3135

菜の花 下



あれほど楽しみにしていた菜の花の開花を、菜々子はとうとう見ることはなかった。
菜々子は、二月の末にこじらせた風邪が原因で重い肺炎に冒された。薬品も食べ物も
不足する中で、菜々子は数日間死線をさまよった。医者さえもお手上げと見放す中、菜々子は
奇跡的に助かった。菜々子の生命力と精神力が、病魔にうち勝ったのだった。
ようやく病状が落ち着いてきた日のことだった。ハンター協会から菜々子に、
驚くべき内容の郵便が届いた。


召集令状だった。


年が明けた頃から、淫魔との戦争はいよいよ敗北の色が濃くなり始めていた。優秀なハンター
たちも雲霞のごとく押し寄せる淫魔の大群の前に次々と討死し、前線から協会本部へ、
ひっきりなしに応援の要請が飛び込んだ。もはや余剰戦力のなくなった協会本部は、
緊急でハンターを募集したがそれでも足りず、とうとう退官したハンターまで徴用しなければ
ならなかった。
――時間稼ぎでも何でもいい、とにかく戦える者であるならばどんどん前線へ送れ。
そんな方針の下、協会本部は療養所の入所者に対しても令状を送りつけたのだ。最初は症状の
軽い者から、やがて、重傷者でも容赦なく戦場へ駆り立てられていった。
そして、とうとう菜々子にまで――。
困惑する陽一郎を尻目に、菜々子は周囲がいぶかしがるほどに落ち着き払っていた。
その日、陽一郎は菜々子の召集を撤回させようと奔走した。
菜々子の心は十にも満たない子供とひとつなんです。そんな子供にバトルファックをしろと
言うんですか。病気も完治していない菜々子が、そんな激務に耐えられると思ってるんですか。
生きて帰ってこれると思ってるんですか――と。
だが、陽一郎が掛け合ったすべての人物が、首を横に振った。戦時下において、大統領が
本部長を務める協会本部の命令は、絶対だった。先週も一人、療養所の医師が逮捕されたばかり
だった。その医師は息子を出征させまいと嘘のカルテを作り、でっちあげの医療報告書を協会に
提出したのだったが、協会はそんな報告書など無視して息子を徴用したあげく、でっちあげを
暴いて医師を逮捕したのだ。
また、召集に応じず逃げ出したハンターの末路の噂も、度々耳にすることがあった。
彼らは大統領親衛隊に発見され、最も過酷な戦場の最前線へ強制的に送り込まれたという。
一晩中駆けずり回り、あくる朝早くに徒労に胸を沈ませた陽一郎が帰ってくると、
菜々子はすっかり出征の準備を整えていた。
「どこ行ってたの、陽兄ちゃん? 待ってたんだよ? もうすぐ行かなきゃいけないんだから」
最後の夜をともに過ごせなかったことに腹を立てているらしく、菜々子は頬をぷうっと
膨らませて陽一郎を問い詰めた。
「菜々子、お前……」
その問いかけには答えず、陽一郎は憮然として言った。
「大丈夫だよ、陽兄ちゃん。菜々子がんばるから」
「菜々子! 何言ってるんだお前。戦争に行くんだぞ! 身体だってまだちゃんと治って
 ないじゃないか!」
陽一郎が菜々子の肩をつかんで言った。菜々子は笑顔を浮かべ、
「菜々子知ってるもん。この赤い紙が来たら、みんなのために戦いに行かなくちゃいけないんだって」
「何バカなこと言ってるんだよ! お前にはまだわかってないんだ!」
「ううん」菜々子は首を横に振った。「菜々子わかるもん。みんな、みんな、この赤い紙持って
 出かけていったもん。だから菜々子も行かなくちゃ。菜々子、悪い奴らいっぱいやっつけるんだもん」
そんな健気なことを、真正直に言い放つ菜々子の様子に、陽一郎はいたたまれなくなってしまった。
せめて、菜々子の代わりに自分が行くことができればどんなにいいだろう。陽一郎はそう思った。
けれども、陽一郎がどんなに願っても、それはかなわない。淫魔は、精子を作る能力を失った
男を相手にしない。淫魔の魔力で無残に殺されるのがオチなのである。
ここで自分がどれだけあがこうとも、菜々子の召集を妨げることはできない。
