齢は40の頃だろうか
若い頃は間違いなく美しかったと思われる淑女が闘技場前に佇んでいる
今でも十分美しい女性だった、その証拠に闘技場への観客と思われるサラリーマンや
闘士達がついつい見てしまう位だから
女性の目はやや潤みがちで、懐かしんでいるのが他の誰から見てもわかる
女は時間を忘れて闘技場を見つめている
それでも飽きることはなかった
女性にはそれ程の思い入れがあるように感じられる
「もう、20年、になるのかしら・・・
ねぇ、和哉・・・」
最後の一言は誰にも聞こえない位小さな呟きだった
やがて意を決したかのように胸の上に握った拳をあて、前をしっかりと見つめて
前方の闘技場入り口に向けて歩き出した
闘技場医務室でボスと呼ばれる男の話は続いていた
初めて聞かされるボスの過去に誰も口を挟めず沈黙している
「アルテミスとハデスが失踪して3か月位経った時だが・・・
俺自身にな、大きな事件が起きちまった」
皆がボスを注目している中、俺はボスと目があう
“?”
ボスの視線に不可解なものを感じた俺、ボスが珍しく目をそむけるように別の所へ視線を移して
話を続ける・・・
「・・・ヴィクトリアが、妊娠した」
「!!!」
一同が息を呑んだ
「ボス、奥さんと子供がいるんですかぁ?!」
空気に耐えられなくなったアテナがついに言葉を発する
アテナのその表情は明らかに驚愕に打ちのめされている
「何か、不満か・・・?」
ボスもそれを感じたせいか、眉間に皺をよせて不快感をあらわにする
「い、いぇ、決して、そのような、不満だなんて、とんでもありません・・・」
さすがに悪いと思い、指先をごにょごにょしながら、しどろもどろになったアテナが小さくなって謝る
「・・・で、ボス。続きは?」
アテナに変わり、常識人のアポロンが先を促す
「あぁ・・・」
「あいつは、ヴィクトリアは狂気乱舞したよ・・・
これで俺と結婚できるってな。でもな、俺にはできなかったよ
俺の心の中にアルテミスが住み続けたせいでな・・・」
薄暗い医務室でもボスの頬がちょっと赤くなったのが分かる、自分の言葉に照れているらしい
「やがて子供が産まれるほど時が流れてな、その頃になって俺はようやく
ヴィクトリアを受け容れることができる位に心が落ち着いてきた
事実、産まれた子供はかわいかったしな・・・」
ボスの表情が当時を思い出しているように柔らかい表情になる
「子供のおかげで俺たちはついに結婚したよ、その頃のヴィクトリアも淫気がすっかり抜けてな
まっとうな母親になったよ。子供を闘士にしたいと言う事以外はな・・・」
俺たちは3人で顔を合わせる
俺たちの顔にはそれぞれ「別にいいんじゃないの?」と書いてあるのが分かるくらい
の不自然な顔をしていたらしい
その様子にボスがふっと笑う
「ま、結局は闘士になっちまったんだけどな」
「じゃ、じゃ、じゃぁ、今この闘技場にいるんですか?ボスの子供さんが?歳は?身長は?
男ですか?女ですか?どっちですか?ハンサム?美人?ブサイク?ブス?私と闘った事は?強いですか?ねぇ、ボス?!」
アテナがまくし立てるように質問を浴びせる
「ええぃ!うるさい、黙って続きをきけ!」
一喝されたアテナととばっちりを食った俺たちはまた沈黙モードへ移行してボスの語りを待った
しかし、その時には医務室の扉の前の人影が俺達の話しを聞いていたことに俺たちは気づかなかった
「俺たちの子供が生まれて少ししてからだが・・・」
・・・・・・・・・・・・
「ねぇ、あんた、あたしさこの世界、引退するよ」
突然ヴィクトリアが男に相談を持ちかける
「何だ、突然、専業主婦にでもなろうってのか?」
子供をあやしながら男はヴィクトリアを見もせずに答える
「ま、それもあるけどね、この子に英才教育ってやつをやってみようと思ってね」
「何?」
眉間に皺をよせた男の表情には「お前が人に教えられる才能があるのか?」と物語っている
「この子を最強の闘士にしたいの」
ガーンという効果音がぴったりな位の衝撃をうけた男はため息混じりに妻を諭し始める
「お前な、俺たち闘士がどれ位不安定な職業か分かってるだろう?
