毛が左右に揺れた。
 レイはディアネイラを見ると自分の中に巣食う淫気が目覚めようとしたので、空色の双眸をベッド脇に転がっているバスケットボールに移した。
 レイは鉄扉が開かれても脱出を試みようとはしなかった。以前は何度となく試みたが、そのたびに呪縛の魔法をかけられて身動きを封じられたからである。この魔法に対抗する術はなく、また、ここから出られても一本廊下の突き当りにはさらなる鉄扉が待ち構えている。脱出するにはこの淫魔を斃して鍵を入手し、堂々と出るくらいしか、レイには考えつけなかった。
「また性欲を運動で発散していたの? 爽やかまっしぐらね」
 ディアネイラは少し低めの声でレイに話しかけると、食事カート下段の籠から白いテーブルクロスを取り出し、テーブルの上に広げた。
「その格好、絶対、わざとやってるでしょ」
「フフ、どうかしら」
 ディアネイラは悪びれもせず、ふたり分の銀食器を並べていった。テーブルクロスの上にシートを敷き、そこへナイフやフォーク、スプーンを丁寧に並べてゆく。等間隔に配置するところから、彼女のセンスと几帳面さが窺える。
「またここで食べるの?」
「ひとりで食べるよりは、楽しいでしょう?」
「楽しいのはディアネイラが、でしょ」
 軽い調子で、「そうね」と肯定の返事をしたディアネイラは、銀蓋が被せてある料理皿を手際よくテーブルへ並べていく。
 レイは、日に一食だけ与えられる今日の食事はなんだろうと、テーブルに並んでいく料理皿を眺めた。フィンガーボールがあるので、パンでもあるのかなと推測した。
「あのさあ、食事は一日二回に増やしてくれない? あとパンツとタオルが欲しい」
「本当、ご主人様に対してずけずけと、ものを言う家畜よねえ」
「家畜家畜って、マジむかつくんだけど」
「あら可愛い。怒ったの?」
 ディアネイラが微笑しながら真紅の瞳をレイに向けると、レイは完全に子供扱いされている自分に気付き、悪態をつくのをやめた。
 カートに乗せられていた食器類や新しい水差しがすべてテーブルに配置されると、ディアネイラは料理皿に被せてあった銀蓋を外していった。
「うお」
 レイはローストチキンが現われたのを見ると感嘆の声をあげた。こんがりと焼けたチキンが香ばしい匂いを室内に充満させ、食欲を増幅させる。
 瑞々しいシーザーサラダは油の乗ったチキンを食べたあとに口にすれば、口直しに最高そうだ。
 温かそうな湯気を立てているコンソメスープはコーンとパセリが散らしてある。チキンに負けないほどの、食欲をそそる香ばしさを漂わせていた。
 ガーリックトーストは焼きたてで、多少の焦げ目がよい色合いである。
「ディアネイラは敵だ。でも……淫魔なのにすっごい料理上手なんだよな」
「あ、傷ついてしまおうかしら、その差別発言」
 ローストチキンを切り分けていたディアネイラは妖しい含み笑いをすると、いったん手を止めて立ち位置をレイの真横へ移した。
 レイの顔のすぐ横にディアネイラの胸が来ると、そのまま少年の頬に押しつけてきた。彼女は意識して淫気を放出すると、それを顔に受けたレイの心臓が一度、大きく鼓動して痛みを発する。
「うっ……」
 少年は顔をしかめて胸を押さえ、まえかがみになった。
「ずるいよ……、自分だって家畜って言うくせに」
「これが立場の違いよ」
 少々の仕返しをしたディアネイラは、そのままの位置でチキンの切り分け作業を再開した。
 レイはひとつ息をつくと、胸の痛みは治まったが微弱な疼きが芽生えたのを感じ、ディアネイラを見ないよう努めた。だが淫魔の甘く芳烈な香りが少年の鼻腔を擽り、徐々に疼きを昂めていく。口は災いの元となってしまった。
 切り分け作業を終えたディアネイラは鶏肉の盛られた取り皿をレイの前と自分の席の前へ置いた。空腹のレイが身体の疼きを誤魔化そうと料理を見るのに熱中しているので、ディアネイラは少年の頬をひと舐めして挑発し、テーブルを廻ってレイの真向かいとなる席へ向かう。
 歩きながら毛先のあたりで結わいている黒リボンを解くと、リボンをカートに置き、両手で後ろ髪を掻き広げた。艶やかな仕草を見てしまったレイは、かぶりを振って淫魔の挑発に抵抗している。
「さあ、いただきましょうか」
 ディアネイラが背筋よく着席してからレイに声をかけた。すると、「待ってましたー!」と歓喜の声を上げた少年は、たちまちに情欲を克服し、料理に手をつけた。
 レイが手にするナイフとフォークがローストチキンへと伸びる。空腹が少年のナイフ捌きを達人級に押し上げ、すぐに食べやすい大きさに切り分けてしまった。
 フォークでチキンを刺すと礼儀作法を小脇にどけ、がっついて口へと運ぶ。