けれども、自分が菜々子と過ごした時間は、あまりにも短く、あまりにも濃密だった。
陽一郎はどうしようもない気持ちになり、ただ菜々子を求め、抱きしめた。
菜々子は陽一郎の腕に抱かれたまま、しばらくなすがままに任せていたが、
やがて口を開くとこう言った。
「陽兄ちゃんもしかして、菜々子が役立たずだと思ってる? 菜々子戦えるよ?」
そこまで言うと、菜々子が激しく咳き込んだ。
「ほら見ろ。治ってないじゃないか」
陽一郎が菜々子の背中をさする。
菜々子はしばらく苦しそうに咳き込んでいたが、それが収まると、
「大丈夫。菜々子戦えるよ。その証拠、今から陽兄ちゃんに見せてあげる。
 だから――ちょっと放して?」
言われるままに菜々子を腕から開放すると、菜々子は衣服を脱ぎ始めた。
「何のつもりだ、菜々子?」
菜々子は一糸まとわぬ姿になってしまうと、
「言ったでしょ。菜々子が戦えるってこと、陽兄ちゃんに教えてあげるの」
と言い、陽一郎の衣服を脱がせた。
「バカなこと言うな! それに僕はもう――」
勃たないんだぞ、と言いかけた陽一郎の口を、菜々子の唇が塞いだ。そして困惑する陽一郎を、
ぎゅうっと抱きしめた。
「あぁっ!」
菜々子に抱きしめられただけで、いきなり陽一郎の喉から歓喜の声が漏れた。菜々子の
絹のようなきめ細やかな肌が、攻める意志を持って、陽一郎の身体にぴったりと吸い付いてくる。
今までにも一緒に風呂に入ったときなどに、肌が触れ合ったことはよくあった。けれども、
こんな快感を受けたことは、ついぞなかった。
「あっつくて、カタイよ。陽兄ちゃんの」
と、菜々子が言った。
バカな――。陽一郎はそれを否定しようとして、すぐに、菜々子の言葉が正しかったことを知った。
ここ数年というもの、一度たりとも勃起することのなかった陽一郎のモノが、満々と熱い血潮を湛え、
天に向けて屹立していた。
困惑する陽一郎をよそに菜々子は、
「陽兄ちゃん、いっぱい気持ちよくなってね」
右手で陽一郎のモノをやさしく握り、ゆっくりとしごきはじめた。
数年ぶりの快感に膝がガクガクと震え、陽一郎はあっという間に達した。
菜々子は右手にべっとりと付いた精液を舐め取ると、おもむろにベッドに腰掛けた。そして、
「きて、陽兄ちゃん」
陽一郎へ向けて脚を開いた。その奥は陽一郎のモノを迎えるべく、すでにぐっしょりと濡れていた。
それを見た瞬間、陽一郎の心臓が一際大きく鼓動した。男としての本能が、そして、かつての
ハンターの本能が、陽一郎を突き動かした。
菜々子の脚の間にひざまずくと、一気に菜々子を貫いた。そのまま無我夢中で、荒々しくピストンを行う。
お互いの股間がぶつかり合うパンパンという音が、部屋に響き渡る。
「よ、陽兄ちゃん、ちょっと待って」
頭の上から聞こえる菜々子の声も、一心不乱に腰を振り続ける陽一郎には届かない。
すると菜々子は素早く腰を後ろに引き、陽一郎のモノを抜いた。
陽一郎が息を荒げながら、不思議そうに菜々子の顔を見つめる。
「陽兄ちゃん、怖い。陽兄ちゃんとの始めてがこんなんじゃ、ヤダよぉ……」
陽一郎はハッと気付き、そして悔いた。数年ぶりの勃起と、愛する女性の性器を前にしたことが、
彼を猛りに猛らせてしまっていた。陽一郎は自分がケモノ同然に成り果てていたことを詫びると、
再び菜々子に挿入した。
菜々子をやさしく抱きしめ、たっぷりと愛を送り込むように、身体を動かす。それに応えるかのように、
菜々子が小さく鳴き声を上げる。
やがて、陽一郎は菜々子の中に射精した。それはとてもあたたかで、幸福な射精だった。
「菜々子のおなかの中、あっつい……。陽兄ちゃんのでいっぱい……」
うっとりと陽一郎を見つめる。
「ねえ陽兄ちゃん、ちゅーして……」
菜々子の求めに応じて、陽一郎は菜々子にキスをした。
お互いがひとつになったままの口付けは、長く長く続いた。この時間がいつまでも続いて
