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菜の花 上



その女の子が療養所に入所してきたのは、陽一郎が働くようになって三年目の夏のことだった。
療養所にはさまざまな症状の患者が入院してくる。そのほとんどが、精神に異常を抱えた者たちだ。
そしてその全員が、元淫魔ハンターである。
淫魔と交わった際に受ける快楽は、人間のそれとは比較にならない。ハンターは、人間が耐えられる
限界をはるかに超えた快感を、それでも、耐えて戦わなくてはならない。
限界を超えた快楽は疲労となって身体に蓄積し、それが度重なると、精神や肉体に疾患となって現れ、
やがては廃人となるに至るのである。
度重なる患者の出現に、ハンター協会は対策を取った。ハンターに、六ヶ月間の戦闘任務と同期間の
休養期間を交互に取るように義務付けたのだ。
だが、10年前から始まった淫魔界との大規模な戦争は、日を追うごとに泥沼の様相を呈し、
規定はあってなきが如きものとなった。その結果、療養所に送られてくる元ハンターの数は、
うなぎのぼりに増え続けていた。

            ×               ×

陽一郎が菜々子を初めて見たのは、夏の終わりのことだった。
療養所の職員や患者の食料とするためのとうもろこしを、皆で収穫しているときのことだ。
緑色のさやに包まれたとうもろこしをもぎ取ろうと、実に手をかけたとき、後ろからシャツの背中を
引っ張られた。
「ねえねえ、アレとって」
舌ったらずの、甘えるような少女の声に、どこの子供かと振り向くと、そこにいたのは声の様子とは
裏腹に、大人の女だった。くりくりと動く大きな黒目がちな目と、愛くるしく笑う唇。見るもの
すべてを微笑ませずにはいないような、ぱあっと明るい花のような笑顔。童顔ではあるが、年のころは
二十歳前後といったところだろう。背丈も、160センチくらいはありそうだ。
真っ白なノースリーブのワンピースを着て、麦藁帽をかぶった女が指さす先には、一匹のバッタが
とうもろこしの葉に休んでいた。
最近入所してきた子かな。陽一郎はどうしようかと一瞬迷ったのだが、女の無邪気な笑顔に負け、
バッタを捕まえると、
「ほら、手を出して」
女の手に渡してあげた。
女は両手をお椀のようにしてバッタを受け取ると、それを顔の前に持ってきてじっくりと観察する。
そして満面にこぼれるような笑みを浮かべると、
「ありがとう!」
元気にお礼を言った。
すると女の声に驚いたのか、掌中のバッタはぴょこんと跳ね、とうもろこしの葉の陰に
紛れてしまった。
「ああっ」女は落胆の声を上げ、
「とって、とってぇ」と駄々をこねるように陽一郎に懇願した。
まるで子供だな。陽一郎はそう思いながらも、とうもろこしの葉をかき分け、バッタを探す。
その様子を、上役に見つけられた。
「こらぁ、橋本! なにをやっとる!」
「ハッ! ス、スミマセン!」
上役の声に驚き、陽一郎は慌てて気をつけの姿勢をとった。
「真面目に作業せんかぁ!」
「申し訳ありません! すぐに!」
上役が行ってしまうと、陽一郎はふうとため息をつき、そして女を見やった。陽一郎の様子が
余程おかしかったのか、女は口に手を当ててくすくすと笑っていた。
やれやれ、しょうがない子だ。その無邪気な笑いに、陽一郎の口元が思わずほころんだ。