「ウメエェーっ。美味いよコレっ」
 すぐさま、ふた切れめに突入して口へ運ぶと、案の定、喉を詰まらせた。レイは慌ててコンソメスープの皿を取り、スプーンを使わずに皿に口をつけて一気に飲み干す。吐息をついて沈着すると、またチキンへと手を伸ばしていった。
「その食べっぷり。いつ見ても、お見事よねえ」
 ディアネイラは苦笑すると、こちらは上品な手つきでチキンを切り分けていった。

「淫魔って、実は生きるの面倒だよね。肉体を保つために物を食べて、淫気を保つために精気も得ないといけないんだもん」
 あっという間に食事を平らげてしまったレイは、背もたれ椅子に深く腰を預けて満腹感を堪能しながら、まだ食事中のディアネイラに声をかけた。
 だがディアネイラはガーリックトーストを口にしており、レイの問いかけに答えない。食物を口に入れている最中の彼女は決して言葉を発しないので、レイは気にせず膨れた腹に手を当てて撫でさすりながら返事を待った。
 トーストを咀嚼し嚥下したディアネイラは、細い右の指をフィンガーボールに泳がせ、粉屑を洗い落とした。その後、濡れた指を畳まれているナプキンの上に添え、指の表、裏と、水分を含み取らせる。
 一連の動作が終了すると、やっとディアネイラが口を開いた。
「そうかしら。二種類の食事を愉悦できるのだから、煩多には思わないわよ? お料理も趣味だもの、楽しいことだらけだわ」
「あー、そういう考え方なんだ。食事作法って、人間とたいして変わらないの? ディアネイラって、ナイフやフォークを使うじゃん?」
「そうね。でも手掴みで食べる習慣のある淫界もあるし、精気を得るだけで生きられる淫魔たちもいるし、いろいろよ。文化の違いや種族の違いは、この世界でも同様でしょう? 例えば、こんなふうに──」
 ディアネイラは残りひと切れとなったローストチキンを手で掴むと、わざと赤い舌を出してチキンを乗せ、口へ運んでみせた。
「うわ、地雷踏んだ……」
 レイは淫魔の習慣など訊かなければよかったと後悔した。ネグリジェを着ているといっても彼女の肉体は透けて見えているので、視線を下げて淫魔の豊乳を視界に入れないように努めていた。だが、やはりディアネイラの全身は男の理性を容易に粉砕する妖器であった。
 典雅な態度を一変させ凄艶な雰囲気になった淫魔は、チキンを口の中に入れたまま一度も噛まずに席を立った。テーブルを迂回してレイのもとへやってくると、蛇に睨まれた蛙となったレイと口を合わせ、チキンを少年へと送る。
「噛んだら駄目よ」
 ディアネイラが油とソースのついた指をねぶりながら指示すると、レイは黙ってうなずき返した。淫猥な指のねぶりを見ていると、思考が情欲によって溶解する。
 一瞬のやり取りで情事へと持ち込んでくるディアネイラの老練さに、レイは簡単に懐柔されてしまった。
 満腹感が体の火照りを潰してくれていたのだが、すでにその立場は逆転した。レイの体に巣食う淫気が活動を活発にし、全身を侵していく。
「さあ、チキンをくださる?」
 指をねぶり終えたディアネイラが薄い唇を合わせてくると、レイは舌を使ってチキンを押し、淫魔の口へと送り返した。
 ディアネイラはレイに馬乗りになると少年の首に両腕を巻き、ソースで汚れている少年の上唇を自分の唇で挟んで舐め取った。そしてそのまま口を開き、レイにチキンを送る。
 レイの脳に卑猥で生ぬるい感覚が充満し、痺れを感じさせた。自然と右手がディアネイラの胸へ伸び、親指と人差し指の腹が下乳と沿うようにネグリジェの上から合わせると、弾力を愉しみながら揉んだ。同時に、チキンを淫魔の口へ送り返す。
 少年の若塔はすでに屹立して透明の粘液を出しており、ディアネイラとレイの腹に挟まれて行き場を失っていた。
 レイはディアネイラを斃せる気がまるでしなかった。必ず殺すと決めている親の仇だが、彼女の誘惑に抗するどころか、受け入れてしまう自分がいる。少なくとも、今は快楽に耽溺したくて仕方なかった。
 ディアネイラの唇が開かれチキンが送り込まれてくると、レイは淫魔の唾液に濡れたチキンを舐め、また送り返す。すでにチキンには味がなくなっていた。
 鶏肉がふたりの口腔を何度も往復し、互いの口は唾液で濡れ光った。
 ディアネイラが含んでいるときは口が閉ざされ、レイは早くよこせと彼女の柔らかな唇を啄ばんだ。ディアネイラの口がおもむろに開かれるとレイも併せて口を開き、送られたチキンを含む。そして、淫魔の甘い唾液を吸い取ると、また送り返した。
 ディアネイラは口を開いたままチキンを含むと、レイも追従して口を開けたままにした。