くれればいいのに。そんな気持のあふれた口付けだった。
だが、二人の思いに水を差すかのように、午前八時を報せるベルが鳴り響いた。
ベルの音が、二人の口付けを引き離す。
「菜々子……」
「陽兄ちゃん……」
名残惜しそうに、互いを呼び合う二人。
「まだ少し時間あるよ。もう一回しよ?」
と菜々子が言った。そして、
「陽兄ちゃん、今度は勝負だよ? 菜々子の力、見せてあげる」
勝負と言われて、引き下がるわけには行かなかった。「元」が付くとはいえ、
陽一郎はハンターだったのだから。
「どうする? このままやる? それとも、一旦離れる?」
と、菜々子が尋ねてきた。
先程の交わりで、陽一郎は勘を取り戻し始めていた。元来、相手のヴァギナに挿入しての戦いは、
得意中の得意だ。
「このままでやろう。いい?」
菜々子がうなずくより早く、陽一郎はピストンを開始した。
それに応戦するように、菜々子が膣を締め付けてくる。陽一郎が攻めると、その力を逸らすように
膣肉を緩め、休もうとすると、陽一郎のモノをきつく締め付けた。まるで生きているかのように
攻め立ててくる菜々子のヴァギナに、陽一郎は早くも防戦一方に追いやられた。
先ほどまでとは比較にならないほどの快感を送り込んでくる菜々子に、陽一郎は身悶えしそうに
なるのを懸命にこらえていた。
「すごいでしょ、菜々子のナカ」
菜々子の問いに、陽一郎は平静を装って「全然」と応える。
だがこのままでは一方的にやられてしまう。巻き返しを図ろうと、陽一郎は菜々子の乳首に
口をつけると、強烈に吸い上げた。
その瞬間、菜々子の身体がビクッと震えた。
得たりとばかりに、陽一郎はピストンを繰り返しながら、菜々子の乳首にむしゃぶりつく。
菜々子の乳首が陽一郎の舌に転がされ、唇に吸引され、しだいに硬く尖っていく。
「菜々子の乳首、こんなに硬くなってるよ?」
陽一郎の言葉責めに、菜々子が羞恥で顔を赤らめる。だが言われたまま黙ってはいない。
「陽兄ちゃんのだって、菜々子の中でビクンビクンいってるよ。出したくってたまらないんでしょ?」
そのまましばらく、互いを攻め合う時間が続く。
陽一郎は焦りを覚え始めていた。自身のモノが限界に達しようとしてから、もう大分長い時間が
経っている。極限での粘りには自信があったが、菜々子の粘りはそれ以上のものだった。
もはや陽一郎は、テクニックもクソもなく、ただピストンを繰り返すことしかできなかった。
だが、菜々子はそんな陽一郎のモノを、休みなく翻弄し続けてくる。
これ程までのヴァギナには、今まで出会った事がなかった。陽一郎は格の違いを悟らずには
いられなかった。
陽一郎にとって唯一の救いは、菜々子が確実に感じていることだった。小さな声で
「あん……あん……」と鳴き、顔と胸元を紅潮させているのが、そのしるしだった。
愛する男に抱かれている。その悦びが、菜々子の快感を倍増させていた。
だがそれが、陽一郎の力の限界だった。
「陽兄ちゃんの必死な顔、素敵だよ」
菜々子の声に、陽一郎が顔を上げると、菜々子がやさしい笑みを浮かべていた。
「菜々子が戦えるってこと、わかったでしょ? 菜々子のこと、いっぱい気持ちよくして
 くれたお礼に、陽兄ちゃんに天国を見せてあげるね」
これまでだ――。菜々子の余裕の表情を見て、陽一郎は負けを覚悟した。S級ハンターとは、
これ程までの実力を持っていたのか。心は子供でも、身体がバトル・ファックを覚えていたのだな。
達しようと極限に向かう中で、陽一郎は思った。
「まだまだこんなもんじゃないよ? 次で昇天させてあげる」
菜々子の指が陽一郎のアナルを貫いた。そして陽一郎の中で、指がくいっと曲がる。
前立腺を刺激された陽一郎はひとたまりもなく、絶叫を上げながら三度目の精を放った。
さらに菜々子は、陽一郎のモノをひときわ強く締め上げた。
陽一郎の目に、チカチカと明るい光が明滅するのが見えた。
次の瞬間、陽一郎の意識は弾けとんだ。