            ×               ×

その夜、陽一郎は看護師長の岡本から女の話を聞いた。
「橋本君、知らなかったの? 有名人よ、あの子」
砂糖とミルクのたっぷりと入った紅茶を飲みながら、でっぷりと肥えた師長が言った。
「S級ハンター、中川菜々子よ」
「S級ハンター!?」
陽一郎が素っ頓狂に聞き返した。S級ハンターといえば、全世界でもその数は十指に満たない。
あの子供のような女がS級ハンターだったなどと、陽一郎には俄かに信じられなかった。
「でもね、淫魔に術法をかけられて幼児化しちゃったのよ。ココんとこだけ」
師長はこめかみを人差し指でトントンと叩いた。
その後、師長は菜々子について、色々なことを教えてくれた。菜々子の生い立ちや、ここに
入所するようになったいきさつやら、諸々のことを。
そして最後に師長が言った。
「橋本君、面倒見てあげてね。あの子、身体は大人だけど、知恵は六つか七つの子供と
 同じレベルなんだから」
「わかりました」
陽一郎は快く応じた。
「でもダメよ、橋本君。あの子にちょっかい出しちゃ――」
師長はそこまで言うと、ハッと何かに気付いたように急に口をつぐみ、申し訳なさそうに目をそらした。
陽一郎は不能だった。
陽一郎も、ここで看護師として働く前はハンターとして戦陣に身をおいていた。
苛烈な戦場に送り込まれ、連日のように淫魔と交じり合った。自身をヴァギナに挿入しての
戦いを得意とした陽一郎は、淫魔と相対するたびに、ペニスをすり減らすようにして戦った。
その結果、陽一郎は不能となった。
そうして患者として療養所に入所した陽一郎だったが、幸い精神的には何ら異常が見出され
なかっため、看護師として療養所で働くことになったのだった。
「ごめんなさい、橋本君」
申し訳なさそうにうつむく師長に、陽一郎は笑って答えた。
「いいんです。自分ではもう、勲章みたいなもんだと思ってますから」

            ×               ×

夏が終わり、秋が訪れた。
その間、陽一郎は師長の言葉通り、菜々子の面倒をよく見てやっていた。
四つ年下の菜々子を、陽一郎は妹のように可愛がった。この頃は滅多に手に入ることのなくなった
アイスクリームが手に入ると、いの一番に食べさせてやり、お絵かきをしたと言って画用紙を
持ってくれば、上手だねと頭を撫でてやった。
そんな風にやさしく接してくれる陽一郎に、菜々子も自然となついていった。陽一郎を
「陽兄ちゃん」と呼び、いつも陽一郎の後ろをついてまわるようになった。菜々子が見せる
イノセントな微笑みを、陽一郎は愛していた。
また、師長も菜々子のよき理解者だった。
元S級ハンターに対するひがみもあったのか、とかく菜々子には周囲からの風当たりが強かった。
戦時下、食料と労働力の不足はこの療養所でも深刻な悩みとなっていた。そのため、少しでも
動ける者は患者でも作業に従事させられていたのだが、菜々子にはその能力が不足しているとして、
免除されていた。
――なんでえ、働きもせずに遊んでやがって
入所者の中にはこのような不満を口にする者もいたが、師長がその不満の防波堤となっていたのだった。