 ディアネイラがチキンを送ってくると、レイは口を開いたまま受け取り、送り返す。すると、ディアネイラはすぐに肉をレイの口へ入れてきた。レイもすぐに舌で押し返す。
 お互いでチキンの押し合いをすると、ディアネイラは楽しそうに切れ長の目を細める。レイはただ夢中でこの遊戯に享楽した。チキンの押し合いは両者の舌を絡ませ、レイの脳は電撃の痺れへと昇華した快感が占有した。
「う……ぁ……」
 ディアネイラは細い腹を小刻みに震えさせてレイの塔に刺激を与えてきた。真紅の瞳がレイの空色の瞳から離れず、「果てなさい」と訴えている。
 少年は情けない顔になると熱い白液を吐き出し、自分の腹と淫魔のネグリジェを汚した。
 ディアネイラは微笑を浮かべて少年を眺めながら、チキンを食べている。
 レイは絶頂によって淫気の侵入を受けた。
「え……? なん、だ、これ……」
 流入してくる淫気が心臓へと集約していくのだが、むしろ心臓のほうが積極的に淫気を吸収していくような、自分でも理解不能な感覚を味わった。まったく痛みはなく、むしろ力が漲っていくような気がした。
 今までは絶頂させられると力が抜けていき思考力が鈍化していたのだが、その兆候がない。意識は淫欲が強いもののはっきりしており、虚脱感もなかった。試しにディアネイラの胸に添えている手を動かして揉んでみると、自分の意思どおりの力配分で愛撫できた。
「ようやく、心臓の淫核化が完成したようね」
 ディアネイラはレイの頬に手を添えると、会心の笑みを湛えた。
「淫核って……、ぼくが淫魔になったって、こと……?」
「ご名答。正確には違うけれど、当たらずとも遠からずね」
 淫魔には、淫気を精製する淫核という細胞組織が存在する。淫核がある場所は個人によって異なるが、淫魔にとって最重要な体内組織だ。以前ディアネイラが、送り込んだ淫気が心臓と同化すると言っていたが、淫核化を差すものだったのかとレイは思うと、愕然とせずにはいられなかった。
 淫気が体内に棲みついてから四六時中の火照りが始まり、自分がほかの何かに変わってしまった気はずっとしていた。だがよりによって人間たちの天敵である淫魔に自分がなってしまったのかと思うと、自分の存在を否定したくなった。
「ぼくに、何をさせようとしている……」
「前にも言ったでしょう? 家畜として飼うためよ」
 ディアネイラは妖しく微笑むだけだった。
 レイには淫魔の考えは見当すらつかなかった。本当に家畜として飼い続けるだけなのかもしれない。ほかに何かを狙っているのかもしれない。ディアネイラが普段、どんな行動をしているのかさえ知らないレイには、答えは出せなかった。
「さしずめ、『淫人』とでも名付けましょうか。人間として生まれながら淫核を与えられ、淫魔の力を得た存在」
「インジン……」
 レイは心臓に意識を向けてみると、卑猥で生ぬるい感覚が湧き続け、蠢動しているのが分かった。この感覚が淫気であり、力として感じた存在の正体だ。力として認識していること自体、自分が淫魔に近い存在になってしまっている証拠なのだろうと思うと、自分の未来には闇しかないと思った。
「……治す方法は?」
「残念だけれど、わたしは知らないわ。成功したのも、あなたが初めてだもの。心臓の淫核化は、あなたの命を繋ぐために対処しただけのこと。偶然の産物にすぎないわ。わたしのほうこそ、驚いているのよ?」
「そんな──」
 レイは放心すると、まだ筋肉が足りていない両腕を力なく落とした。
 割れた心は頻闇の口へと吸い込まれ、底なしの地獄へ堕ちてゆく。這い上がろうとする希望の足は、無数に伸びる漆黒の手によって、無残に引き摺り下ろされていった。
「人間ではなくなったと知ったら、衝撃的よね。いろいろと対策を練ったり、将来を考えていたみたいだけれど、無駄になってしまったかしらね」
 ディアネイラはレイの顎に人差し指を添え顔を持ち上げると、脱力している少年の空色の瞳は虚ろになっていた。性欲に支配されていないときのレイは常に敵愾心を向けてきていたが、その気配は皆無であった。
「淫人の誕生を祝して、今日はずっと傍にいてあげましょう。あなたは淫魔の快刀になったのよ? おめでとう、ブランデー君」
 ディアネイラはレイに接吻すると、舌による濃密な抱擁をおこなった。

背徳の薔薇 淫人 了
第三話です。
 文中の流れが早すぎるかなと、心配しております。テンポよく書かれてらっしゃる作者様方を見習わねばなりませんね。
 メッセージありがとうございました。お褒めいただき恐縮です。少しでも楽しんでいただけるよう頑張ります。

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