菜々子が気を失った陽一郎の身体をベッドに横たわらせる。そして、その身体をくまなく
眺め回した。

菜々子の智慧が、戻っていた。

先刻陽一郎に抱かれ、彼のモノが自分の中に入ってきたとき、脳天から爪先まで激しい電流が
駆け抜けた。頭の中も目の前も真っ白になり、菜々子はひどく狼狽した。このまま死ぬのでは
ないかと思ったほどだった。だがしばらくして、少しずつ意識が戻り始めると、それと一緒に
かつて淫魔に封印された記憶も戻り始めた。パズルのピースがかちりかちりと正しい位置に
はめ込まれ、そしてひとつのピクチャーとして復元を果たすかのように。
陽一郎に激しく突かれながら、菜々子はこのことは黙っていよう、と思った。その方が
自分にとっても陽一郎にとってもいいような気がした。菜々子は子供の演技をしながら
陽一郎と身体を合わせ、そしてイカせたのだった。
菜々子がベッドに横たわる陽一郎のペニスに視線を落とす。陽一郎が不能であることは
子供心にわかっていたし、勃起させることが目的で責め始めたのではなかった。陽一郎が
勃起し、射精にいたらなくても、自分のテクニックを見せることはできる。そう思ったがゆえの
行動だった。
だが、陽一郎のペニスは力を取り戻した。きっと私の記憶を取り戻させるためにそうなったのだ、
と菜々子は思った。今まで何度も抱き合ったことはあったのに、そのときは勃たなくて、
最後の最後に勃たせてくれるなんて、神様って人は意地悪だ。菜々子はそう思って、すぐに否定した。
――私は十分に幸せだった。これ以上の幸福を望むなんて、贅沢すぎる。
苦笑いを浮かべる菜々子を、掛時計の時報が現実に引き戻した。もう行かなければならない。
菜々子がベッドから降りて立ち上がった瞬間、激しい耳鳴りとともに目の前が真っ暗になった。
これまで経験したことがないほど激しい立ちくらみだった。菜々子は両手を耳に当てて目眩を
耐えていたのだが、それがやむと急に咳き込み始めた。
コンコン、という軽い咳が長く続く。
ようやく咳が収まると、菜々子は胸に手を当て、呼吸が元に戻るのを待った。
――大丈夫。きっと大丈夫。
何度も何度も、胸の中で自分に言い聞かせる。
そして衣服を身にまとうとベッドの脇にひざまずき、陽一郎の胸に顔をうずめた。
鼻先を強く陽一郎の胸に押し付ける。目を閉じると、顔に陽一郎の体温が伝わってきた。
今まで何度も抱いてもらった陽一郎の胸からは、今日はいつもと違うにおいがした。
情事の後のほのかに立ち上るけだるい汗のにおいを、鼻からいっぱいに吸い込む。
胸の奥の方からふつふつと熱いものがこみ上げてきて、菜々子はとても優しい気持になった。
――私はこのひとに守られているんだ。これまでも、これからも。
菜々子は身体をずらし、陽一郎に口付けをした。感謝の気持が胸からあふれ出し、
キスをする唇を小刻みに震わせた。
長いキスを終え、顔を離す。菜々子の視界には、安らかに眠る陽一郎の顔がいっぱいに広がっていた。
「さよなら、陽兄ちゃん」
菜々子はそう呟くと、二人で過ごした部屋を後にした。