そんな秋の夜のこと。
時計の針が夜九時を回った頃、陽一郎は定時の巡回を行っていた。
いつものように、陽一郎は病棟を端から端まで巡回し、最後に菜々子の部屋に向かった。
その日は十五夜で、陽一郎は自分の分の団子を菜々子に食べさせようと、懐紙に包んで携えていた。
病棟の角を曲がると、菜々子の部屋のドアが見える。ドアは半開きで、中から蛍光灯の光が
漏れていた。いつ誰が入ってくるか分からないからちゃんと閉めておくようにと何度も注意をし、
菜々子もその通りにしっかりと閉めていたドアが、今日に限って開け放たれている。
もしや……? 陽一郎は胸騒ぎを覚えて駆けだし、半開きのドアを乱暴に開けた。
中には誰もいない。荒れた様子もない。トイレにでも行ったのだろうか。陽一郎はしばらく
菜々子の戻りを待つことにした。
しかし、待てども待てども菜々子は戻らなかった。
陽一郎はナースセンターにとって返すと、師長に菜々子がいなくなった旨を報告した。
すぐに職員総出で菜々子の捜索が始まった。
菜々子はどこに……。時がたてばたつほど、陽一郎の胸は焦燥に駆られていった。
あらかた所内を捜し尽くすと、陽一郎は外に出て菜々子の姿を求めた。あちこち捜し回り、
陽一郎は最後に療養所の裏の林に分け入っていった。
果たしてそこに、菜々子はいた。
菜々子は裸同然の姿で仰向けに横たわり、呆然と夜空を眺めていた。身に着けている
ブラウスの前はずたずたに引き千切られ、スカートは腰までめくりあげられていた。そして
その傍らには、破けた菜々子の下着が泥にまみれて落ちていた。
瞬間、陽一郎はすべてを悟った。
「陽兄ちゃん!」
陽一郎の姿にハッと気づくと、菜々子はとっさに起き上がり、まくれていたスカートを下ろし、
ブラウスの前を合わせた。
「菜々子、大丈夫か!」
どう声をかけていいのかわからず、とにかく陽一郎はそう言った。
菜々子は起き上がると陽一郎に背を向け、
「大丈夫って……何が? あたし、ただお月様がきれいだから……」
子供なりに、マズイことが、辛いことが起こったということはわかっているのだろう。
けれども、陽一郎を心配させまいと、月を眺めていたなどと誤魔化す菜々子のいじらしさに、
陽一郎の心はざわめく木の葉のように揺れ動いた。
「菜々子!」
陽一郎は菜々子の身体に背中から手を回すと、ひしと抱きしめた。
「陽兄ちゃん、キツイよ……」
「ごめん」
菜々子を抱きしめる力を少し緩める。すると、菜々子は震える声で絞り出すようにこう言った。
「菜々子、いらない子じゃないよね? 役立たずじゃないよね?」

菜々子はみなしごだった。
菜々子の母親は売春婦で、西の方のさびれた宿場町にたった一軒ある売春宿の一番人気だった。
ある日現れた旅人との間に恋に落ちた菜々子の母親は、やがて菜々子をはらんだ。だが、一時は
駆け落ち寸前までいったほどの熱愛ぶりだったにもかかわらず、旅人の男は菜々子の母親に
妊娠を知らされた翌日には宿場町から姿を消していた。そして菜々子の母親は、菜々子を産んで
すぐに産褥の病気で命を落とした。
その後、菜々子は母親の親戚の家を転々と渡り歩かされた。素性の知れない男と世間をはばかる
淫売との間に生まれた菜々子は、どこでも邪魔者扱いを受けた。挙句の果て、十四になると
同時に、母親がいた売春宿に売り飛ばされる始末だった。
売春宿では、売れない女は排除される。掃除や洗濯といった雑務にありつける女はまだ運がいい。
さもなければ、宿を放逐されてしまうのだから。
思春期の娘にとって春をひさいで生きていくということは、大変な労苦だった。けれども、ここを
追い出されたら、自分はどうなる? もう、捨てられるのは、追い出されるのは、嫌だ。
切実な思いが、菜々子の歩む道を決めた。菜々子は必死で床の技を磨き、親譲りの美貌と相まって、
たちまち店のナンバーワンになった。そんなところをハンター協会にスカウトされ、やがてS級
ハンターとなったのだった。
そして、この療養所に入所してきたというわけである。