それなのに子供に強制的にこの道を進ませるのは親として間違ってるぜ?」
闘士という職業は実力者はそこそこ儲かっているが、一般闘士の場合
試合が組まれなければ収入が得られない、収入がない場合はアルバイトで生活費を稼がないといけない
組織であって組織でないものだった
当然給料の保証は一切されていない
そんな馬鹿げた職業に子供を就かせたいと思う親はいないだろう・・・
「・・・・・あたしさ、まっとうとは言えない方法であんたと結ばれたよね
もしかしたらこの子はあたしの業に巻き込まれてしまうんじゃないかと思って、怖いんだよね
だからさ、武器を持たせたいのさ、やっぱ変かな?」
無理矢理明るく振舞おうとして寂しい表情で微笑みかけるヴィクトリア
その時男は初めて妻の心に巣食っていた大きな不安を知り、あやしていた子供をベットに寝かせて
ぎゅっと妻を抱きしめる
「大丈夫だ、俺たちの子供だぜ?強い子に育つに決まってる
何も心配はいらねぇよ、いざとなりゃ俺たちが体張って守ればいいんだからよ」
「あぁ、そうだよね、ゴメン、あたしどうかしてた・・・」
男の腕の中でヴィクトリアは安心したように体を預けていた
しかし、男は気づいてやれなかった、その時の妻の拭い切れない不安な表情と心中に・・・
そして、ヴィクトリアは男の前から姿を消した・・・
愛する子供を連れて・・・
「・・・・・・・・・・」
俺たちはボスの顔を無言で見つめている
「それから、永い時間が過ぎた。俺の前から去っていった連中が戻ってくるんじゃないかと思ってな
俺はここから離れらなれなかったよ。で、19年後、一人だけ戻ってきた奴がいてな
情けない事に初めは誰だか分からなかった、でもな、ここでの通り名を聞いた時、分かっちまった
嬉しいやら悲しいやらで、そいつとどう接していいか解からなかったぜ・・・」
そこでボスが再び俺をみる、何やら表情が寂しげに見える
「昔な、ヴィクトリアが言ってたぜ、“この子が大きくなって闘士になったら「アレス、軍神アレス」”
の名前を名乗らせるってな」
その一言で今までボスに注がれていた視線がいきなり俺に注がれる
視線を注がれた俺は皆の視線を感じる事なく、放心状態でボスをみつめていた
「う、嘘だろ?」
俺は否定される事を希望して呟く
しかし、ボスは否定するどころか追い討ちをかけるように現実を突きつける
「ヴィクトリア、いや、一樹(いつき)は元気なのか?・・・和樹(かずき)」
俺の母親の名前とここでは明かしていない俺の本名・・・
「ボス、あんたが、和哉(かずや)、親父なのか?」
「あぁ、残念な事にな」
およそ感動とは程遠い対面だった、しかも相手は俺を誰だか知っていた
知らぬは自分のみ・・・
俺は無性に怒りが湧いてきた、握り締めた拳が膝の上で震える
やがて心が黒くなり、ボスに向けて殺気を投げつける
「お前のせいで・・・・」
ボスを睨み付けたままそれ以上の言葉が出てこない
「いいぜ、やれよ」
ボスは俺に殴りかかられるのを待っているかのように目を閉じてじっとしている
「うぉぉぉぉー!」
俺は叫び、ボスに向かって拳を振り上げようとした瞬間
アポロンに拳を押さえられる
「待て、君ら親子の問題は後でゆっくり話をつければいい、 今は君がどうして発狂したかのようになったかの話だ
忘れるな、今の君はあたかも犠牲者ぶっているが、君による犠牲者はそこに眠る俺の妹だ」
意識が戻らないマーキュリーを指差してアポロンがきつく俺を責める
「くっ!」
忘れかけていた現実に引き戻された俺は苦しさにうな垂れる
そこへ突然側頭部を手でつかまれて強引に引っ張り上げられる、俺の顔は柔らかいものに押さえつけられて視界を遮られる
「ん、ん、んー!」
「大丈夫、貴方はきっと何も悪くない、だから大丈夫、心を強く持って」
柔らかなアテナの胸と彼女の香り、心地よい言葉
急速に俺の心から黒いものがすーと消えていく
「・・・ありがとう、アテナ」
胸に顔を押し付けられた状態でモゴモゴと礼を言う俺
「どういたしまして」
気持ちのよい圧迫から開放された俺ににっこりと微笑む彼女を見て俺も思わず微笑み返す
この女性(ひと)といると何か安心する、俺はそう感じていた
「・・・・・・」
そんな俺たちをアポロンが何を思うのか無表情に見つめる
その時は彼の心に秘めた思いを俺たちは誰も知らなかった・・・
そこへ“ガチャ”と医務室の扉が開く
俺たちはいっせいに視線を扉に集める
そこには見たことない淑女が立ち、俺たち、正しくはボスを見つめている
ボスも同様に淑女を見つめている
しばらく見詰め合った後に淑女は扉を閉めてコツコツとヒールの音を鳴らしながら俺たちへ近寄る
その表情にはうっすらと涙が見て取れる
「老けたわね、ネプチューン、いいえ、和哉」
話しかけられたボスの目も信じられない事に潤んでいる
「はは、ちげえねぇな、アルテミス、いや、今はもうただの遥・・・か」
俺たちは再び驚く、このリアクションを僅かな時間で何度繰り返したことか
たぶん忘れれられない日というのはこういう日なのだろうと思う・・・
そしてアルテミス、遥と呼ばれた女性は俺を見る
「この子が貴方と、彼女の・・・」
「まぁな」
なんともいいがたい表情のままボスが答える
「貴方は全て分かっているみたいね、だったらお願い、和哉、貴方の子の力を貸して
あの子の暴走を止めて、そしてあの子を救って欲しいの
今私が頼れるのは貴方と貴方の子しかいないのよ!」
ボスのベットの元へ座り込み、ボスの手を握り、涙ながらに必死に訴えかける遥
これも何度目か分からないが、呆然としたリアクションを繰り返す取り残された俺たち
「あ、ごめんなさい・・・」
そんな俺たちに気づいた元恋人だった二人は自然と照れたように笑いあう
俺はこの人もこんな風に自然に笑えるんだなと変な所で感心した
「今までの話は聞いていたわ、この先は私が話した方がよさそうね」
そして再び昔語りが始まった
続く
Please don't use this texts&images without permission of 八雲.