療養所の入り口まで来ると、師長が門の脇に立っていた。
「もう行くのね」
食糧不足のせいで少しやせた師長が言った。
菜々子は「はい」とうなずくと、
「師長さん、短い間でしたけど、お世話になりました」
と言い、深々と頭を下げた。
「菜々子、待ちなさい」師長が言った。
「あなたはこれから、アイノノ村に行ってもらうわ」
師長の有無を言わさぬ口調に、菜々子の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
「アイノノ村?」
「そう。アイノノ村はここから三百キロ程北にあるカディ山地の奥深くにある小さな村よ。
 外から訪れる人はまずいない。そこに、私の姉がいるわ。あなたはそこで、戦争が終わる
 まで隠れているのよ」
戸惑ったような笑みを浮かべながら、菜々子が首を傾げる。すると師長は菜々子の肩を
ガッシリとつかみ、大きく揺らして言った。
「あなたが戦争に行くことはないわ! もうこの戦争は負けよ。あなた一人が行ったところで
 どうにもならないわ。私には子供がいないから……、あなたと橋本君を見てると自分の子供の
 ような気がして……。とにかく……私はあなたに死んで欲しくないのよ!」
必死に説得する師長の腕を、菜々子がやさしくつかむ。そして涼やかな微笑みを浮かべ、
「師長さん、それはできません。あたしがそれをやったら、師長さんに迷惑がかかります。
 それに……まだ死ぬと決まったわけじゃありませんから」
そう言った菜々子の挙措が、とうてい子供のものではないことを、師長は見逃さなかった。
「菜々子、あなた……」
師長の顔に不審の色が浮かぶ。
「菜々子……あなた、戻ったのね! 知恵が戻ったのね!」
菜々子がはにかんだような笑顔を浮かべる。口に出すには恥かしい部分は端折りながら、
かいつまんで師長に説明した。
「そう……良かったわね、菜々子。なら……、ならなおさらよ。逃げるのよ菜々子」
師長のセリフに、菜々子はゆっくりと首を横に振る。
「協会には深い恩義があるんです。あのとき、偶然協会に拾ってもらわなかったら、あたしは
 今もうらぶれた売春宿で働く娼婦だったと思います。毎日顔も知らない旅人の相手をし、
 誰かの記憶に残ることもなく、一生を日陰者として歩まなければならなかったあたしを
 拾ってくれたのは、ハンター協会なんです。協会のおかげで、あたしはあたし自身の価値と
 生きる意味を見出すことができたんです。もちろん、陽一郎さんに出会うこともなかった
 でしょう。だからあたしは、協会を裏切るわけにはいかないんです」
「だけどそのハンター協会はもう……」
なおも食い下がる師長を、菜々子が丁寧に諭す。
「師長さん、今の協会がどうとか……そういうことはもう問題じゃないんです。これはあたし
 自身の問題なんです。あたしの人生ですから……、あたしが決めたことなんです」
運命を受け入れ、そしてそれを超越した清清しい笑顔を、菜々子は浮かべていた。
師長はもう、何も言えなかった。がっくりとうなだれた師長の顔には、涙の川ができていた。
敗戦に次ぐ敗戦。次々と押し寄せてくる淫魔の大群。今やSクラスやAクラスのハンターですら、
次々と討死を遂げている。生還する保障はないということなど、菜々子も師長もよくわかっている。
そして、この身体が激戦に耐えうるものではないことぐらい、菜々子とて重々承知している。
「師長さん。あたし、必ず戻ってきますから。だから、だから……」
と、菜々子が言う。それ以上は言葉にならず、菜々子は師長の胸に飛び込んだ。
「いいの。いいのよ」
師長が菜々子の髪を優しくなでる。師長はもはや、菜々子を逃がすことをあきらめざるをえなかった。
自分にできることは、菜々子を快く送り出してやることだけだ。