――菜々子、いらない子じゃないよね? 役立たずじゃないよね?
「何言ってるんだ!」
陽一郎が声を荒げた。
「おじちゃんたちが言ってた。働きもせずに遊んでばかりいやがって。お前みたいな
 ただ飯ぐらいの役立たずは、こうでもしなきゃ、ここにいる意味がないんだ……って」
震えるような声で、ぽつり、ぽつりと菜々子がつぶやく。
「菜々子!」
陽一郎は菜々子の正面に回り肩をつかむと、その顔をのぞきこんだ。
十五夜の光に照らされて、菜々子の顔は美しく、はかなく、あやうげに輝いていた。
「菜々子、ここにいちゃいけないの?」
すがるような瞳で、菜々子が問いかけた。
あまりにもいじらしく光る菜々子の瞳に、陽一郎の胸は万力で締めつけられるように痛んだ。
陽一郎はただ呆然と菜々子の瞳に見入っていたが、やがて、ゆっくりと左右に首を振った。
「いいんだよ。菜々子はここにいていいんだ」
陽一郎の言葉に、菜々子が何ともいえない、不安げな表情を浮かべた。
「ほんと? いいの?」
なおも尋ねる菜々子に、陽一郎は優しく言った。
「本当だよ。菜々子はここにいていいんだ」
「ほんとにほんとにほんとに?」
何度もすがるように確認を繰り返す菜々子の様子に、陽一郎の胸はいっぱいになった。
陽一郎は心の底から同情し、そして、菜々子の瞳をしっかりと見つめ、
「僕は菜々子にここにいてほしいんだ。僕と、ずっと一緒にいてほしいんだ」
と言った。
菜々子が泣き笑いの表情を浮かべる。その瞼にみるみるうちに涙がたまり、堰を切って
あふれると、頬に一すじの道となって流れた。
「泣くな。陽兄ちゃんがずっと菜々子のそばにいてやるから」
陽一郎は、その手で菜々子の頬を拭いてやる。すると菜々子は、
「陽兄ちゃん、……ギュッてして」
強く抱きしめられて心が緩んだのか、菜々子は声を上げて泣き始めた。
子供のように泣きじゃくる菜々子を抱きしめ、陽一郎は、強く決意した。
その数日後、陽一郎は菜々子を妻に迎えた。

            ×               ×

菜々子は自分が役に立たない存在であると他人から思われることを、いちばんに嫌った。
そんな菜々子に、陽一郎は内職の仕事をさせた。新任のハンターに支給するお守りを作る
仕事だ。仕事を与えられた菜々子は大いに喜び、ひとつひとつ丹精込めて、丁寧にお守りを
作っていた。作業のスピードはひどくのろいもので、収入もたかが知れていたが、陽一郎は
それを責めるようなことはなかった。仕事をすることで菜々子の心が満たされるのなら、
報酬の多寡など、どうでもよいことだった。
お守りを作る仕事に菜々子が慣れてくると、陽一郎は菜々子に新しい仕事を与えることにした。
秋も深まったある日のこと、陽一郎は町に出かけ、あちこち探し回って菜の花の種を買い求めた。
――そんな栄養にならんものを植えてどうする! 芋や南瓜を植えんか!
所長はそう言って、菜種を植えることを拒んだのだが、師長が、
――まあまあ、菜の花を見れば患者さんたちの心の病も癒えるかもしれませんよ。菜種から
  油も取れますし。
と、とりなしてくれたため、なんとか許可を得ることができた。
次の日の朝、陽一郎と菜々子は花の種を植える準備を始めた。
所長から割り当てられた土地は、畑ではなく、雑草の生い茂る荒地だった。
そのたった一坪ほどの土地の草をむしり、土を耕し、肥料を混ぜた。
そうやって作った小さな菜の花畑に、菜々子は手ずから種を撒いた。
「菜々子のお花、いつ咲くの?」
「来年の春だよ。これからうんと寒くなるけど、ちゃんとお世話するんだよ?」
陽一郎が諭すように教えると、菜々子は満面の笑顔を浮かべ、「うん!」と答えた。
その夜、菜々子は手の平が痛いと言い出した。無理もなかった。今まで手を酷使する作業を
したことがなかった菜々子が、ある日突然草むしりをし、鍬を持って土を耕したのだから。
「痛い?」と尋ねると、菜々子は顔をしかめてうなずいた。そして笑顔を浮かべ、
「でも、なんか嬉しい」と言った。「痛いけど、嬉しいの」
それから毎日、菜々子は自分と同じ名前の花を、一生懸命世話した。水を撒き、草むしりをし、
丹精込めて世話をした。花の世話を終えると、菜々子は菜の花畑の傍らにしゃがみこみ、
日に日に背丈が伸びていく緑の様子を、飽きもせずにじいっと眺めていた。




つづく

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