バスがやってくると、師長は帽子を取り、一歩下がって菜々子に言った。
「あなたには幸せになってほしかったわ……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした師長に、菜々子は笑顔を見せ、こう言った。
「あたし、幸せでした。ここにこれてよかったと思います。やさしい師長さんに会えましたし、
 陽一郎さんにいっぱい愛していただけましたし」
「そうね」師長はハンカチで涙を拭いた。
「ごめんね、あなたの門出の日なのに。出陣前に涙なんか見せちゃって」
「いいんです、師長さん」
菜々子と師長は、握手をして別れた。


菜々子は運転手以外空っぽのバスに乗ると、一番後ろのシートに腰を下ろした。
その膝の上に、ぽたぽたと涙が落ちた。
――泣いちゃだめ! あたしの晴れの門出なんだから! 泣いちゃダメなの!
菜々子は泣くのをこらえようと、ぎゅっと歯を食いしばった。
けれども、療養所での思い出がそれを許さなかった。陽一郎と過ごした、楽しかった日々の思い出が。
人生の価値というのは、思い出の質で決まるものなのかもしれない。
だけど、その思い出があんまり良すぎたら、人生の最期を迎えるとき、あまりにも辛すぎる。
だがそれは辛くて悲しいのではなく、辛くて嬉しいのだ。
辛くて辛くて、そして、とてつもなく幸福なのだ。
――あたしって、なんてしあわせなんだろう。
そう思うと、菜々子の顔に自然に笑みがあふれた。菜々子は笑った。笑いながら、慟哭した。
誰をはばかることなく、菜々子は泣いた。





菜々子の戦死告知書が届いたのは、ちょうど菜の花畑が満開になった頃のことだった。



            ×               ×



それから十年。
戦争が終わると、陽一郎は医学を本格的に学び、今は医師として療養所に勤務している。
かつて菜々子が植えた菜の花畑は年々作付面積が広がり、今では春になると見渡す限りの
菜の花畑が、療養所や町の人々の心を慰めている。
そんな四月のある日の夕方、陽一郎は早めの入浴を済ませると、ふらりと菜の花畑に出かけた。
ビールを片手に、一面の菜の花を眺める。
春のやさしい風が金色の海を揺らし、柔らかな波をもたらしていた。
こうして菜の花畑を眺めていると、今でもあの時のことが鮮明に思い出された。あれ以来、
陽一郎のペニスが再び力を取り戻すことはなかった。菜々子の智慧が戻ったことを師長から
知らされたのは、あれからずっと後のことだ。それを聞いてから、もう勃たなくていい、
と思えるようになった。もう勃起する必要なんてないのだ。
今でもあの時のことを思い出すことができる。菜々子とひとつになった、あの時の思いを。
そして、つくづく思うのだった。
花を見せてやりたかった、と。
陽一郎は辛いことがあると、前線にいた菜々子から送られてきた手紙を読み返した。
そこには短く、こう記されていた。

「陽兄ちゃんへ
 お元気ですか。ななこは元気です。
 ななこがもどるまで、お花のせわをおねがいします。
 それではさようなら。お元気で。
                            ななこ」

菜の花の世話をすることで、陽一郎は辛さを忘れようとした。そして今も、菜々子に代わって
花の世話をしている。高い空の上からでもよく見えるようにと、いっぱいに菜の花畑を広げた。
いつか自分も天国に行ったら、菜々子に尋ねてやろうと思う。「お花、きれいだったろう?」と。
そして、天国でも二人で菜の花を咲かせるのだ。
陽一郎は一面に広がる金色の海をぐるりと見渡し、缶の底に残ったビールを飲み干した。
夕暮れの空の下、柔らかな春の風が、陽一郎の周りを吹きぬけていった。






おひさしぶりです。できればもうしばらく潜伏していたかったのですが。

エロシーンが少なくて申し訳ない。でも本当はもっともっと少なく、できればエロなしにしたかった。
12月をめどに自作のSS置場を自前で開設することを目標に作業を進めています。
アランとケイの物語の続きも書いています。
ここに投稿するのはこれが最後。urlが決まったら掲示板の方でお知らせします。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]